第343海軍航空隊

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343航空隊の主力戦闘機「紫電改」。その大半が343空によって使用された

第343海軍航空隊は、日本海軍の航空隊。1945年2月1日開隊。紫電・紫電改戦闘機偵察機彩雲から編成された。司令は源田実大佐。

目次

[編集] 概要

紫電改展示館(愛媛県愛南町

1944年(昭和19年)中盤、サイパングアムで相次いで日本軍が玉砕し、絶対国防圏が破られた事で米軍による本土空襲が避けられないと判断した日本海軍は本土防空部隊の設立に着手する。かかる情勢の中で、343空は、本土周辺空域の制空権を回復しようと、戦闘機出身の軍令部作戦課航空主任であった源田実大佐の着想によって創設された[1]。大戦末期、海軍最新鋭の局地戦闘機紫電改を独占配備、また、優秀な搭乗員を擁した本航空隊は敗色濃厚で全般的に劣勢な日本本土防空戦のなかにあって活躍した。

1944年12月25日に横須賀基地で開隊。3個戦闘飛行隊(戦闘301、戦闘701、戦闘407)を編成。定数は各48機で、編成と同時にそれぞれ松山、大分、出水各基地で練成に入り、1945年(昭和20年)1月末までには3飛行隊全部が松山に集結した。中には343空飛行長・志賀淑雄少佐、戦闘701飛行隊長・鴛淵孝大尉、戦闘407飛行隊長・林喜重大尉、戦闘301飛行隊長・菅野直大尉、磯崎千利大尉、坂井三郎中尉、宮崎勇少尉、松場秋夫少尉、本田稔飛曹長、杉田庄一上飛曹、小高登貫上飛曹、武藤金義少尉等、歴戦のベテラン搭乗員がいた。元搭乗員の宮崎勇は配置されたときに「ラバウルにいた搭乗員たちがごろごろいるのに驚いた」と証言している[2]。さらに戦闘401飛行隊(飛行隊長 浅川正明大尉)が編入され、若年搭乗員の練成飛行隊として、徳島基地へ分遣された。

343空の特色は、邀撃の効果を高めるための事前情報入手を重視して、艦上偵察機彩雲を装備する偵察第4飛行隊(飛行隊長 橋本敏男大尉)を付属したことである[3]。その他にも、編隊空戦の重視、空中無線電話の改善等、当時の海軍戦闘機隊の中にあっては画期的な運用法を行った[4]

1945年3月19日、F6FヘルキャットF4UコルセアSB2Cヘルダイバーから編成された米艦上機160機に対し紫電7機[5][6]、紫電改56機が迎撃し[7]、米軍機58機撃墜(戦闘機47、対空砲による戦闘機5、爆撃機4、計57機[8])という大戦果を報じた。この快挙に対し、連合艦隊司令長官豊田副武から「機略ニ富ム戦闘指導ト尖鋭ナル戦闘実施トニヨリ、タチマチニシテ敵機六十余機ヲ撃墜シ全軍ノ士気ヲ昂揚セルハ、ソノ功績大ナリ」という3月24日付け感状を授与されている[8]

一方、米軍側の記録における343空と交戦したと思われる部隊の損失は、空戦による被撃墜8機、帰還途中の墜落・不時着が計2機、損傷しつつ帰還できたものの廃棄処分となった4機と、判明している確実な数値としては総計14機であった[9]。その米軍側も撃墜50機を報じたが、実際の343空側の損害は紫電改14機、偵察機彩雲1機、紫電1機[7]、被撃墜計16機、地上での被撃破5機、戦死13名と、同様に戦果を過大に誤認していた。

現実には互角の過大な戦果報告ではあったが、損害を伏せた「58機撃墜」の報は圧倒的多数の米軍機に苦杯を飲まされていた日本戦闘機隊にとって吉報となった。なお未帰還となった彩雲は、エンジン不調で米軍機の追尾を受けて被弾[10]、高知県津野町の上空において米軍機に体当たりを試み、7時45分ごろ自爆した機である[11]。現在、自爆地点の東津能村に彩雲(遠藤稔/操縦、高田満少尉/機長、影浦博/電信)の慰霊碑「三魂之塔」が建立されている[12]

米軍が沖縄に上陸すると菊水作戦に参加。航続距離が短く沖縄本島まで往復することが出来なかった紫電改は、三四三空が第五航空艦隊に編入されたのに伴って鹿児島県鹿島基地から出撃[13]。奄美大島や喜界島付近にて特攻隊の前路哨戒や制空戦闘を実施した[14]

4月からはB-29による本土空襲が激化し、来襲するB-29・P-51の迎激戦を開始。4月15日、海軍甲事件山本五十六の搭乗機を護衛していた6機の零戦の内1人でもあり、撃墜70というスコアを持つベテランの杉田庄一兵曹が[15]、離陸直後F6Fに銃撃されて墜落、戦死する[16][17]。隊内でもトップクラスの熟練者だった杉田の死による戦力低下を懸念した源田は、実験研究部隊(横須賀空)所属の武藤金義少尉と、343空教官の坂井三郎を交換することを上層部に打診した[18]

鹿島基地は特攻機発進基地のため情報伝達に混乱をきたすことが多く、これが杉田の戦死にも繋がった[19]。そこで桜島北に位置する第一国分基地に移動。そこでB-29迎撃任務を与えられるが、重武装重装甲のB-29相手に苦戦する[20]。4月21日のB-29迎撃戦において戦闘407飛行隊長・林喜重大尉が戦死。4月30日、部隊は長崎県大村基地に移動する。 

6月2日にはウィリアム・ハルゼー率いる機動部隊の艦載機の攻撃に対し343空は21機で出撃、計170機の敵機のうちF4U戦闘機の部隊と戦い34機撃墜(米軍側損失記録では4機)を報じる。

7月24日の呉軍港空襲では米艦載機16機撃墜(米軍側損失記録では4機)を報じる。しかし、戦闘701飛行隊長・鴛淵孝大尉、戦闘301・武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、今井進一飛曹、溝口憲心一飛曹を失う[21]。「空の宮本武蔵」の異名を持つ武藤は、この日の戦闘が343空及び紫電改での初出撃だった[22]。のちに愛媛県久良湾で、この日の未帰還6機のうちの1機が発見された。搭乗者特定には至らなかったものの、引き上げに成功した[23]

8月1日は屋久島に飛来したB-24・P-51の戦爆連合を迎撃したが、菅野直大尉の搭乗する紫電改が機銃の暴発による機体の損傷から未帰還となる。菅野大尉を失ったことで源田は深く落ち込んだという[24]

こうして大戦末期の日本軍としては勇戦した343航空隊であったが圧倒的物量で襲い掛かる米軍に対しては厳しい戦いを強いられ、終戦の8月頃には稼動機体は20機程度にまで低下していた。

1945年(昭和20年)8月9日、長崎県大村基地で休養をかねた登山訓練中、隊員達は長崎市への原子爆弾投下を目の当たりにした[25]源田司令をはじめ隊員たちは「3発目の原爆投下は必ず阻止する」として体当たり攻撃も辞さない決死隊を結成し、志賀淑雄飛行長等の指揮官クラスが錬成を開始するも[要出典]、8日に北九州上空でP-47NとB-29からなる戦爆連合を24機をもって迎撃したのと、12日に試験飛行に上がった紫電改1機がP-51に撃墜されたのが、最後の戦いとなった。 編成から終戦までの6ヶ月の間に約170機の撃墜を主張(米軍側損失記録判明分では40機程度)、自らの戦死・未帰還は78名、偵察隊・地上部隊含めると97名であった[26]

[編集] 部隊名の通称

343空の通称は(つるぎ)部隊。士気を高めるため、各飛行隊に新選組(戦闘301)、維新隊(戦闘701)、天誅組(戦闘407)、奇兵隊(偵察4)、極天隊(戦闘401)の通称を付し、隊舎の前に幟を立てるなど闘志も強調した[27]。柴田正司少尉は戦闘301隊歌を作詞、愛媛女子師範学校の協力により隊歌を作った[28]。触発された維新隊、奇兵隊も隊歌を作曲している。

[編集] 精鋭部隊との評価について

一般に「ベテランやエースパイロットばかりを結集した日本海軍最後の最精鋭航空隊」と言われているが、これは有名な坂井三郎少尉を教官配置としたり、武藤金義少尉を横須賀航空隊から強引に引き抜いたり、他の部隊が戦闘行動中に訓練に専念したりするなどの事から、戦後に言われ始め、1960年代の戦記漫画紫電改のタカで日本海軍の精鋭部隊と描かれた事で、一般に普及した話である。設立当時、各部隊からエースを引き抜いた為、源田実は海軍内で恨みを買ったという[29]。搭乗員の平均錬度で言えば他の203空や302空等の戦闘機隊と大差は無かった。343空に配備されていた紫電一一型[7]の運用指導のため松山基地を訪れた坂井三郎少尉の「実働機を遙かにしのぐ廃棄された紫電が山と積まれていた」という証言もある。[要出典]各パイロットの飛行時間及び練習飛行隊卒業日時から類推されるように、343空のパイロットは源田実が指名転属させた一握りのエースパイロット達を除くと未熟な新人がかなり含まれており、一般に戦後の戦記漫画などのプロパガンダも兼ねて伝えられた「手練ればかりを集めた」との評価は事実とかなりの隔たりもあるとの指摘もある[30]。ただし坂井三郎少尉はマリアナ沖海戦以降、練度低下が顕著に現れていた海軍航空隊の中では開戦時ほどではないが、それでも激戦であったガダルカナルの戦い当時と同じレベルの平均練度を保っていた部隊で、戦争末期においては稀有な存在であると述べている。(それでも彼としては開戦時と同等以上の練度が必要だと、搭乗員のさらなる技能向上を望んでいたが、戦争末期では高望みであった)[31] だが当時、他の航空隊が新人搭乗員を十分な練成期間も無しに実戦投入している中、司令である源田がベテラン搭乗員を指名転属させたり、それなりの期間訓練を行った後に実戦参加させた事により戦果が拡大し「手練ればかり」と評価された[32]

また対戦した米軍パイロットの報告では、日本海軍にしては珍しく二機一組の編隊空戦を行う熟練者たち、と認識されていた。[33]B-29の搭乗員であった爆撃手のウイルバー・モリスの証言によると「彼らの攻撃は猛烈だった。12機編隊のB-29の場合、1機あたり6門、あわせて72門の機銃が火を噴く。たちまち「弾の壁」ができるんだが彼らはそこを突き抜けて攻撃してくる。あまりに接近してくるので、搭乗員の顔が見えた。素直に言うが、あんな勇敢なパイロットはほかにはいない。信じがたい確率に自分を賭けていた」と語った[34]

大戦果を挙げたとされるが、米軍との記録と食い違う事例が多く、実際の戦果は不明である。日米双方の戦闘記録を照合した結果、従来言われて来た程の戦果をあげたわけではないことが判明した[35]。それでも、米軍第38機動部隊指揮官から各空母航空隊司令官に『九州南部上空にて高性能機を装備した練度の高い戦闘機隊に警戒せよという』という通達が出されている[36]

[編集] 特攻

左:司令源田大佐、右:飛行長志賀少佐
昭和20年春、松山基地

志賀少佐の証言によれば、大村基地に移動してしばらく経った頃、源田司令が考え事をしている様子なので「特攻言ってきたんでしょう」と訊くと、「うん」と一言、「どうするんですか」と尋ねると返事が無い。特攻にはじめから反対であった少佐は司令に「もし行くんであれば、まず私が、隊長、分隊長、兵学校出の士官をつれて行って必ず敵空母にぶち当たってみせます。最後は司令も行ってくれますね、予備士官や予科練の若いのは絶対に出しちゃいけません」と言うと司令は「よし、わかった」と。その後、特攻の話は立ち消えになったようで、それっきり何も言ってこなくなったという[37]。なお、紫電改や彩雲といった高速機を特攻機として投入する計画は実在したが、紫電改の生産数が全く延びない状況下、中止されている[38]

[編集] 初代・第343海軍航空隊

紫電改を装備して活躍した第343海軍航空隊(剣部隊)は2代目である。初代の第343海軍航空隊(通称:隼部隊)は、当初最初の局地戦闘機装備部隊として編成されたが、紫電の生産遅延などによる機材不足から、零戦装備の航空隊として1944年初頭に内地で編成され、マリアナ諸島方面に進出・展開したが、同年6月~7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅、解隊した。菅野直もこの部隊に所属していた。浜松基地に保存されている零戦は本隊がグアム島で破棄した機体である。

[編集] 脚注

  1. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』 三四三空最後の勇戦 p311
  2. ^ 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0651-5 第五章 精強「紫電改部隊」 奇妙な転勤 p150
  3. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』 三四三空最後の勇戦 p313~p315
  4. ^ 碇『紫電改の六機』285頁「源田サーカス」
  5. ^ 『最強戦闘機紫電改』147頁
  6. ^ 碇『紫電改の六機』300頁
  7. ^ a b c 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』64頁
  8. ^ a b 宮崎勇『還ってきた紫電改』184頁
  9. ^ ただし一部記録が失われており、更に空母ワスプIIと空母ベニントンの戦闘機及び爆撃機部隊の戦死8名が加わるとする説もある。[要出典]
  10. ^ 碇『紫電改の六機』303頁「勝利の悲哀」
  11. ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』187頁「『彩雲』の壮烈な最期」187頁
  12. ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』188頁
  13. ^ 碇『紫電改の六機』313頁
  14. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』 三四三空最後の勇戦 p333、碇『紫電改の六機』312-322頁「散り行く勇者」。
  15. ^ 『最強戦闘機紫電改』163頁
  16. ^ 『最強戦闘機紫電改』167頁
  17. ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』192頁「杉田庄一上飛曹の死」
  18. ^ 碇『紫電改の六機』321頁
  19. ^ 碇『紫電改の六機』322頁
  20. ^ 碇『紫電改の六機』333頁
  21. ^ 碇『紫電改の六機』19頁
  22. ^ 碇『紫電改の六機』351頁「運命の日」
  23. ^ 碇『紫電改の六機』45頁「紫電改浮上」
  24. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』 三四三空最後の勇戦 p364
  25. ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』215頁「長崎原爆を見た」
  26. ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』223頁「紫電改の火葬」
  27. ^ 源田実『海軍航空隊始末記』 三四三空最後の勇戦 p316、宮崎勇『還ってきた紫電改』165頁。
  28. ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』169頁「隊の歌の競作」
  29. ^ 碇『紫電改の六機』346-347頁
  30. ^ 『最強戦闘機紫電改』166頁 笠井智一343空上飛曹談。
  31. ^ 『歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル 9 決定版 局地戦闘機』(学習研究社、2011年)
  32. ^ 渡辺洋二『遥かなる俊翼 日本軍用機空戦記録』(文春文庫、2002年) ISBN 4-16-724911-1 最後の切り札・剣部隊 p110~p114、およびヘンリー境田・高木晃治『源田の剣』 p53。
  33. ^ ヘンリー境田・高木晃治『源田の剣』序文他
  34. ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』201頁「B-29を迎え撃つ」(資料協力NHK)
  35. ^ ヘンリー境田・高木晃治『源田の剣』他
  36. ^ ヘンリー境田・高木晃治『源田の剣』
  37. ^ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社1999年
  38. ^ 『最強戦闘機紫電改』146頁「『紫電改』と特攻作戦」

[編集] 参考文献

  • 角田高喜ほか『証言|昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション 「紫電改」戦闘機隊サムライ戦記』(光人社、1991)ISBN 4-7698-0549-7
    • 角田高喜(343空整備兵)『翼なき兵士の記録/松山三四三航空隊決戦秘録』
  • 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0651-5
  • 源田実『海軍航空隊始末記』(文春文庫、1996年) ISBN 4-16-731003-1
  • 碇義朗『紫電改の六機 若き撃墜王と列機の生涯
光人社、1987年) ISBN 4-7698-0351-6
(光人社NF文庫、2004年) ISBN 4-7698-2283-9

[編集] 関連項目

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