第一号型輸送艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ジャリン (会話 | 投稿記録) による 2016年3月13日 (日) 17:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎同型艦)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

第一号型輸送艦
第4号輸送艦
艦級概観
艦種 一等輸送艦[1]
艦名
前級
次級
性能諸元(計画竣工時)
排水量 基準1,500トン
公試1,800トン[2]
全長 96.0(93.0[2]m
全幅 10.2m
吃水 3.60m
機関 ロ号艦本式缶2基
艦本式オールギアードタービン1基
1軸 9,500馬力
速力 22.0ノット
航続距離 18ktで3,700海里
燃料 重油415トン
乗員 148名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲1基
25mm3連装機銃3基
25mm連装機銃1基
25mm単装機銃4挺、合計15挺
爆雷34個[3]
レーダー 二号二型(対水上用)1基(1944年)
一号三型(対空用)1基(1945年)
ソナー 九三式水中探信儀1組
九三式水中聴音機1組
同型艦 21隻、未成1隻

第一号型輸送艦(だいいちごうがたゆそうかん)は、大日本帝国海軍輸送艦の艦級[4]。昭和19年度(1944年)に計画された強行輸送艦で、一等輸送艦に分類された[4]。当初は「特務艦特型」を略して「特々」と呼ばれていた。なお、一等輸送艦に分類された艦級が他に無いため、単に一等輸送艦と呼ばれることも多い[5]。日本海軍の公式分類は種別「輸送艦」、等級「一等」、艦型名「第一號型」[6]、艦名は「第○號輸送艦[7]」である。

日本海軍で最初にブロック工法を導入した艦型とされる[8]

概要

日本海軍はガダルカナルの戦いニュージョージア島の戦いなどソロモン諸島の戦いにおいて航空優勢の獲得に失敗し、敵制空権下に海上輸送を行うこととなった。低速の輸送船は航空攻撃を受けて容易に撃退されてしまい(第二次ソロモン海戦等)、高速駆逐艦を用いた輸送(鼠輸送)では大量の物資を運ぶことができなかった。そのため、高速大量の輸送ができる新型輸送艦の開発と配備が各方面から求められていた[9]。例えば1943年(昭和18年)3月3日のビスマルク海海戦で駆逐艦「時津風」以下護衛駆逐艦4隻・輸送船8隻を撃沈された第八艦隊戦闘詳報の中で『高速小型輸送船(差當リ駆逐艦巡洋艦ノ改装ニ依リ)ニ依リ輸送力強化ヲ要ス』と訴えている[10]。これらの要望に応える形で、「敵制空権下で最前線に高速補給を行う」ことを主任務とする本型が登場した[8][5]。また同様の経緯で、日本陸軍と共同使用を前提としたSB艇(二等輸送艦)も開発され、最前線に投入されている[9]

本型は1943年(昭和18年)から設計に入っている[11]。当初は丁型駆逐艦(松型駆逐艦)の主機械を一軸に減らし、空いた部分に物資を搭載するという計画だったが、のちに輸送能力を強化した新艦型を設計することになった[12]。本来の任務たる急速補給任務にくわえ、大発動艇水陸両用戦車を搭載しての攻撃的運用も要求されたため、艦尾発進のためのスロープを設けることにしたのである[12]

第一号艦は昭和18年11月5日に起工、1944年(昭和19年)2月5日、一等輸送艦・第一号型という艦種が制定[4]。2月8日に進水、5月10日に竣工した[12]。前甲板には自衛用の12.7cm連装高角砲を装備し、対潜装備として爆雷や水中探信儀も装備された[5]。輸送船団と行動を共にする場合、護衛艦としての任務も兼ねることが出来た[5]。後期艦には四式水中聴音機も装備されるなど、対潜兵装は強化されている[3][11]大発動艇などの上陸用舟艇搭載のためデリック3基を装備し、後部甲板がスロープになっている。揚陸作業の際はスロープ上からそれらを泛水させる。速力10ノット程度ならば甲標的の洋上発進可能と判明したため、太平洋戦争末期にはここに甲標的回天を搭載・輸送した艦もあった[5]。同様にスロープを流用して機雷敷設艦任務にも使われた。大発動艇4隻、補給物件300トンの輸送を可能としている[3][13]。ブロック建造方式を採用し、生産性も考慮されていた[11]呉海軍工廠で建造された第一号型は、大和型戦艦1番艦「大和」を建造した船渠で二隻ずつまとめて建造され、約1ヶ月での船台工程約1ヶ月での完成を目指したという[5]。同地では海岸に本型の実物大模型を製造し、各種の試験や実験をおこなった[5]

46隻が計画され、21隻が建造[14]。未成1隻。21隻中16隻が戦没した。完成後、僅かな訓練時間を経て戦地に投入され、その作戦性格上、強行輸送に投入され、二等輸送艦と共に殆どの艦が失われた[9]。また、敗戦時の軍部の内部文書焼却で、沈没位置や最後の様子、正確な乗員の名簿、乗員の構成すら残っていないものも多い。

戦後、特別輸送艦の指定を受けた艦は「輸第何号」と改称のうえ復員輸送や捕鯨に従事した[15]

捕鯨任務

第二次世界大戦後の一時期、残存艦船の一部は艦尾のスロープを利用し、船倉に冷蔵庫を増設、中部甲板に鯨油採取のためのプレスボイラーを設置し、捕鯨母船への改装が施された[16]。そして民間の大洋漁業株式会社(マルハ旧称)極洋捕鯨に貸し出され、小笠原近海捕鯨に従事している[11]。第三次にわたる戦後日本最初の捕鯨活動業績は以下の通り[17]。なお各艦は捕鯨業務中に運搬船と合流、燃料・真水・生鮮食品を受け取るかわりに鯨肉を移載しているので、下記の全頭の鯨肉を艦内に積載したわけではない[18]

  • 第二次捕鯨:第16号輸送艦、第19号輸送艦 《大洋漁業》
    • 1947年(昭和22年)2月~4月
    • 座頭鯨1、鰯鯨101、抹香鯨115:合計217頭
  • 第二次捕鯨:第13号輸送艦 《極洋捕鯨》
  • 第三次捕鯨:第9号輸送艦、キャッチャーボート「関丸」、「第五関丸」、「第七関丸」[19] 《大洋捕鯨》
    • 1948年(昭和23年)2月15日~5月10日
    • 白長須鯨1、長須鯨1、座頭鯨2、鰯鯨77、抹香鯨74:合計155頭

同型艦

竣工日(建造所)。戦歴と喪失原因(喪失場所)日時。もしくは戦後の様子。
建造所は三菱横浜=三菱重工業横浜造船所、呉=呉海軍工廠

第1号
1944年5月10日(三菱横浜)。1944年5月25日、館山出港サイパンへ。6月11日サイパンよりパラオへ向けた船団の護衛中、6 月13日に米軍機の攻撃を受けて航行不能。明島丸に曳航されてパラオに帰還。7月18日、ガランゴル島の北側泊地で敵の上陸戦阻止の目的で浮砲台として配備。7月27日航空機より直撃弾4発を受け沈没(パラオ)。
第2号
1944年6月25日(三菱横浜)。1944年8月3日、スカベンジャー作戦で来襲の空母機(父島二見港)の攻撃を受け被弾かく座、航行不能。8月5日荒天により岩礁に激突して沈没。
第3号
1944年6月29日(呉)。1944年9月15日、ミンダナオ島で座礁中に米潜水艦「ガヴィナ」よりの魚雷2本を受けタンクが破裂炎上し火災により沈没。
第4号
1944年6月15日(呉)。1944年8月4日、スカベンジャー作戦で来襲の空母機40機と交戦炎上。父島湾にかく座したが、船体は浸水全没。
第5号
1944年8月5日(呉)。1944年8月17日に甲標的の水上発射実験を情島沖で行い成功させた。9月14日、航空機よりの攻撃で爆弾3発が命中、沈没(ダバオ付近)。
第6号
1944年8月19日(呉)。1944年10月31日第一次多号作戦に参加陸兵350名の輸送に成功。第五次多号作戦に参加、11月25日マリケド島に退避中、航空機による攻撃で被弾沈没(フィリピン・マリケド島パカナラン湾)。
第7号
1944年8月10日(三菱横浜)。横須賀~硫黄島、横須賀~八丈島、横須賀~父島間の輸送に成功。1944年12月27日、横須賀より硫黄島への輸送作戦で、硫黄島での荷役中、米軍巡洋艦3、駆逐艦4より砲撃を受け、かく座炎上大破。
第8号
1944年8月13日(三菱横浜)。1944年12月24日、父島硫黄島方面への輸送からの帰還時、米艦隊に遭遇捕捉されて、砲撃戦により沈没(父島南南東77カイリの地点)。
第9号
1944年9月20日(呉)。1944年10月24日よりカガヤン~オルモック間の輸送(多号作戦)に数次成功。その後12月1日マニラ~サンフェルナンド間の輸送作戦に従事、12月4日には米駆逐艦4、魚雷艇3と交戦。1945年(昭和20年)1月に香港経由で本土に物資輸送。2月21日横須賀回航後、7月29日まで横須賀~八丈島~父島間の輸送に12回成功。8月12日佐伯へ海龍輸送後、呉で終戦を迎える。復員輸送に従事したのち、1947年(昭和22年)賠償艦として米軍に引き渡されたが、米国に回航されることなく太平洋漁業に貸し出されて、ブルワークや船尾に誘導板を設置して捕鯨船母船として運行。のちスクラップ扱いとして売却され、1948年(昭和23年)6月、石川島で解体。竣工以来、幾多の作戦に従事し生き残った武勲めでたい艦。
第10号
1944年9月25日(呉)。9号と同行し佐世保よりマニラへ。1944年10月23日マニラ出港ごカガヤンよりオルモックへ陸軍部隊を輸送、軽巡洋艦鬼怒、駆逐艦浦波の乗員を救助して、27日マニラへ。第二次と第四次の多号作戦に参加し輸送成功。11月13日マニラをより出港し新南群島で戦艦伊勢日向の便乗者を移乗してマニラへ帰港。24日第五次多号作戦に参加、25日フィリピンのマリドック島パリナカンで米軍機約40機と交戦沈没。
第11号
1944年11月5日(呉)。1944年12月7日、航空機(レイテ島サンイシドロ)大破放棄。
第12号
1944年11月11日(呉)。1944年12月12or13日、米潜水艦「トートグ」の雷撃で沈没。(高雄南東)。
第13号
1944年11月1日(三菱横浜)。戦後復員輸送艦となる。1947年、捕鯨母船として改装された後、極洋捕鯨に貸与され、日本水産と共同での捕鯨母船として操業。同年8月8日にソ連へ引き渡し。
第14号
1944年12月18日(呉)。1945年1月15日、航空機の攻撃により沈没。(高雄)。
第15号
1944年12月20日(呉)。1945年1月17日、呉から鹿児島へ向かう途中、米潜トートグ (潜水艦)よりの雷撃で沈没。北緯31度8分、東経130度28分。
第16号
1944年12月31日(三菱横浜)。戦後復員輸送艦となる。1947年、19号と共に小笠原近海に大洋漁業の捕鯨母船として出動。両艦で本土へのピストン輸送を行う。1947年8月29日、青島中国へ引き渡し。中国名「武夷」。
第17号
1945年(昭和20年)2月8日(呉)。1945年3月16日~27日沖縄へ蛟龍、軍需品の輸送に成功。4月2日奄美大島へ挺身輸送し軍需品の陸揚成功後米軍機の空襲により沈没(大島瀬相湾内)。
第18号
1945年2月12日(呉)。1945年3月13日第二特攻戦隊光突撃隊回天基地で第一回天隊(隊長:河合不死男中尉、以下127名)と回天8基を載せ佐世保に入航、16日佐世保を出航して沖縄へ輸送中、3月18日に粟国島の北北西至近の北緯26度39分 東経127度13分(渡名喜島付近)の地点で米潜水艦スプリンガー(SS-414:Springer)より三回の魚雷攻撃を受けるなど1時間にわたる交戦の末、撃沈された。艦長(大槻勝大尉)以下225名総員戦死。なお、第一回天隊全員と8基の回天も艦と運命を共にした。
第19号
1945年5月16日(呉)。戦後復員輸送艦となる。1946年、旧乗組員以下80名全員が大洋漁業に賞与され、捕鯨母船として2月24日に大洋の社旗と軍艦旗を掲揚し、軍艦マーチを鳴らしながら呉を出航。小笠原近海に出動。翌1947年も操業に従事したが、11月20日イギリスへ引き渡されたのち日本の民間会社にスクラップ扱いで売却され、1948年浦賀で解体。
第20号
1945年4月23日(呉)。1946年(昭和21年)9月25日、復員輸送中に澎湖列島で座礁放棄。
第21号
1945年7月15日(呉)。1945年8月9日午前8時、和歌山へ向け出航、午前11時ごろ小水無瀬島付近にて米軍小型機群に捕捉され、空襲により機関故障航行不能となる。その後機関復旧するも戦闘航行は不可能となり呉に艦首を向ける途中小火災も発生、浸水も始まり呉までの航行も難しくなり航路筋の小島「愛媛県津和地島」の砂浜に座礁させる。兵科将校8名中4名戦死、4名重傷、乗組員中63名戦死、重軽傷者100名余り、津和島の人々と無事だった乗組員で誘爆する弾薬の中、戦死者、負傷者の搬出を行った、同輸送艦は同日夜半横転、船尾より沈没する、誘爆による民家の被害も出た中、島民総出の救出、看護があった。
第22号
未成(呉)。1945年6月23日工事80%で中止。1948年呉で解体。

類似艦船

ある程度の戦闘力を備えた高速小型の舟艇母艦という性格の艦艇は、ほかにも存在する。日本海軍では、戦前に旧式化した駆逐艦の一部を改装し「哨戒艇(第一号型哨戒艇第三十一号型哨戒艇)」と称していたが、その多くには太平洋戦争開始直前に再度の改装が行われ、後部にスロープが設置されて陸戦隊上陸用の大発が搭載可能となっていた。大戦中盤以降の睦月型駆逐艦も、艦尾をスロープ状にして大発動艇運用能力を高めた艦があった。アメリカ海軍でも、旧式駆逐艦や護衛駆逐艦を改装して上陸用舟艇を搭載した高速輸送艦(APD)を建造している[5]

脚注

  1. ^ #主要々目及特徴一覧表p.11『艦種:一等輸送艦|艦名:一號』
  2. ^ a b #主要々目及特徴一覧表p.11『基準△:1500t|公式△:1800t|主要寸法LWL:93.0、B:10.2、D:6.50、d:3.60、|速力:22kt|SHP:9500|航続力:18k-3700|機関:タービン×1、缶×2|軸数:1|19年度20、20年度14』
  3. ^ a b c #主要々目及特徴武装p.11『主要兵装/砲:12.7高角砲×1、機銃:25mm3連装×3、25mm連装×1、25mm単装×15、13mm単装×5|爆雷34|探艦:三一型×2|水聴:四式×1|電探:二二号×1|其他:大発×4 補給物件300t』
  4. ^ a b c #内令昭和19年2月(1)p.47『内令第二百九十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年二月五日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦大鷹型ノ項中「、冲鷹」ヲ削ル|輸送艦、一等峯風型ノ項中「、沼風」ヲ、同二等若竹型ノ項中「、芙蓉」ヲ削ル|潜水艦、二等呂百型ノ項中「呂號第百、」ヲ削ル|海防艦ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |輸送艦|一等|第一號型|第一號| 』
  5. ^ a b c d e f g h #日本補助艦艇物語109-110頁『(1)第一号型(一等輸送艦)』
  6. ^ 海軍大臣官房編集「艦艇類別等級(別表)」(昭和19年2月5日付 内令第296号に係る改訂分以降に収録)、および本艦型艦名の加除に係る各内令による。
  7. ^ 昭和19年2月5日付 内令第297号ほか、本艦型艦名の命名もしくは各艦本籍地の決定に係る各内令による。「○」の部分には漢数字が入る。また「輸送艦」を追加した後の「艦艇類別等級(別表)」の【備考欄・四】において砲艦、海防艦、輸送艦を呼称するには「砲艦何」「海防艦何」「第何号輸送艦」を以てすと明記されている。
  8. ^ a b #主要々目及特徴一覧表p.11『摘要(特徴)|敵制空下ヲ突破シ第一線ニ高速補給ヲス。大発4隻艦尾ヨリ発進可能又特型戦車ノ発進可能。多数建造ノ為模型ニヨリ艦体ヲ陸上ブロックニヨリ加工、艤装後ノ一部ヲ取付ケル方式ヲ採用セル最初ノ艦型。工数5900、期間4ヶ月』
  9. ^ a b c #日本補助艦艇物語107-108頁『輸送艦』
  10. ^ #昭和17年9月~第8艦隊日誌(6)pp.24-25『八十一号「ラエ」作戦々訓ニ鑑ミ左ノ件至急実現ノ要アリト認ム』
  11. ^ a b c d 小艦艇入門―海軍を支えた小艦徹底研究 木俣滋郎 光人社 ISBN 9784769822547
  12. ^ a b c #戦史叢書海軍戦備(2)98頁『一等輸送艦』
  13. ^ #日本補助艦艇物語109頁(14m大発動艇四隻、自艦用13m中発動艇1隻)
  14. ^ #日本補助艦艇物語110頁(三菱横浜5隻、呉工廠16隻)
  15. ^ 昭和20年12月20日付 第二復員省 内令第12号。
  16. ^ #最後の海空戦232頁
  17. ^ a b #最後の海空戦231頁
  18. ^ #最後の海空戦234頁
  19. ^ #最後の海空戦233頁

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A03032074600『建造中水上艦艇主要々目及特徴一覧表』。 
    • Ref.C08030023000『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(6)』。 
    • Ref.C12070194400『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年2月(1)』。 
  • 片岡紀明『最後の海空戦 若き最前線指揮官たちの日米戦争』光人社、2003年12月。ISBN 4-7698-1164-0  230-235頁:横山嘉司(《海軍機関学校55期》、昭和22年11月より「第九号輸送艦」勤務)談。
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993month=12。ISBN 4-7698-0658-2 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書88 海軍戦備(2) 開戦以後』朝雲新聞社、1975年10月。 
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6

関連項目

外部リンク