早稲田大学高等学院・中学部

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早稲田大学高等学院・中学部
過去の名称 東京専門学校高等予科
早稲田大学高等予科(前身)
早稲田大学附属早稲田高等学院
第一・第二早稲田高等学院
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人早稲田大学
設立年月日 1920年4月
創立者 大隈重信
共学・別学 男女別学(男子校)
中高一貫教育 併設型
課程 全日制
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
高校コード 13561F
所在地 177-0044
東京都練馬区上石神井三丁目31番1号
北緯35度43分57.36秒 東経139度35分34.12秒 / 北緯35.7326000度 東経139.5928111度 / 35.7326000; 139.5928111
外部リンク 公式サイト
公式サイト(中学部)
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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早稲田大学高等学院・中学部(わせだだいがくこうとうがくいん・ちゅうがくぶ、英名: Waseda University Senior High School)は、東京都練馬区上石神井三丁目にある私立中学校高等学校。設置者は学校法人早稲田大学。略称は「早大学院」「学院」「早高院」など[1]。高等学院の生徒達は「学院生」と呼ばれ、高等学院の正式な書類や掲示など様々な場面においてもこの通称が使われる。

概要

早稲田大学附属校であり、組織内では大学直属の学校として扱われる。中学部の創設に至るまで、「高大一貫教育」を掲げてきた。原則として卒業生全員が早大の各学部へ進学できるため、首都圏有数の難関校である。

1学年の定員が600人、全学年で1,800人と、高校としてはマンモス校である。1学級は約50人であり、A - L組までの12クラスが存在する。 ただし、中学部の設立に伴い高等学院の定員は削減され、現在1年生のみ480人、1学級約40人とされている。

校風は極めて自由である。制服として学生服が存在しているが、高等部のみ私服通学との選択制で、日々の学生生活では制服着用者と私服着用者(生徒全体の約10 - 20%)とが混在している[2]。校則はほとんど存在しないが下駄、サンダル、半ズボンでの通学は禁止されている。アルバイトは届出なしに可能である。

一条校でありながら、本庄高等学院と共に、「学校」ではなく「学院」を称する珍しい機関。

組織内での位置

学校法人早稲田大学が設置する直属の附属高校は、本校と埼玉県本庄市にある早稲田大学本庄高等学院のみである。また直属の附属中学校としては、高等学院中学部が初めて設置された。

なお早稲田中学校・高等学校早稲田実業学校早稲田摂陵中学校・高等学校早稲田佐賀中学校・高等学校早稲田渋谷シンガポール校は、学校法人の異なる「系属校」の位置付けであり、本高等学院と直接的な関係は無い。

旧制時代からの伝統を受け継ぐ大学直属の高校として、学院は大学学部と同等の扱いを組織内で受ける。その特徴として、生徒証は早稲田大学の学生証とほぼ同じものであり、早稲田大学図書館での入館証・利用者カードとして用いることが出来るほか、校舎敷地内への関係者以外の者の立ち入りも大学のキャンパス同様に自由であり、散歩や通り抜けをする者も多々見られる。また、建物のナンバーは大学のキャンパスの一部という位置づけになっている(学院は70番台が割り当てられている)。

中学部

早稲田大学は、初の直系附属中学校となる高等学院中学部を、2010年度より新設する事を2008年7月19日に正式発表した。校舎の着工は同年8月。生徒数は1学年4クラスの120人。中学校入試の始まる2010年から、高等部募集枠を480人に、2010年度入学の中学部生が高校1年になる2013年度からは、さらに360人に減らし、中高全体で1800人を保つとされる。

高等学院と同中学部は中高一貫校の関係にあるが、一部のクラブ(特に運動系)は、「練習メニューが中学生と高校生では違いすぎるため同一の組織にするメリットが無い」との理由から、中学部生を受け入れない方針を表明している。 また、学院祭の期間中には中学部は校外活動を行うなど、高等部と中学部では行事を共有する事は基本的にない。 これは根強い中学部設立反対意見に配慮した物と説明されている。

中学部設立に関しては内外からの反対が強く、設立決定前の校内アンケートでは反対がほぼ100%を占め、反対署名などの運動も行われた。教師・OBからの反対意見も強く出ていたが、大学側に押し切られる形で設立が決定となった。設立後の2010年度に発行された『学院雑誌』第57号でのアンケートでは「学院生にあってはならないものは?」という質問に対して「中学」という回答が27%を占める結果となった。

なお、男女共学にするべきかとの論議も1990年代に存在していたが、そのためには教員の男女比率も半々にする必要があること、トイレなど学校施設の整備が必要という点などから、2010年の時点でも実現には至っていないが、中学部の設立・中学校校舎建築・高校校舎立て替えが決定したため、共学化の計画は事実上無くなったとされる。本庄高等学院については2007年4月より共学化した。

校歌

高等学院は、その沿革から大学の学部と同等の扱いを受けるため、校歌は大学と同様に「都の西北」である。

校地の由来

練馬区上石神井の現校地は、1477年(文明9年)に太田道灌石神井城攻めの際に築いた陣城・愛宕山塁の跡にあたる。

教育

目的

早稲田大学の一員として、早稲田大学建学の精神に基づく。

特色

旧制以来の伝統として第二外国語が必修であり、ドイツ語フランス語ロシア語中国語のいずれかを1年次より履修する。また、2005年度より開始された3年次の総合的な学習の時間では、2年次に登録したテーマについて400字詰め原稿30枚程度の卒業論文の執筆が課される事となった。そしてこの単位は学部進学要件となっている。

2006年度から、文部科学省スーパーサイエンスハイスクールに指定されている。

専任教員は、ほぼ全員が修士課程以上の課程を修了しており、特に理科系においては博士号を持つ者も数多い。また、ほとんどの教員は大学でも講義をもつ、研究者である。このことは、本校が大学受験のことをまったく考えなくてよいという事情とともに、授業内容に大きな影響を与えている。すなわち、文部科学省の定める一般的なカリキュラムにとらわれることなく、大学のように教員の研究分野に沿った、より発展的・専門的な講義を、教員が展開する場合が多い。この傾向は特に社会科学系の科目に強く、教科書にまったく記述がないトピックを扱うこともままある。他方、理系科目ではコンピュータを活用するもの、大学の範囲を先取りするものなど、非常に高度かつ発展的な授業が行われている。

入学時に第二外国語科目及び芸術科目を選択するが、その選択によってクラス分けが行われ、入学時から卒業までクラス替えが行われないことも特色である。そのため「学院”X”クラス同窓」としての交流は終生に及ぶ。

入学と同時に早稲田大学への進学が原則として保証されるが、期末試験・学年末試験で然るべき成績である事、出席日数を満たす事が条件。通知表は各科目100点満点で50点未満が赤点となり、6単位分以上の赤点を取った場合と、一年間の総合平均が60点を下回った場合留年となる(赤点が5単位分の場合は総合平均62点未満が留年対象。これらは、学習指導要領の改訂や、授業時間数の変更などにより、時代により基準は変更されている)。結果、一学年で40人前後が毎年留年となっている。

始業は朝8時40分(ただし時差登校の場合は3時限目の始業時間の10時40分)。1コマ50分で、終業は15時00分。朝、及び帰りのホームルームは行われず、各学年週1回、授業1コマを使ってロングホームルームが行われるが、実際には30分程で終了するため、残りの時間は実質的に休み時間となる。

沿革

略歴

早稲田大学は、前身の東京専門学校の時代から、本科の前段階に位置する予科を設けていたが、最初に置かれた予科は、本科入学を希望する者への1年の予備教育を行った(1883年 - 1886年)。2年後新規に設置された予科は高等小学校卒業者を対象に募集したが、折悪く大隈重信が爆弾テロに遭うなどの諸事情で学校の運営に支障が出たことで、学校再建策の一環で廃止されている(1888年 - 1891年)。中等学校卒業者を対象にした高等予科の誕生(1899年)をもって、現在の高等学院の源流を求めることができよう。1908年には理工科(現・理工学部)設置と共に、理科の高等予科も開かれた。

1920年に、早稲田大学が大学令による大学に昇格するのに伴い、高等予科も大学予科としての内容の充実が図られ、早稲田高等学院と改められた[3]1922年より中学校4年修了者対象の第一高等学院・中学校卒業者対象の第二高等学院の2校体制を学制改革まで維持した。戦前期、早稲田大学の学部に入学するには、中等教育終了後、第一・第二いずれかの高等学院で予備教育を受ける必要があった[4]

旧制から新制に転換する際には、旧制高等学校のように新制大学教養部や各学部に再編されるのではなく、従来の実績を踏まえながら、大学の中核となる学生を育成する附属の新制高等学校として生まれ変わり、現在に続いている。

年表

高等予科時代
  • 1899年(明治32年) - 東京専門学校、英語政治科および文学部文学科・史学科に高等予科を設置。
  • 1900年(明治33年) - 高等予科を一旦廃止し、改めて大学部の予備門に位置づけて新しく設置する(修業年限1年半)。
  • 1903年(明治36年) - 第一(政治経済学科)、第二(法学科)、第三(文学科および高等師範部)、第四(商科)高等予科に分けられる。
  • 1907年(明治40年) - 高等師範部のための第五高等予科が、第三高等予科より分離して発足。
  • 1908年(明治41年) - 第五高等予科、学内の制度変更により、新設された理工科併置となる。
  • 1916年(大正5年) - 「第○」高等予科の名称を、高等予科「第○部」に改める。
  • 1917年(大正6年) - 修業年限を2年に延長。
  • 1918年(大正7年) - この年より中学校卒業者に入学試験を課す。
旧制高等学院時代
  • 1920年(大正9年) - 早稲田大学高等予科を早稲田大学附属早稲田高等学院に改め、当時の牛込区戸山町(現在の早稲田大学戸山キャンパス)に開校。
  • 1921年(大正10年) - 高等学院を第一部(3年制・文科と理科)・第二部(2年制・文科のみ)の2部制にする。
  • 1922年(大正11年) - 第一部・第二部をそれぞれ第一早稲田高等学院第二早稲田高等学院に改組。第二高等学院は大学構内に置かれた。
新制高等学院時代
  • 1949年(昭和24年) - 学校教育法に基づく新制高等学校として、早稲田大学附属早稲田高等学院が発足。
  • 1950年(昭和25年) - 現校名に改称。
  • 1956年(昭和31年) - 現校地である練馬区上石神井の地に移転、現在に至る。同地は旧智山学園から大学が1954年に購入した。
  • 2010年(平成22年) - 中学部を新設開校。

学校生活

生徒の活動

部活動

弓道部・漕艇(ボート)部をはじめとして、ラグビー部・米式蹴球部・雄弁部グリークラブヨット部・軟式野球部は全国レベルである。

弓道部は、2006年個人でインターハイ準優勝及び8位獲得、2009年秋期新人大会個人優勝(全国大会出場)及び団体準優勝であり、東京都トップレベルの実力を有する。漕艇部は1993年の全国選抜で舵手付きフォアで優勝、夏のインターハイでも3位入賞した(翌1994年にも全国選抜で4位になり、2006年に12年ぶりに全国選抜4位となった)。また、2007年に行なわれた秋田わか杉国体に12年ぶりに出場し入賞した。ヨット部は2001年から2006年までの6年連続で国民体育大会東京都少年男子FJ級代表に選ばれている。雄弁部は、競技ディベートを軸に活動している。激戦区である関東甲信越地区においては2006年夏季以降2年間不敗という戦績を残し、全国大会においては2009年に優勝し、2003年には準優勝、2002年や2007年にベスト4に入るなど目覚しい活躍をあげている。グリークラブは2003年に全日本合唱コンクール全国大会で金賞を受賞している他、NHKに出演してNHK全国学校音楽コンクール課題曲の参考演奏をするなど、セミプロ的活動も行っている。米式蹴球部は全国大会優勝2回準優勝3回を誇る名門である。1990年代中盤には停滞期もあったが、近年では全国大会の常連となっている。 2010年はクリスマスボウルで関西学院を17-6で下し24年ぶり2度目の全国優勝を成し遂げている。また、2010年は練習試合も含め無敗である。 2011年もまた、関東大会を制しクリスマスボウルへ出場し、大阪産業大学附属高校との熱戦を繰り広げ、10-10の両校優勝を果たし、二年連続日本一を成し遂げている。

有志の活動
  • 生徒自身の手による課外活動も盛んであり、その代表例が、2000年に生徒有志によって発足した「環境プロジェクト」である。環境プロジェクトは、年2回、早稲田大学にて行われている「高校生環境フォーラム」の中心的な存在であるだけでなく、この夏には「高校生環境連盟」の発足を提案し、活動の幅を広げている。
  • 年1回発行で、学校生活に関する特集やアンケート調査などが組まれる『学院雑誌』は約60年の歴史を有し、教師からは存在意義が疑問視されているものの、生徒らの手によって作成され続けている。
  • 2005年TBS系列で放映されたテレビ番組「学校へ行こう!MAX」での企画「文舞両道フリツケ甲子園(2005年9月6日O.A.)」においては、有志がダンスユニット「早稲6(ワセシックス)」を結成している。

行事

高等学院の主な行事は、「学院祭」・「体育祭」・「学・芸術交流祭」であり、修学旅行は存在しない(かつては実施されていたが、旅行先での学院生の振る舞いが悪かったため中止になった)。毎年10月に行われる「学院祭」こと、文化祭には約15,000 - 20,000人もの来場者が訪れる。そのため、全国でも有数の規模の文化祭であるといわれる。ただし中学部はこの期間中は校外活動を行う。これは根強い中学部設立反対意見に配慮した物と説明されている。

期末試験後は終業式までおよそ1週間前後の休み、入試期間中にも約1週間の休みが与えられ、そして夏休みは7月半ばから9月第1週まで、など休みが多い。

その他

  • 通常、「学ラン」は男子学生の制服を意味するが、本学院では食堂にて販売されている「学院ランチ」を指す場合もある。
  • 時々、教員の学会出席などのために授業が休みとなることがある。通常これを大学では休講というが、本学院では代講という。その理由は名目上他の教員が代わりに授業することになっているからであるが、多くは出欠を確認するだけで終わる(ただし、本当に授業時間を目いっぱい使って「代講」を実施するケースもごくまれに見られる)。この時間帯は校外へ外出することも可能である。授業が休みの場合、その日の最終時限を担当する教員の都合が良ければ代わりに授業を行うことがあり、その場合は最終時限の授業が繰り上がり実施されたとみなされ、早く帰宅することが可能な場合もある。なお、これは教員の裁量で行われるものである。
  • 学習指導要領の改訂による授業時間数削減のため、1年生と2年生は週に2日、3時限目から始まり6時限目で終了する4時間授業の日が存在する。これは最寄り駅の西武新宿線上石神井駅から学校までの道が狭く通行量が多い上、路線バスも運行しているため、3学年1,800人が一気に登校すると危険であることと、部活の放課後練習をスタートさせる時間を揃えるために6限で終了する必要があったからである。
  • 運動系の部のチーム名がほぼ全て「Big Bears」なのは、「Big Bear」→「大きい熊」→「大熊」→「大隈」と創立者大隈重信にかけているのだと言われている。この名称は、大学での運動系の部活やサークルでも用いられることが多い。
  • 新設される中学部の校舎の建設予定地となる南グラウンドでは、測量などが行われたり、校舎建設のために樹木が伐採されたりするなど、学院の緑多い環境が破壊されている。
  • 高校校舎は事務室のある1階の上から伸びる柱により3年教室のある3階を支えており、2階は1階と3階に挟まれた形で、柱以外には壁が存在しないピロティーとなっている。このピロティーの一部をガラスで区切り教員室とする、という独特の構造となっている。
  • 最寄りバス停は西武バス「早稲田高等学院」。車内案内の英語表示は「WASEDA KOTOGAKUIN Sr.high.」と高校である旨がわかるようになっている。中学部開校の対応(末尾に「&Jr.high.」を追加)は、まだ行われていない。
  • 1990年代終わり頃から、都内の女子高生の間で学院の指定バッグが流行し、都内各所で女子高生が「学院バッグ」を持ち歩く姿が見られた。また、学院バッグは学院構内の購買で販売されているため、わざわざ購入しに訪れた女子高生の姿も敷地内で度々目撃されていた。

学院関係者一覧

脚注

  1. ^ 戦前の文書に「早高」という語が散見されるが、これは当時の学院を指す略称である(例:「○○中学4年修了で第一早高に進学」など)。現在使用される「早高」は、系属校である早稲田高等学校(旧制時代の略称は「早中」)を意味することが多いので、解釈には注意を要する。
  2. ^ 本来は制帽も定められていたが、服装自由化により廃れた。大学の角帽と違い、中学校でも採用されている一般的な学生帽(丸形)であった。
  3. ^ 一部の文献・資料で高等学院旧制高等学校の一つに数えるものがあるが、誤りである。カリキュラムは高等学校に準拠しているが、高等学院は大学令第12条に基づいて設置された予科である。
  4. ^ 例外的に、併設の早稲田大学専門部高等師範部高等学校専門学校などの卒業者、他大学予科修了生、および特別に入学を認められた者が学部に編入することもあったが、当時早大を含めたいずれの旧制私立大学も、学部生は予科修了生をそのまま進学させることで確保していた。

関連書籍

  • 早稲田大学高等学院編『三十周年記念誌 : 1979』1980年発行
  • 早稲田大学高等学院編『継承そして創造 : 五十年の軌跡-未来に向けて』1999年発行
  • 早稲田大学高等学院米式蹴球部OB会編『半世紀の道のり : 早稲田大学高等学院米式蹴球部50年史』2000年発行

関連項目

外部リンク