樺太1945年夏 氷雪の門

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樺太1945年夏 氷雪の門
監督 村山三男
脚本 国弘威雄
製作 望月利雄
守田康司
製作総指揮 三池信ほか
出演者 二木てるみ
藤田弓子
岡田可愛
鳥居恵子
木内みどり
岡本茉莉
音楽 大森盛太郎
主題歌 九人の乙女
撮影 西山東男
編集 エディー編集室
配給 東映洋画部
公開 日本の旗 1974年8月17日
上映時間 109分(公開時)、153分(ホール等での上映時)、119分(再公開時)
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
製作費 2億3千万円
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樺太1945年夏 氷雪の門』(からふとせんきゅうひゃくよんじゅうごねんなつ ひょうせつのもん)は、1974年公開の日本映画。株式会社JMPが製作。

1945年昭和20年)8月15日玉音放送後も継続された、ソ連軍樺太(現サハリン)侵攻がもたらした、真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の最期(真岡郵便電信局事件)を描いている。

あらすじ

終戦間際の1945年(昭和20年)夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた(樺太の戦い)。緊急疎開が開始され、婦女子、老人、病人を中心とする避難民は群をなして真岡町(および大泊町本斗町)の港に向った。8月15日には玉音放送によって終戦が告げられている。疎開船も順次出港したが、疎開民が乗った非武装船三隻が留萌沖で国籍不明の潜水艦によって攻撃され、疎開民のほとんどが犠牲になるという事件も起こった[注釈 1]

8月20日、ソ連軍は真岡町への上陸を開始した。志願して職場に留まり、そのために追い詰められた関根律子ら女性交換手達は、各地で市民が次々と殺害される状況を通信で知り、自らも青酸カリによる自決を選んだ。死に際して、両足を紐で固く結んでいる者もいた[注釈 2]

9人の乙女の像にも刻まれた「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が通信最後の言葉であった。

製作の経緯

舞台は玉音放送後の樺太。ソ連軍が迫る中、最後まで電話交換手業務を続けた真岡郵便電信局の電話交換手だった9人の乙女の最期を中心に、ソ連による南樺太侵攻の史実に基づく映画。

原作は金子俊男の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』。氷雪の門とは北海道稚内市稚内公園内にある樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑。同公園内にある九人の乙女の像は9人の電話交換手の慰霊碑である。

新東宝のプロデューサーだった望月利雄が真岡郵便電信局事件の映画化を立案。まず八木保太郎に脚本執筆を依頼したが、八木稿は反戦色の強い脚本となり、望月の製作意図にそぐわないものだった。次いで松山善三に依頼したが、松山稿は今日的視点から28年前の悲劇を見つめ直したもの[注釈 3]で、これも望月のイメージとは重ならなかった。そこで望月は国弘威雄に依頼、折しも発刊された金子俊男の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』を原作にして国弘稿が脱稿された[1]

国弘の当初の構想では、真岡郵便電信局事件での生存者たち、すなわち「服毒後、意識を取り戻され現在(1973年)も生存される方」「たまたま引き揚げる家族を見送るために、砲撃直前、局を出られたと思われる方」「緊急連絡のために局を出られた方」[注釈 4]たちを主人公とすることを念願していたが、取材に応じてくれた非番の交換手から、「生きのびた服毒者」[注釈 5]の深い悔恨を知らされて断念するに至り、「12人編成が正しいと思われる」交換手の編成をあえて9人として生存者については触れないことにした。そのため「この脚本の中に、事実関係の設定上で、全く事実と違うところがある」と国弘は断り書きをしている[注釈 6]。すなわち、完成した映画『氷雪の門』でも、9人編成の全員が一斉に服毒死を遂げたとしている部分は史実とは違うフィクションである。

一方、製作資金集めに奔走した望月は、知人の斡旋で興行会社社長を紹介され、さらに同社長が戦前勤めていた会社の先輩であった三池信衆議院議員が協力を約束した。1972年(昭和47年)5月に三池代表取締役会長、望月専務取締役守田康司常務取締役[注釈 7]などの顔ぶれで、株式会社ジャパン・ムービー・ピクチュアー(JMP)が設立され、1973年(昭和48年)5月末に『氷雪の門』は撮影を開始した。

製作費のうち1億8千万円は、建設企業30社の東京建設協会(代表幹事:大成建設)をはじめとする協力企業に、単価500円の製作協力券(公開時点で前売券に換わる)を買ってもらうことで賄う計画を立てていた[注釈 8]。100万枚を売りさばけば5億円、うち5割(約2億5千万円)は上映館側の取り分で、3割5分(約1億8千万円)が製作費に充当される勘定である[1]。JMPによれば、公開予定の直前までに70万枚の製作協力券を発売したという[2]

ソ連軍戦車の進撃場面には陸上自衛隊の協力が必要と感じた望月は、4年にわたり防衛庁と交渉を続けていた。第2次田中角栄内閣で防衛政務次官を務めていた箕輪登が、このときの交渉相手の一人である。望月の努力が実って、御殿場で撮影された戦闘場面には、陸上自衛隊の戦車[注釈 9]18台がソ連戦車として登場[注釈 10]している。

完成した『樺太1945年夏 氷雪の門』は、多くの団体から推薦を受けた[注釈 11]。さらに主演の女優たちが田中角栄首相と懇談する席が設けられるなど、前宣伝もおおいに盛り上がった。当初は1974年(昭和49年)1月中旬、全国主要都市でのロードショー、2月下旬一般封切が予定されていると報じられていた[1]。その後、3月30日から丸の内東宝、渋谷宝塚など東京5館で、ついで札幌、大阪、福岡などの計9館で全国ロードショー公開することを決定した[3]

市をあげて映画に協力した稚内では、3月1日から8日にかけて全国に先駆けて稚内劇場で上映が行われたが、毎回行列ができる盛況ぶりで、5万5千人の市民の半分にあたる入場者数最高記録を樹立した[4]

上映中止と上映館削減

1974年3月7日、モスクワで開かれた東宝モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』の完成披露パーティーの席上、モスフィルム所長ニコライ・シゾフ[注釈 12]が東宝系劇場での『氷雪の門』の上映にクレームをつけ、なりゆき次第では『モスクワわが愛』の「公開にも支障が出そうな気配になっている」と、3月12日の東京新聞夕刊に報じられた。さらに、3月14日の同紙夕刊では、東宝の松岡功営業本部長、越塚正太郎興行部長らが12日に協議の結果、「ソ連との友好関係を損ねる恐れがある」と判断、「JMPへの劇場賃貸を断ることにした」と報じられた。

この東京新聞のスクープを後追いする形で、各紙の報道が始まっている。たとえば読売新聞の取材に対し松岡はソ連からの圧力を否定し、そもそも公開も決定したわけではなく検討段階だったが、「観客動員問題などで、こちらと条件がかみ合わないから断った」とコメントした[3]。しかし実際は東宝系公開スケジュールは発表されており[注釈 13]、JMPも宣伝ポスター5万枚を作成。各地のプレイガイドで単価700円の一般前売券の販売も始まっていた。また松岡は「日ソ友好の『モスクワわが愛』もあることですし、自主的にやめたということです」と含みのある説明もしている。『モスクワわが愛』のソ連ロケに参加した関係者の話では、ソ連では『氷雪の門』が話題になっており、「公開は好ましくない」という声が出ていたという[3]

(これらの記事の多くは、「東宝配給の予定だった」としているが、すべて誤りである。一連の東京新聞のスクープ記事では、「『氷雪の門』は東宝が配給するわけではない」「公開は配給形式ではなく、JMPが東宝系の映画館を借りて行う興行形式だ」と関係者が繰り返し述べている。その一方、「劇場賃貸」「映画館を借りて行う」という表現も不正確で、賃借料定額の貸館興行のように受け取られるおそれがある。現実には着券した製作協力券の枚数によって、興行側の取り分が増減する通常興行を企図していたことは、前節の製作協力券の配分方式により明らかである。製作会社JMPと東宝興行部の間で上映に関する内諾があった、と解すべきであろう。なお正式の上映契約には至っていない[注釈 14]

3月23日には、日本向けのモスクワ放送が、「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対して非友好的」という論評を流している。タス通信も「ソ連国民とソ連軍を中傷する反ソ映画」と論評した[4]

『氷雪の門』の監督村山三男は、この件の真相究明への協力を日本映画監督協会に3月20日に依頼、同協会事務局は関係方面の事情聴取を行なっており、その要点をまとめた記事が『日本映画監督協会の五〇年』(柿田清二、1992年)に載っている。事の焦点である圧力については、望月・守田は「ソ連当局から、この映画を上映すれば、「双方の友好関係が壊れる」旨の書簡が来たので上映出来なくなった、と(東宝から)言われた」と言い、それに対して東宝興行部の越塚らは「JMPは勘違いしている。上映を中止したのは、契約条件が整わなかったからだ。ソ連への配慮もあったが、文書など来た事実はないし、東宝が自発的にしたことだ。最終的には、JMPの方から白紙に戻したいとのことだった」と言う。また同書には、外務省東欧第一課の話として、2月14日に在日ソ連大使館より「『氷雪の門』の上映は、日ソ関係の発展に資するものではない。何等かの措置をとるよう要請する」との申し入れが同課にあったとあるが、その申し入れが文書によってなされたものか、それとも担当者限りの口頭申し入れであったか、またその内容が東宝側に伝わっていたかどうかは同書の記述では判然としない。その後、『氷雪の門』の東映パラス系公開が決定した時点で、「問題解決」とみて監督協会による調査は終了している。

4月5日には国弘威雄や、『モスクワわが愛』の日本側監督吉田憲二らが集まって座談会を行ない、その模様は「月刊シナリオ」1974年6月号に掲載されている。この中で吉田は、「東京のソ連大使館が内容を反ソ的とみているという話が当地に伝わってきており、代わりに『モスクワわが愛』の封切りさしとめの声も出ている」とする東京新聞モスクワ特派員の報告(3月12日夕刊)のうち、『モスクワわが愛』の封切りさしとめの部分は誤報と指摘している。そして、シゾフが『氷雪の門』について情報を得たのは、(大使館=外務省ルートではなく)在日ソ連通商代表映画部からの連絡に基づくものだろうと述べた。

さらに吉田は、3月7日(モスクワ時間)のパーティの様子についても触れた。このパーティは、将来の合作や友好関係について話し合う席であったが、シゾフの発言はその流れの中で、「一方でこうやって友好的に映画が出来上っていくかたわら、非常にソビエトにとっては面白くない映画が日本で上映されようとしている。それも東宝が配給するという[注釈 15]。私たちはそれが本当だとしたら、ちょっと理解に苦しむところがある」との趣旨であったという。これを聞いた『モスクワわが愛』の東宝側プロデューサー安武龍は、『氷雪の門』に対して知識がなかったことから、「至急調べまして」回答しますと答えている。ところが、このことを聞きつけた東京新聞のモスクワ特派員が、シゾフの「疑問表明」を「圧力」だとして本社に報告、これを受けて東京新聞本社が東宝本社に取材、「東宝の営業部[注釈 16]は驚いてモスクワに電話をかけ」、安武は帰国して現状を報告すると答えたが、先行して10日に帰国した吉田に「ワンサワンサと取材が」きて、翌々日のスクープ記事につながった、としている。

ここで吉田は、「日本の映画会社に対する上映中止要請だとすれば当然、ソビエトの映画委員会[注釈 17]を通して文書で云ってこなければ正式の効力もないわけでしょう」と指摘、国弘も「東宝に対してソビエトから外務省を通じての正式な中止要請があったかどうか今以って明確ではありません」と言っている。これに対して、「月刊シナリオ」編集長松本孝二は、3月12日の東京新聞夕刊には東宝営業本部副本部長後藤進のコメントとして「ソ連側が神経質になっているのは確か。11日の営業会議でもその件を話し合ったが、私としては先方に刺激を与えるのはまずいと思う」とあることを指摘、「ソ連側」[注釈 18]から何らかの意志表示はあったと結論づけている。この座談会は、東宝の興行者としての見識不足を批判して、何らかの処置を取るべきということでは一致している。

なお、「月刊シナリオ」1974年6月号には、親ソ派で知られる映画評論家山田和夫や映画監督山本薩夫が『氷雪の門』への見解を寄せている。このうち山本は、「作品は観ていない」と断ったうえで、シゾフが安武に話した言葉を「ソビエト側からの正式見解とするのは明らかに間違いだ」としている。そして、JMPが「30万人なりの観客動員を東宝に約束しておいて、それが出来なかったというから、東宝としては渡りに舟というと悪いが、「氷雪の門」の配給をよす」気になって手を引いたと思われるので、この問題を外国からの侵害という視点で捉えるのは不適切であり、映画の不出来による商業的判断と解すべきと口頭によりコメントした。山本は『氷雪の門』について東宝とJMPの間に配給契約があったと誤解しており、「30万人なり」という情報の出所も明らかにされていない。「前売券」の保証をめぐって東宝とJMPの間で争いがあったことは、国弘威雄も認めているが、この山本のコメントに対して国弘は「作品も見ていないのに」と激怒した(後述)。

この後、松岡らは、東映岡田茂社長を訪ね、「東宝は社内事情で公開できないので宜しく」と依頼した。東映側は決定に先がけて、事前に在日ソ連大使館の参事官に話を通したところ、「たいへん結構です」と言われ、その報告を受けた「ソ連本国」[注釈 19]からも岡田あてに感謝のメッセージが届いたという。岡田は、「営業面でもひとつのメドがついたので東映洋画部配給ということでJMPとの間で話がまとまった」と説明している[5]。6月25日に東映とJMPの間で正式調印が行われ、『氷雪の門』は札幌では7月27日から、東京では8月17日から新宿東映パラスなどで4週間のロードショーが決まった。

ところが、公開直前になって、興行規模が大幅に縮小された。札幌東映パラスこそ7月27日から8月30日までの5週興行であった[注釈 20]が、新宿東映パラスなど本州の上映館は全て削減され、札幌以外の北海道九州[注釈 21]では8月17日からの2週間ほどの劇場公開になった[6]。だが、その理由は今だ明らかになっていない。東宝による上映中止を大きく取り上げた各紙も、東映による上映館削減の理由については報じていない。(その後の報道でも、東宝と東映を混同して「配給会社がソ連の圧力に屈して全国公開が阻まれた」とする不正確な論調が多い)

JMP役員の裏切り

1974年3月31日、JMPの役員の一人が、北海道室蘭市のバス会社の代表取締役社長に就任したが、翌1975年(昭和50年)4月10日に退任、5月には同社から特別背任容疑で札幌地検室蘭支部に告訴され、9月に逮捕、10月に起訴された。容疑の中核は、十六億七千万円にのぼる同社の手形を不正に乱発し、同社に実質五億円の損害を与えたことによる。この大型背任事件については、北海道新聞[7]朝日新聞[8]毎日新聞[9]サンケイ新聞[10]等で報じられ、参議院の運輸委員会でも質疑応答[11]がなされている。同役員に対しては札幌地裁が懲役3年6月の実刑判決を1981年(昭和56年)7月6日に言い渡し、控訴棄却、上告棄却を経て1984年(昭和59年)4月までに確定した[12]

それらの記事によると、同役員は再建屋を自称しているが実態は整理屋であり、1973年夏頃にバス会社の経営難を聞きつけるや早速接近、衆議院の運輸委員長であった三池の信用を餌にバス会社に社長として乗り込んだが、まともな再建策は講じず、手形乱発により損害を与えて倒産に追い込んでいる(その後、バス会社は再建)。1974年5月には、JMPに対する三池からの融資[注釈 22]の返済に、JMPの業務とは無縁のバス会社の七千五百万円の手形を充てようとしたが、この手形は三池から返却されている。バス会社への接近工作が1973年夏から1974年3月にかけて、手形乱発は1974年4月から9月にかけてのことで、同役員はこの大事な時期[注釈 23]に、JMPの業務よりもバス会社の乗っ取りに熱中していた。三池、望月、守田ら他の役員は映画製作を志してJMPを興したが、同役員だけは詐欺の舞台装置としてJMPを利用したというのが、この事件についての各紙社会部・経済部の記事の論調であった[注釈 24]

ところが、これらの記事は、映画『氷雪の門』を巡るその後の報道に生かされなかった。映画記者と社会部・経済部記者との情報のギャップによるものと思われるが、そのため村山三男、国弘威雄をはじめ『氷雪の門』一作かぎりの契約スタッフや出演者の大多数は、同役員の一連の怠業と不正を知らないまま過ごした[4]。事情を知っている他の役員は騙されていたことを羞じてか、あるいは同役員の法廷闘争を見守ることを優先してか、スタッフや出演者の大多数に積極的な釈明を行わなかった。

その後の波紋

JMPの活動停止後[注釈 25]、望月利雄は、自衛隊ロケで世話になった箕輪登と、製作会社M・M・Cを設立、1976年(昭和51年)には映画『星と嵐』(製作:東京映画=M・M・C 配給:東宝)に関わり、望月は製作、箕輪は監修とクレジットされている。これによって望月側と東宝側は和解したとみられる。

国弘威雄は、1977年(昭和52年)に刊行した『私のシナリオ体験-技法と実践』の中で『氷雪の門』について取り上げ、「ソ連だとか中国だとかいうと、盲目的に追随するジャーナリストや人々」を「尻馬に乗った親ソ派」と非難、彼らの攻勢が東宝の翻意につながったとしているが、その一方、東宝系での公開中止の主因として、「前もって観客動員数を約束をせねばならず、つまり前売券は何十万枚売れるという確約をせねばならず、その条件が整わなかった」ことがあったのは認めている。ただし、『氷雪の門』の製作協力券(売上金の過半は製作費と劇場の取り分に充てられる)と他作品の全国前売券(売上金の過半は劇場の取り分と配給会社への保証に充てられ、製作費とは別建て)の違いについては触れていない。そして、東宝が求めた製作協力券の保証枚数や、それに対するJMPの実売枚数についての具体的な記述はない。

また国弘は、JMPを「望月利雄の会社」と解していて、三池信や前記の役員を単なるスポンサー筋とみなしている。同役員の怠業や不正については1977年に至っても把握していない[注釈 26]

1978年(昭和53年)、民社党同盟は日本映画の全国上映運動を積極的に行なったが、その第二弾は『忘却の海峡』、第三弾は『氷雪の門』であった。『忘却の海峡』は松山善三の脚本・監修により、樺太在住韓国人帰還問題を描いており、『氷雪の門』と好一対をなす作品である。ただ、この上映運動を通じて、「ソ連のクレームがついて、大手映画会社が手を引いたとかいわれる“幻の映画”」という不正確な情報はさらに広まり[13]、『氷雪の門』が“幻の映画”となった真因の確認を怠る結果を招いた。

その後も『氷雪の門』は元スタッフの手で一部名画座での限定上映や、ホール等での非劇場上映などが行なわれていたが、製作から約36年後の2010年平成22年)7月17日より全国で順次劇場公開されることになった[6]

主なスタッフ


キャスト

他。


ビデオ

  • 『氷雪の門』上映委員会からVHSビデオおよびDVDが販売されている[14][15][16]
  • 2011年6月3日よりDVDレンタル開始

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 史実ではこの三隻が攻撃を受けたのは22日で、真岡郵便電信局事件の2日後である。
  2. ^ この描写は脚本決定稿にはない。見苦しくないようにとのたしなみであろうが、原作には、9人のうち1人が「辱めを受けないようにモンペを二枚重ねて穿き、迅速な行動が取れるよう靴を紐で縛っていた」という肉親の証言があるので、撮影段階でそれを潤色して描いたとも考えられる。
  3. ^ 1980年に出版された小説『氷雪の門』(松山善三著)は、このときの自作脚本をベースにしたものである。
  4. ^ 逆に「戦禍の中を局に駆けつけてモルヒネ自殺された方」もいて、この女性は「九人の乙女」の内に数えられている。
  5. ^ 原作本では「交換室から生還した交換手」は1人とされているが、その後の川嶋康男、谷川美津枝らの調査では他に2人の交換手が生還しているとされている。国弘がこの2人の存在を把握していたか、他の外出者と混同していたかは不詳。
  6. ^ 『シナリオ』1973年8月号。「九人の方々の死の意味合い、事実過程、毒物入手の経路等々」にも種々の説があることにも国弘は触れている。
  7. ^ 守田は映画『喜劇 女もつらいわ』『あしたのジョー』などを望月と共に製作している。
  8. ^ 望月は「一流の建設会社、乳酸飲料会社の社長さん、郵政省、電電公社まで製作や前売り券で協力してくれています」と言っていた。北海道新聞1973年4月28日夕刊
  9. ^ 陸上自衛隊富士教導団戦車教導隊所属のM41戦車及び機甲教育隊所属のM24戦車が出演した。尚、実際にはソ連軍はM41及びM24は使用していない。
  10. ^ このソ連戦車役のM41及びM24戦車はポスターにもそのまま描かれている。そのため、『氷雪の門』は「自衛隊がソビエト軍の役を演じさせられた映画」として軍事マニアに密かに有名であった。
  11. ^ 文部省選定・優秀映画鑑賞会推薦・青少年映画審議会推選・全日本教育父母会議推薦・日本PTA全国協議会特別推薦
  12. ^ のちソ連映画委員会副議長(映画省副大臣)。日本では『デルス・ウザーラ』『甦れ魔女』『オーロラの下で』の製作者として知られる。
  13. ^ 「キネマ旬報」74年4月上旬号 「邦画・洋画番組予定表 3/20〜4/9」
  14. ^ ディリースポーツ1974年3月14日。「東宝とは契約をまだ交わしてなかったので、法的手段も取れない」とする守田のコメントがある。
  15. ^ シゾフにも「東宝配給」と誤って伝わっていたとおぼしい。
  16. ^ 営業本部の誤記であろう。
  17. ^ ふつう「映画省」と邦訳される。
  18. ^ ここでいう「ソ連側」の定義は曖昧で、ソ連外務省レベルなのか映画委員会もしくはモスフィルム・レベルなのか判然としない。
  19. ^ ここでいう「ソ連本国」の定義も曖昧である。
  20. ^ 北海道新聞の映画案内広告による。
  21. ^ 当時、北海道には旧樺太島民が多く住んでいた。また三池の選挙区は佐賀県全県区である。
  22. ^ 北海道新聞1975年9月13日朝刊によれば、『氷雪の門』製作にあたって同役員が「SOSをいって来た」ので三池はJMPに七千万円融資したという。JMP設立時の三池の出資金一億円とは別途だが、融資が行なわれた正確な時期は記事には記されていない。
  23. ^ 望月は作品完成後も「100万枚の前売券をわれわれの手で売りさばかなければペイしない」としている。AVジャーナル1973年11月号
  24. ^ 事件発覚当初、三池や他の財界人が疑われていた時期もあるが、この役員の工作により嫌疑を転嫁されたものと判明している。
  25. ^ 毎日新聞1975年9月12日朝刊では、三池は「その会社はいまはダメになっている」とコメントしている。
  26. ^ 同書には「望月さんは不思議な人で、いったいどこからお金を工面して来るのか分からないようなところがあり」という記述がある。

脚注

  1. ^ a b c AVジャーナル1973年11月号
  2. ^ 報知新聞1974年3月9日
  3. ^ a b c 読売新聞昭和49年3月17日(日)18面記事「東宝、突然の配給中止 ソ連に遠慮?圧力?」
  4. ^ a b c 「映画 北の舞台」(昭和55年発行 朝日新聞北海道報道部編)
  5. ^ AVジャーナル1974年8月号
  6. ^ a b ソ連政府の圧力により公開中止!?日本人少女たちの悲劇を描いた幻の映画、36年ぶりに公開 ハリウッドチャンネル 2010年6月1日
  7. ^ 北海道新聞1975年9月9日朝刊~17日朝刊、10月17日朝刊
  8. ^ 朝日新聞1975年11月18日夕刊
  9. ^ 毎日新聞1975年9月12日朝刊、13日朝刊
  10. ^ サンケイ新聞1975年9月11日朝刊
  11. ^ 第076回国会 参議院運輸委員会 第4号
  12. ^ 北海道新聞1984年4月13日朝刊
  13. ^ 「週刊民社」昭和53年7月14日号
  14. ^ 株式会社 新城卓事務所内 映画『氷雪の門』上映委員会
  15. ^ イメージ等
  16. ^ Media Playerによる視聴提供

参考文献

  • 『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』(金子俊男、1972年)
  • 国弘威雄「戦争映画の難しさ」(のち国弘威雄著『私のシナリオ体験-技法と実践』1977年、映人社に加筆して収録)(『シナリオ』1973年8月号、シナリオ作家協会)
  • 国弘威雄脚本「樺太一九四五年夏 氷雪の門」(『シナリオ』1973年8月号、シナリオ作家協会)
  • 座談会「映画と政治の狭間で問われる表現の自由」(『シナリオ』1974年6月号、シナリオ作家協会)
  • AVジャーナル1973年11月号、1974年7月号、1974年8月号
  • 『日本映画監督協会の五〇年』(柿田清二、1992年
  • 『死なないで!-一九四五年真岡郵便局「九人の乙女」』(川嶋康男文、大宮健嗣絵、1995年ISBN 9784540950247
  • 『女たちの太平洋戦争 北の戦場樺太で戦った乙女たちの生と死』(谷川美津枝、1995年ISBN 9784769807308
  • 『九人の乙女一瞬の夏-「終戦悲話」樺太・真岡郵便局電話交換手の自決』(1989年刊『「九人の乙女」はなぜ死んだか』の増補)(川嶋康男、2003年ISBN 4877990127


外部リンク