川和町

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川和町
川和町
川和町
川和町の位置(横浜市内)
川和町
川和町
川和町の位置
川和町の位置(神奈川県内)
川和町
川和町
川和町 (神奈川県)
北緯35度32分14.35秒 東経139度32分52.45秒 / 北緯35.5373194度 東経139.5479028度 / 35.5373194; 139.5479028
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県
市町村 横浜市
都筑区
町名制定 1939年昭和14年)4月1日
面積
 • 合計 1.698 km2
人口
2022年(令和4年)7月31日現在)[2]
 • 合計 9,888人
 • 密度 5,800人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
224-0057[3]
市外局番 045(横浜MA[4]
ナンバープレート 横浜

川和町(かわわちょう)は、神奈川県横浜市都筑区にある地名。丁番を持たない単独町名で、住居表示は未実施区域。周辺は住宅街や商店街が広がる。かつての都筑郡川和町(かわわまち)の中心地で、郡役所と町役場が置かれていた。町のシンボルは川和富士公園に所在する標高74m(塚高15m)の川和富士。この記事では、旧自治体の川和町についても述べる。

地理

都筑区西部に位置する。鶴見川の本流、谷本川が曲がったことから川和となったといわれている。集落は川の自然堤防にあった。かつては「河輪」「川輪」「川勾」とも書いた。古くは鎌倉街道中ノ道が通っており[注釈 1]、交通の要所だった。

旧自治体

かわわまち
川和町
廃止日 1939年4月1日
廃止理由 編入合併
川和町都岡村二俣川村新治村田奈村中里村山内村中川村新田村横浜市
現在の自治体 横浜市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 神奈川県
都筑郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 5,689
国勢調査1935年
隣接自治体 横浜市、中里村、山内村、中川村、新田村、新治村
川和町役場
所在地 神奈川県都筑郡川和町大字川和
座標 北緯35度32分6.4秒 東経139度35分29.5秒 / 北緯35.535111度 東経139.591528度 / 35.535111; 139.591528 (川和町)
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川和町神奈川県都筑郡にかつて存在した自治体でもある。

旧川和町の沿革

  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、川和村、佐江戸村、池辺村、東方村、折本村、大熊村、川向村および本郷村の一部が合併して都田村が発足。
  • 1934年(昭和9年)4月1日 - 都田村が改称して川和村となる。
  • 1935年(昭和10年)9月30日 - 川和村が町制施行して川和町となる。
  • 1939年(昭和14年)4月1日 - 横浜市に編入。旧川和町域が港北区の一部となる。
  • 1969年(昭和44年)10月1日 - 港北区の再編により、旧川和町域が緑区の一部となる。
  • 1994年(平成6年)11月6日 - 港北区および緑区の再編により、旧川和町域が都筑区の一部となる。

旧川和町の交通

鉄道路線

道路

旧川和町の現在の町名

歴史

1977年9月に港北ニュータウン遺跡群発掘調査に伴い川和高校の東側で花見山遺跡が発見され、1300点もの遺物が見つかった。これにより1万年以上前から人々が生活していたことが判明した[7]

中世武蔵国都筑郡川和郷であった。戦国期にこの地を所領したのは北条綱成であるとされる。記録には、農民が借米をめぐって訴え、最終的には後北条氏評定衆が借米の催促を命じたとある。後北条氏はこの地に勢力を伸ばすと、小田原城を守り関東進出の拠点とするため、廃城と化していた小机城(今の港北区小机町)を修復。この城の支城として鶴見川沿いに川和城が整備された。川の合流する川和は交通において重要な地であった。

江戸時代になると都筑郡川和村(川輪村)となった。土地は増上寺領。家数は133軒という記録がある。後期には神奈川宿の助郷村(人馬を提供する助郷を負担する村)となる。

明治になると、1879年都筑郡役所が下川井から川和に移転して置かれ、以後は周辺地域の政治経済の中心地として栄えた。

1889年 - 町村制の施行により都筑郡に12村が置かれる。その1つとして、川和、池辺(いこのべ)、佐江戸、川向、大熊、折本、東方(ひがしかた)、本郷の飛び地を合併して都田(つだ)村が成立。本郷以外の7つの大字ができる。村役場は大字池辺に置かれた。

都田の由来は、都筑郡の「都」と田園地帯であったことから「田」を採ったものである。

本来は「都筑村」を名乗る予定であったが、下川井村等の合併村も「都筑村」を名乗るべく準備していたため、村名を巡る争いになった。結局丘陵地帯であった方が都岡村(「都筑の岡」の意。現在の横浜市旭区)、田園地帯であった方が都田村を名乗ることで収拾した経緯がある。大字川和の当時の人口630人。乳牛や養豚が盛んで、大正時代には川向のモモなどの栽培も盛んに行われた。

1913年 - 大字川和に神奈川県農工銀行川和出張所が置かれる。

1934年1月1日に町制を施行し改称、川和町(かわわまち)が成立。1939年横浜市港北区に編入され、大字川和の箇所に川和町(かわわちょう)が設置され、翌年、字山王原下に港北区役所川和出張所(のちの川和支所)が設置された。

※同じ表記だが、「都筑郡川和町」は一自治体であり川和を含む周辺地域の名称であるのに対し、「港北区川和町」は自治体が設置した一つの町であり範囲も旧川和村に限定されている。

1929年には、東京横浜電鉄(現在の東急バス)による乗合バスが東神奈川駅〜川和間で運行を開始し、漸く公共交通機関が運行されるようになった。(なお、これ以前にも同区間には乗合馬車や乗合自動車が運行されていたが、後者はいわば現在の乗合タクシーに近い業態であったため、大量輸送機関の地区内乗り入れはこれが最初である。)1947年には横浜市営バスも乗り入れを開始した。

1962年鴨居駅の開業は企業進出の契機となり、工場が増える。同年には港北区民の強い誘致運動により、港北区初の県立高校である川和高等学校が設立。以後、厳しい指導や学区の細分化などにより、横浜北部学区のトップ校の地位を築いた。

1970年11月、鶴見川上流のめっき工場からシアン化合物が流出。影響は本川のほか流域の井戸水にも広く及び、同月19日には川和町内のパン工場の井戸から0.22ppmのシアンが検出されるなど環境汚染が問題となった。この井戸の数値は翌日には0.05ppmへと低下したものの、横浜市公害センターはシアンによる汚染がゼロになるまで複数の井戸水の飲用を禁止した[8]

1969年4月、港北区役所川和支所の管内をもって緑区が設置され、従来の川和支所の位置に緑区役所が置かれた。しかし、1972年4月に区役所庁舎が中山に移転するとこれまでの地域の中心地としての役割が薄れ、翌1973年4月に緑警察署(かつての川和警察署、現:川和町公舎、川和交番)も中山に移転。その後も川和郵便局(現在の緑郵便局、現:民間オフィス転用→マンション)が1991年に、緑土木事務所(区役所跡地に所在、現:児童養護施設)が1994年にそれぞれ中山へ移転し、1999年の横浜地方法務局川和出張所(現在の青葉出張所、現:特別養護老人ホーム)の荏田への移転でかつての行政の中心地としての役割は完全に終了した。

1980年代後半より、乱開発を防ぐべく計画的に行われた港北ニュータウンの建設により急速に宅地化が進んだ一方、谷本川沿いなどには農地が広がる。1994年港北区・緑区の再編成に伴い、都筑区に編入。2008年3月30日横浜市営地下鉄グリーンラインが開通して川和町駅が開業。

川和の菊

江戸時代文政の頃から栽培されたは、「川和の菊」として国内で著名であった。菊は幕臣松浦氏から譲られたものであり、研究により栽培された新種の菊が宮内省に献上されたのがはじまりである。多くの皇族や著名人に親しまれた。今でも「川和の菊」と呼ばれる豪商の旧家が残っている。酒の醸造施設や150種類のツバキが集められているが、公開はしていない。川和小学校と川和中学校の校章はこの菊にちなんでいる。

川和の市

かつて、川和で市が開催された(川和の市)「元石川の鍛冶屋」「佐江戸の饅頭屋」など、各地から商人が集まってきた。昭和に入ると流通機関の発達などから徐々に衰退していった。

川和の虫送り

かつて7月25日に、農薬がなかったため、稲の害虫たいまつの火でおびき寄せて焼き殺してしまう行事が開催されていた(川和の虫送り)見物人が多く集まり、屋台も出て非常に賑わった。戦後は地域文化伝承のため数回行われたが、現在では火事の危険などもあり行われなくなった。いまでは都筑区南山田町で毎年7月に行われている虫送り行事が継承されている。2005年(平成17年)に横浜市指定無形民俗文化財に指定された[9]

世帯数と人口

2022年(令和4年)7月31日現在(横浜市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]

町丁 世帯数 人口
川和町 4,541世帯 9,888人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

1995年(平成7年) 8,632人 [10]
2000年(平成12年) 8,320人 [11]
2005年(平成17年) 8,558人 [12]
2010年(平成22年) 8,879人 [13]
2015年(平成27年) 9,460人 [14]
2020年(令和2年) 9,998人 [15]

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

1995年(平成7年) 2,977世帯 [10]
2000年(平成12年) 3,042世帯 [11]
2005年(平成17年) 3,186世帯 [12]
2010年(平成22年) 3,510世帯 [13]
2015年(平成27年) 3,718世帯 [14]
2020年(令和2年) 4,059世帯 [15]

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年8月時点)[16]

番・番地等 小学校 中学校
1〜1724番地、1734〜1757番地
1775〜1990番地、2000〜2005番地
2151番地〜2603番地の7
2604〜2605番地、2607〜2671番地
2673〜2744番地
2746番地以降
横浜市立川和小学校 横浜市立川和中学校
2603番地の8・9、2606番地、2672番地 横浜市立東市ケ尾小学校 横浜市立市ケ尾中学校

事業所

2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[17]

町丁 事業所数 従業員数
川和町 313事業所 5,351人

町周辺

川和富士
県立川和高校
1962年設立。旧横浜北部学区のトップ校。
都田小学校川和分校時代の川和小学校の旧校舎。川和町駅高架下に集会所機能が移されたことにより、2011年末に解体された。
江戸時代末期に築かれた富士塚川和富士を移築復元した郷土富士[18]。遠望が利き、川和のシンボルとなっている。
  • 川和市民の森
横浜市の市民の森制度により2014年4月に開園した、都筑区初の市民の森。敷地面積は約3.5ヘクタール[19]
閉鎖解体後、三井不動産ロジスティクスパーク (MFLP) 横浜港北

主な小字

川和市民の森近くに残る二十三夜塔(文化5年造立)には、川和中村と刻まれている。

「城」に関する小字は、かつて川和城があった名残である。

  • 土府根どぶね
  • 下河内しもごうち
  • 樋口ひぐち
  • 新田尻しんでんじり
  • 新田しんでん
  • 塚田町つかだちょう
  • 塚田向つかだむかい
  • 桜田町さくらだちょう
  • 鵜田りうだり
  • 影淵かげふち
  • 精進場しょうじんば
  • 山王前さんのうまえ
  • 柳町やなぎちょう
  • 城山下しろやました
  • 城古場ぎこば
  • 土腐どぶ
  • 中村なかむら
かつて河輪村の中心部にあったことから由来する
  • 鵜田利向うだりむかい
  • 貝坂かいさか
  • 土腐根どぶね
  • 曲松まがりまつ
  • 稲荷谷いなりやと
  • 原出口はらでぐち
  • 妙蓮寺下みょうれんじした
  • 尾畑おばたけ
  • 城山脇しろやまわき
  • 城山しろやま
  • 四枚畠しまいばた
  • 朏松みかづきまつ
  • 大原おおはら
  • 寅ケ谷とらがやと
  • 影谷かげやと
  • 山王原上さんのうはらうえ
  • 影谷下かげやとした
  • 小谷戸こやと
  • 山王原さんのうはら
  • 中村下タなかむらしたた
  • 山王原さんのうはら
  • 道珍どうちん
  • 瓦田かわらだ
  • 宿しゅく
かつて市が開かれたことから由来する
  • 岩瀬いわせ
  • 入家いりや
  • 堂ノ前どうのまえ
  • 赤土原あかつちはら
  • 餅田もちだ
  • 河輪森かわわもり
八幡神社周辺に多くの木が生い茂っていたことから由来する
  • 屋敷村やしきむら
  • 道玄田どうげんだ
  • 赤松あかまつ
  • 向台むこうだい
  • 権現坂ごんげんざか
  • 狢谷むじなやと
  • 薬師堂山やくしどうやま
  • 東雲寺脇とううんじわき
  • 賀ケ原かがはら
  • 中丸なかまる
  • 猫谷ねこやと
  • 伊勢原いせはら
  • 伊勢森原いせもりはら
  • 見花山けんかやま
  • 大六天山だいろくてんやま
  • 登畑のぼりはた
  • 上サ上村かさうえむら
町の中心より上にあるからという説と、花山天皇が八幡神社を参拝した時、ここに立ち寄ったことから、「花山」が「上山」となり、「上サ」に変化したという説などがある
  • もり
  • 大塚原おおつかはら
  • 上サ原かさはら
  • 押越おっこし
  • 川端かわばた
  • 川端向かわばたむかい
  • 塔林坂とうりんざか
  • 上サ寺村かさてらむら
  • 大割
  • 精進場
  • 釣橋つりはし
  • 天ケ谷てんがやと
  • 荏田境えださかい
  • 池ノ上いけのうえ
  • わたり
  • 池下タいけしたた
  • 市ケ尾村境いちがおむらざかい
  • 東照寺脇
  • 蔭谷
  • 道珍村

地価

住宅地の地価は、2022年令和4年)1月1日時点の公示地価によれば、川和町字餅田1525-23の地点で157,000円/m²となっている[20]

隣接地域

その他

日本郵便

警察

町内の警察の管轄区域は以下の通りである[22]

番・番地等 警察署 交番・駐在所
全域 都筑警察署 川和交番

脚注

注釈

  1. ^ 『新編武蔵風土記稿』の「荏田村」に「村の北の境に古の鎌倉海道のあとあり(中略)川和村のほうまでもその蹟のこり」とある[5][6]

出典

  1. ^ 横浜市町区域要覧”. 横浜市 (2018年7月9日). 2021年8月11日閲覧。
  2. ^ a b 令和4年(2022) 町丁別人口(住民基本台帳による)” (XLS). 横浜市 (2022年8月5日). 2022年8月14日閲覧。 “(ファイル元のページ)
  3. ^ a b 川和町の郵便番号”. 日本郵便. 2021年8月11日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  5. ^ 『新編武蔵風土記稿』 巻ノ87都筑郡ノ7.荏田村。NDLJP:763987/99 
  6. ^ 芳賀善次郎『旧鎌倉街道 探索の旅』 中道編、さきたま出版会、さいたま〈さきたま双書〉、1981年1月31日、58頁。ISBN 4878910755 
  7. ^ 横浜市埋蔵文化財センター 1990, pp. 170–175.
  8. ^ 33ヶ所からシアン検出 横浜谷本川流域の井戸『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月21日朝刊 12版 22面
  9. ^ 文化財・埋蔵文化財”. 横浜市教育委員会 (2021年12月22日). 2022年3月3日閲覧。
  10. ^ a b 平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
  11. ^ a b 平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
  12. ^ a b 平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
  13. ^ a b 平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
  14. ^ a b 平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
  15. ^ a b 令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年8月19日閲覧。
  16. ^ 小・中学校等の通学区域一覧(通学規則 別表)”. 横浜市 (2022年8月5日). 2022年8月21日閲覧。
  17. ^ 平成28年経済センサス-活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
  18. ^ 横浜市埋蔵文化財センター 1990, p. 176.
  19. ^ 区内初「川和市民の森」開園へ”. タウンニュース (2014年3月27日). 2019年12月9日閲覧。
  20. ^ 地価公示・都道府県地価調査”. 国土交通省. 2022年8月28日閲覧。
  21. ^ 郵便番号簿 2020年度版” (PDF). 日本郵便. 2021年8月7日閲覧。
  22. ^ 交番情報”. 都筑警察署. 2021年10月17日閲覧。

参考文献

  • 横浜市埋蔵文化財センター「花見山遺跡・川和富士塚遺跡」『全遺跡調査概要』公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団〈港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告10〉、1990年3月、170-176頁。 NCID BN05701176 

関連項目