継承盃
継承盃 | |
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監督 | 大森一樹 |
脚本 | 松田寛夫 |
出演者 | 真田広之 |
音楽 | 加藤和彦 |
主題歌 | 吉田拓郎「夕映え」 |
撮影 | 仙元誠三 |
編集 | 荒木健夫 |
製作会社 | 東映京都撮影所 |
配給 | 東映 |
公開 | 1992年8月29日 |
上映時間 | 119分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
『継承盃』(けいしょうさかずき)は、1992年東映製作配給の日本映画。主演・真田広之、監督・大森一樹。
概要
「やくざ映画にしてやくざ映画にあらず、抱腹絶倒の人間喜劇」をテーマに[1][2][3][4]、時代錯誤も甚だしい古色蒼然たる代目承継式に右往左往する暴力団の滑稽さを描いたコメディ映画。
キャスト
- 吉成正一:真田広之
- 門田恵:古手川祐子
- 門田大作:緒形拳
- 花村利光:梅宮辰夫
- 堂場英吉:芦田伸介
- 千田忠:隆大介
- 繁田強三:川谷拓三
- 平瀬幹夫:湯江健幸
- 雁金厳:内田朝雄
- 谷地森金次:品川隆二
- 名古屋章
- 鹿内孝
- 大竹まこと
- 上田耕一
- 黒部進
- 羽野晶紀
- 千原しのぶ
- 阿知波悟美
- 若山騎一郎[3]
スタッフ
- 監督:大森一樹
- 企画:佐藤雅夫
- プロデューサー:奈村協・厨子稔雄・天野和人
- 脚本:松田寛夫
- 原作:森田雅
- 撮影:仙元誠三
- 美術:佐野義和
- 照明:渡辺三雄
- 音楽:加藤和彦
- 主題歌:吉田拓郎「夕映え」
- 録音:伊藤宏一
- 編集:荒木健夫
- 助監督:比嘉一郎
- 擬斗:上野隆三
- スチール:中山健司
- 企画協力:藤映像コーポレーション
- 製作:東映京都撮影所
- 配給:東映
製作
企画は当時の東映京都撮影所(以下、東映京都)所長・佐藤雅夫[1]。東映京都は、1950年代の時代劇~1960年代の任侠映画~1970年代の実録映画と上手く切り換えがなされ[1][2]、それぞれ黄金時代を創り上げ、1980年代は"不良性感度"の素材をいろんな形で創出し、年々厳しくなる映画興行凋落のパンチを何とか凌いで来た[1]。しかしヤクザ映画もかつてのパワーはなく、時たま製作する時代劇もジリ貧で[1]、東映京都としては長い間の課題である現代劇で活路を開くべく、度々トライを続け、1989年の『社葬』で未来への展望が拓けたと判断された[1]。翌1990年の『遺産相続』は配収5億円に届かず、『社葬』に比べ、約1億円配収を減らしたが、アウトロー路線以外の開拓は容易にできる道でないため、それらに続く人間喜劇(シリアスコメディ)路線として本作の製作を決めた[1][2]。また、『お葬式』『マルサの女』『ミンボーの女』などの伊丹十三監督による社会喜劇からの刺戟を受けた[1]。伊丹作品より多少重目で、情念芝居たっぷりに仕込んだシリアスコメディとして差別化を計りたいというコンセプトが打ち出された[1]。「今までのヤクザ映画はまちがっていました」と言って、深作欣二が怒鳴り込んだといわれる[5]。
監督・脚本
1992年3月の暴力団対策新法施行で様変わりした新路線として[2]、雰囲気をガラリと明るく変え、監督には青春映画の達人・大森一樹が抜擢された[2]。脚本は東映の勝負作を任されるようになった松田寛夫のオリジナル[2]。儀式の裏側で起きるヤクザのてんやわんやに上手く着目した[2]。設定も公開当時を舞台としている[2]。 製作が公表された1992年1月の時点では『社葬』のやくざ版と発表されていた[6]。
キャスティング
"真田広之、古手川祐子、緒形拳、大森一樹、吉田拓郎(主題歌)と、ヤクザ映画になんのゆかりもない人達が東映京都撮影所に集合"と宣伝された[7]。真田広之、緒形拳とも東映の常連スターだが、現代ヤクザを演じるのは初めて[1][4]。緒形は五社英雄監督作品で二度やくざに近い女衒の役を演じているが、古手川祐子は勿論、監督の大森も含めて四人はやくざ映画初体験である[1]。他にも異色のキャスティングが組まれた。
作品の評価
興行成績
こうした人間喜劇は、前宣伝で観客に面白さを伝えることが難しく[1]、過去の『蒲田行進曲』や『お葬式』なども封切り当初は観客動員のパワーは弱かったが、口コミで映画の面白さが伝わり尻上がりにパワーを増幅させた高配収を上げた[1]。しかし映画を取り巻く状況が1980年代とは大きく変わり、配収予想は難しかった[1]。
この年5月公開の東映自社製作『寒椿』と合わせ、作品の出来はよいと評価されたが[8]、『寒椿』配収2億5000万円で[9]、本作は2億円に届かず[9]、1992年の大手映画会社の封切劇映画では最低クラスの成績だった[9][10]。
キネマ旬報からは「ヤクザ映画はおちゃらけたらダメ」と評され[5]、東映は1993年もヤクザ映画を一杯ラインナップに並べていたため先行き不安視された[5]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 岡田剛(東映取締役東京撮影所所長)・佐藤雅夫 (東映取締役京都撮影所所長)「映画製作活性化を担う旗手たちは今... 撮影所長はプロデューサーなのか」『AVジャーナル』1992年8月号、文化通信社、22–27頁。
- ^ a b c d e f g h 「新作ビデオ紹介」『AVジャーナル』1993年2月号、文化通信社、46頁。
- ^ a b “継承盃”. 日本映画製作者連盟. 2019年7月30日閲覧。
- ^ a b 継承盃 東映ビデオ
- ^ a b c 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1992年10月下旬号、キネマ旬報社、161頁。
- ^ 「フジ共同製作二本etc 高岩淡専務会見」『AVジャーナル』1992年2月号、文化通信社、14頁。
- ^ 継承盃のチラシ - ぴあ
- ^ 「東映・岡田茂社長インタビュー 『危機と見るか体質改善好機と見るか』」『AVジャーナル』1992年9月号、文化通信社、22–23頁。
- ^ a b c 「1992年度邦画3社番組/配収」『AVジャーナル』1993年1月号、文化通信社、66–67頁。
- ^ 「惨敗続きの邦画秋の陣 正月興行作品に期待大」『AVジャーナル』1992年10月号、文化通信社、7頁。