志賀淑雄

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志賀 淑雄
1938年、第13空 南京基地にて
生誕 1914年
東京市
死没 2005年11月25日
東京都
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1931 - 1945
最終階級 海軍少佐
除隊後 ノーベル工業社長
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志賀 淑雄しが よしお1914年(大正3年)- 2005年 (平成17年)11月25日)は、大日本帝国海軍軍人戦闘機操縦士、最終階級海軍少佐東京都出身。旧姓は四元。特攻に反対した人物としても知られる。

1938年南京基地にて。右:志賀淑雄中尉。左:黒岩利雄1空曹
真珠湾攻撃で搭乗した零戦21型 AII-105機 胴体の赤線2本と尾翼の赤線が空母加賀、尾翼の複数の赤線が指揮官機を意味する
志賀淑雄大尉が戦闘機分隊長・飛行隊長を務めた空母加賀
1942年10月、南太平洋海戦に出撃する零戦


1942年10月、南太平洋海戦で日本海軍航空隊の攻撃を受け、右舷に傾いている米空母ホーネット


来歴

1914年、海軍少将 四元賢助(海兵20期)の三男として東京で生まれる。父賢助は海軍兵学校教官として山本五十六(32期)、豊田副武(33期)らを教えており、子供の教育にも厳格であった。

山口中学卒業、海兵62期卒。 海軍兵学校には伏見宮博英王がおり、志賀は伏見宮が掃除の時間に割り込んだことを注意した際バケツを蹴飛ばした。それに尾ひれがつき殴ったと噂され多少の摩擦も生じたが、後に志賀が父の訃報に帰宅できたのは伏見宮のはからいであったともいう。[1]また1934年の海軍の日に行われた源田実が率いる特殊編隊飛行公演(通称源田サーカス)を同期生らと見学しパイロットへの道を心に固めた。[2]

遠洋航海(オーストラリアハワイ)、各術科学校講習を経て1936年海軍少尉に任官。その年の2月26日に砲術学校で2・26事件に遭遇した。このとき海軍は陸軍反乱部隊の決起に反対し、機銃小隊長を命じられ海軍省の警備にあたった。[3]1936年12月、第28期飛行学生となり、霞ヶ浦海軍航空隊に転勤後、1937年9月大分県佐伯航空隊で戦闘機訓練を行う。1938年1月、南京の第13航空隊に転勤となり日中戦争に参加。2月25日の第二中隊長として中攻機35機の護衛任務が初陣であり、96式艦上戦闘機を操縦して、I-15戦闘機を撃墜する。1938年8月、横須賀航空隊勤務を命じられ、日本に帰還。佐伯航空隊勤務後、1938年12月には空母赤城に乗組、1939年11月大分海軍航空隊分隊長、同月海軍大尉に進級。1940年(昭和15年)9月、結婚により志賀に改姓。1941年4月、空母加賀分隊長に着任。

太平洋戦争

1941年12月8日(現地ハワイ時間7日)、日米開戦・真珠湾攻撃には、板谷茂少佐率いる第一次攻撃隊に空母加賀第二制空隊長として参加。[4]零式艦上戦闘機零戦)9機を率いてオアフ島飛行場に最初の攻撃を行った。このときの零戦機体番号はAII-105。

真珠湾攻撃を終えて加賀で日本に戻った後、加賀飛行隊長に昇進して1942年1月9日に再び出撃。1月20日にラバウル攻撃、21日カビエン攻撃後、22日に赤城と共に零戦36機、九九艦爆32機で第2回ラバウル攻撃を行った。2月19日、赤城蒼龍飛龍とともにオーストラリアのポートダーウィンに対して空襲を行い、加賀の零戦9機、九九艦爆18機、九七艦攻27機を指揮する。3月1日、米給油艦ペコス、駆逐艦エドソールを2隻を撃沈した。3月5日、零戦9機、九七艦攻27機を率いて、ジャワ島チラチップを攻撃後、内地に帰還する。

1942年4月に隼鷹飛行隊長へ転任。このとき、正規空母の加賀から商用船を改造した隼鷹への転任を不服として源田実参謀に抗議するが、加賀艦長岡田次作と志賀の間にあったトラブル[5]が原因と明かされる。戦後は加賀ミッドウェー海戦で搭乗員待機室を被弾しているため乗艦していたら死んでいたという意味では岡田艦長は命の恩人とも言えるとのべている。[6]

1942年5月、隼鷹飛行隊長としてダッチハーバー攻撃を行う。1942年10月南太平洋海戦にて、第2次攻撃隊として隼鷹の飛行隊(零戦8機、九七艦攻7機)を率いて瑞鶴瑞鳳部隊と共に米空母エンタープライズおよびホーネットを攻撃、大破させる。1942年12月~1943年1月、兼子正の後を継ぎ飛鷹飛行隊長を務めた[7]

1943年1月、海軍航空技術廠テストパイロットとなった。前任者の周防元成(同期)からの推薦であった。志賀はむちゃをやるので戦場においていたら死んでしまうという理由からだという。紫電改烈風などのテストにあたった。[8]。海軍少佐へ昇進。

第343海軍航空隊時代。1945年春、松山基地にて。右:志賀淑雄少佐・飛行長 左:源田実大佐・司令

第343海軍航空隊に飛行長として着任、司令は源田実大佐。志賀が開発に関わった紫電改が集中配備されていた。

志賀自身はまだ空で戦うつもりでいたが、若い搭乗員も既に歴戦しておりその自信から志賀の言葉も馬耳東風といった様子であったため、自分は地上で彼らを支援する方に回ろうと考えて源田司令に要望した。[9]部隊では源田司令とともに戦闘の指揮に当たった。[10]

第343海軍航空隊の本拠地移動に伴い、松山、鹿屋、国分基地を経て、大村基地で終戦を迎えた。 源田司令が終戦を確かめに中央へ行った際、残っている紫電改18機で最後の総飛行をやったという。[11]

1945年343空大村基地において米海兵隊第22航空団が紫電改80機を領収し6機をテスト飛行し3機を米にサンプルとして持ち帰ることになる。10月13日~10月15日にテストを行い10月16日に運搬を行った。志賀は343隊員と共にテスト飛行と横須賀への空輸に当たる。[12]

戦後

1945年8月19日志賀は中央で終戦の真意を確かめて戻った源田司令から皇統護持作戦を知らされる[13]。参加者の選出方法を一任してほしいと司令に要望して認められる。志賀が考案した方法は准士官以上で源田と共に自決を行いたいものを集う方法であった。23名が皇統護持作戦に参加することになった[14][15]志賀も川南工業に就職し潜伏するが、源田は志賀も他の隊員と同じ距離で接するためもう自分は必要ないと感じ辞職する。[16] 天皇存続が決まると活動は終了し解散のため集まったが人払いができず源田の明言がなく十分に解散が伝わらず[17]、作戦が世間で噂されていたこともあり改めて解散式をすることを志賀が源田に提案する。1981年1月7日東郷神社和楽殿に招集し源田より同志生存者17名を前に皇統護持作戦の終結を正式に伝達された。[18]解散式は「赤のれん」2階で行われた。[19]

戦後は、ノーベル工業社長を務め、警察官の護身装備(防弾防刃チョッキ)、伸縮式特殊警棒爆発物処理機材などを開発した[7][20]

1989年2月24日、昭和天皇の大喪の礼に元日本海軍士官の代表の一人として招待される。胸ポケットに戦死した部下の名簿を忍ばせて御冥福を祈ったという[21]

零戦搭乗員会の代表(四代目)を務める。航空自衛隊や米軍基地で講演を行った際には、Zero Fighter(零戦)の英雄を一目見ようと現役のF15戦闘機パイロットをはじめ、日米の士官やスタッフで超満員となる人気だったという[22]

人物

戦後、志賀は日本海軍にエースなどなく、共同戦果として考えるのが伝統であると海軍パイロットが英雄のように取り上げることに疑問を感じていたという。[23]

戦後は戦死者たちの慰霊の行を続けていた。[24]

戦争中の単独撃墜数は6機、共同撃墜数はそれ以上だと語っている[25]

テストパイロット

志賀は海軍航空技術廠テストパイロットが軍で最も真剣に当たった時期かもしれないと話している。[26]主に紫電改と烈風の開発に関わる。

紫電改については使える機体だと思ったと話す。何にでも噛みついていける猪のようなおてんば娘と評価する。[27]

烈風に関しては使えない機体だと思ったと話す。零戦の後継機とされていたが、零戦を大きくしたような機体であり防弾が弱点であるにもかかわらず被弾面が大きいためである。格闘性能にこだわっていたためであるがこの時期必要とされたのは高高度性能や速度性能の方であったという。[28]

特攻反対

志賀は特攻にははじめから反対であったという。指揮官として絶対やっちゃいけない、自分が行かずにお前ら死んでこいというのは命令の域じゃない、行くなら長官や司令が自ら行くべきだと思っていたという。[29]

志賀によれば、三四三航空隊が大村基地へ移った頃、第五航空艦隊から特攻が343空に下問された。志賀飛行長はどうしても行かなければならないなら下問してくる参謀を連れて上の者から行くべきだと反対し、源田実司令がそれに賛同し上にその言葉を伝えた。そのため343空に以降特攻が下問されることはなくなったという。[30]

搭乗機体

所属航空母艦空母

脚注

  1. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p20-21
  2. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p21
  3. ^ 『零戦 最後の証言』光人社NF文庫 2011年
  4. ^ (真珠湾攻撃時、志賀大尉指揮下の第1次攻撃隊 第2制空隊搭乗員)第2制空隊 第11小隊 志賀淑雄大尉(分隊長)・平石勲 二飛曹・佐野清之進 二飛曹、第2制空隊 第12小隊 坂井知行 中尉・荻原二男 一飛曹・平山巌 二飛曹、第2制空隊 第13小隊 山本旭 一飛曹・羽田透 二飛曹・中上喬 一飛兵
  5. ^ 志賀が搭乗員に加賀の上で体操することを許可したため岡田と口論になった。岡田はもともと上官に対して直言する志賀の態度を快く思っていなかった。
  6. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p42-44
  7. ^ a b Hata, Izawa, Gorham 1975 . Toland, 1970.
  8. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p55-56
  9. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p59
  10. ^ ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング 210頁
  11. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p66
  12. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社57-63頁
  13. ^ 占領軍の進駐で天皇陛下や皇室に危害が加えられた場合に備えた作戦。内容は皇族の子弟(志賀の証言では皇女。北白川宮道久王という説もあり)を九州の熊本県で庇護する準備活動であった
  14. ^ 参加者は源田実志賀淑雄、古賀良一、品川淳、光本卓雄、成松孝男、小林秀江、山田良市、磯崎千利、黒葛原伉、大村哲哉、向井壽三郎、中西健造、加藤種男、瀬木春雄、堀光雄、本田稔、村中一夫、渡邉孝士、中島大次郎、大迫壮三郎、荒木直哉、松村正二、中島正(追記)
  15. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p67-71、[1]
  16. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p76
  17. ^ 神立尚紀『零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像』光人社NF文庫77-79頁
  18. ^ なにわ会ニュース84号13頁 平成13年3月掲載
  19. ^ 神立尚紀『零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像』光人社NF文庫78-79頁
  20. ^ 佐々、2006年
  21. ^ 佐々淳行,「勲を語らなかった零戦の英雄を悼む」『諸君!』,文藝春秋,2006年2月号
  22. ^ 特攻隊と志賀海軍少佐
  23. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p389
  24. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p80
  25. ^ 佐々、2006年
  26. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p55
  27. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p55-56
  28. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p55-56
  29. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p62
  30. ^ NHK-TV「NHK特集 紫電改最後の戦闘機」1979年、ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング 376頁、神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫p62、宮崎勇『還って来た紫電改―紫電改戦闘機隊物語』光人社NF文庫260頁

参考文献

  • Hata, Ikuhiko; Yasuho Izawa, Don Cyril Gorham (translator) (1975 (original) 1989 (translation)). Japanese Naval Aces and Fighter Units in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-315-6
  • Toland, John (2003 (1970)). The Rising Sun: The Decline and Fall of the Japanese Empire, 1936–1945. New York: The Modern Library. ISBN 0-8129-6858-1
  • 神立尚紀、『零戦 最後の証言』、光人社、1999年、ISBN 978-4769809388 。文庫本、光人社、2010年、ISBN 978-4769826712
  • 佐々淳行、「勲を語らなかった零戦の英雄を悼む」『諸君!』、文藝春秋、2006年2月号

関連項目