東亜日報

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東亜日報
各種表記
ハングル 동아일보
漢字 東亞日報
発音 トンアイルボ
英語表記: The Dong-a Ilbo
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東亜日報(とうあにっぽう、トンアイルボ)は、大韓民国の日刊新聞(朝刊)である。日本統治時代1920年4月1日[1]に創刊。本社をソウル特別市鍾路区に置く。発行部数は2,068,647部(韓国ABC協会への申告部数、2003年10月~12月)。朝鮮日報中央日報とともに韓国の三大紙と称され、中央日報と発行部数第2位の座を競っている。

概要

大韓民国成立後は、政論を売り物にした高級志向の政府批判紙として再発足し、韓国の朝日新聞と評された。朝日新聞とは現在も特約紙の関係にあり、東京支社を東京都中央区築地朝日新聞東京本社ビル内に置く。

読者層には知識人が多く、他紙と比較して漢字の使用頻度が高いと言われていた。それでも時代の流れには抗えず、1998年1月1日にはレイアウトを横組みに改め、見出しの一部を除いて漢字の使用を中止。 民主化の進展と共に、政論よりも生活情報を重視する紙面作りに方針転換した。

創刊に関わった関係者に湖南地方(全羅南道全羅北道)出身者が主であったことから、伝統的には金大中・元大統領に好意的とされていたが、金大中政権下ではむしろ対立。2000年代になってからは、金大中、盧武鉉と続いた改革・進歩志向政権には批判的となっている。そのため、同じような立場の朝鮮日報、中央日報とともに「朝・中・東」と並列されて、保守派新聞の代表格とされている。ただし、保守系三紙にも温度差は存在し、朝鮮日報が右派一辺倒であるのに対して、中央日報は実利主義がベースにあるため、改革派政権が続く中では保守色は薄まっているし、東亜日報は伝統的に記者労働組合の発言力も強いこともあって、個々の論調ではそれほど保守的ではないものも見られる。

沿革

創刊号

3.1独立運動以降の朝鮮総督府による「文治政治」の潮流に乗って、金性洙朴泳孝など政財界の朝鮮人有力者が中心となって1920年4月1日に創刊した。この時、社是として「民主主義・民族主義・文化主義」を掲げ、現在まで続いている。

日本統治時代は主として朝鮮人向けの啓蒙活動に力を入れ、ブ・ナロードや朝鮮物産奨励・民立大学創設運動やハングル普及などを主導している。また男尊女卑の風潮の濃い中でいち早く女性誌を創刊したり、女性向けのイベントなどを主催したり、女性の地位向上にも先鞭をつけている。だが、1920年からの9年間で300回もの販売禁止処分と述べ280日にものぼる停刊処分を受けるなど、当局からの規制と弾圧をしばしば受けた。特に1936年ベルリンオリンピック報道では、マラソン金メダルを取った孫基禎選手のゼッケンの日の丸を抹消した写真を載せたことから、11ヶ月にものぼる停刊処分を受け編集幹部までが辞任に追い込まれる事態になっている。第二次世界大戦直前の1940年8月に廃刊に追い込まれた。

日本による統治が終わるといち早く1945年12月1日に復刊し、オーナーだった金性洙の関わりから韓国民主党系の新聞として論陣を張った。そのため李承晩政権下では記事の事前検閲を受けたり誤植を奇貨として停刊処分を受けるなどの圧力を受け、朴正熙政権下でも一貫して民主主義回復の論陣を張り広告掲載禁止などの嫌がらせを受けた。

1963年には、東亜放送(DBS:ラジオ792KHz)を開局させたが、全斗煥政権の言論統廃合により、1980年11月30日に廃局され、公営韓国放送公社 (KBS) に吸収合併された。東亜日報は、直ちに法廷闘争を開始したが(「周波数を返せ」闘争)、「周波数は既に他局に使用されている」として、1990年敗訴が確定した。その後、2009年からインターネットにてテレビ放送を開始。そして、2010年李明博政権の規制緩和政策により、新聞社にもテレビ放送事業への参入が認められ、東亜日報もテレビの総合編成放送への参入を大韓民国放送通信委員会に申請した結果、同年12月31日に中央日報、朝鮮日報、毎日経済新聞と共に認められ、約31年ぶりに放送事業が再開される運びとなった[2][3][4]


ナレーションサービス

同紙日本語版ホームページでは、全記事にナレーションが付いている。記事の本文上(題文下)の「記事を聞く」をクリックすると聴くことができる。人名(朝鮮人)の姓は朝鮮読み、名前は日本語読み(一部訓読み)で読まれている。朝鮮語版・英語版・中国語版でも同様のサービスが存在する。

捏造記事

  • 1945年12月のモスクワ三ヶ国外相会談ソ連信託統治を主張 アメリカは即時独立を主張と報じた。実際はその様な事実はなく共同宣言では米四ヶ国の監督下による暫定政府の樹立が盛り込まれたに過ぎなかったが、この報道を切っ掛けとして信託統治に反対する右派と信託統治を容認する左派との対立が激化、結果として南北分裂の一因となった。
  • 2005年10月3日(日本語版HP)、当時訪韓していた漫画家ちばてつやへのインタビューと称する記事を掲載。当時話題となっていた『マンガ 嫌韓流』について、ちばが「日本の作家を代表して謝罪します」とコメントしたと掲載し、ちばてつやプロダクションから抗議を受けたことがある(朝鮮語版では謝罪部分の記事はすぐに差し替えられた)[5]

脚注

関連項目

外部リンク