石神井城
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石神井城 (練馬区) |
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内郭土塁
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| 城郭構造 | 連郭式平山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 豊嶋氏 |
| 築城年 | 鎌倉時代後期 |
| 主な城主 | 豊嶋氏 |
| 廃城年 | 文明9年(1477年) |
| 遺構 | 土塁、堀 |
| 指定文化財 | なし |
| 位置 | 北緯35度44分14.14秒 東経139度35分48.45秒 |
石神井城(しゃくじいじょう)は日本の城。所在地は東京都練馬区石神井台。
目次 |
[編集] 概要
石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期の居城であり、長尾景春の乱で没落するまで同氏が拠った。
[編集] 歴史・沿革
石神井城の築城年代は定かではないが、石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が、鎌倉時代後期に居城の一つとして築城したとされる。
室町時代後期、上杉禅秀の乱で足利持氏側に立った豊島氏は最盛期を迎えるが、やがて新興勢力の扇谷上杉氏側の太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。この戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明はそれぞれ石神井城と平塚城に拠り太田道灌と対峙したが、攻められた平塚城の後詰戦(江古田・沼袋原の戦い)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に落ちた。
その後道灌は石神井城に兵を進め、和平交渉の決裂を経て、泰経は平塚城、更に小机城へと落ち延びた。
文明9年(1477年)、扇谷上杉氏方太田道灌に攻められ落城、廃城となった。
翌文明10年(1478年)小机城も落とされ、遂に豊島氏は没落した。
[編集] 構造
石神井城は石神井川と三宝寺池(石神井公園)を起点に延びる谷との間に挟まれた舌状台地上に位置する。ただし、同時期の他城郭とは異なり、台地の先端ではなく基部に占地し、堀切を用いて東西の両端を遮断している。
現在城域一体は開発が進み旧態は失われているが、土塁と空堀を廻らせた内郭が僅かに残っており、発掘の結果、折れを伴った堀・土塁によって城内が複数の郭に区画されていた事が判っている。
全体の大きさは9ヘクタール程度であったと推測されている。
[編集] 考古資料
[編集] 遺構
内郭の空堀及び土塁が石神井公園内に残る。また、近辺の住宅地内に空堀の痕跡が認められる。