大場啓仁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。まっきんりい (会話 | 投稿記録) による 2016年1月23日 (土) 06:43個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎一家心中)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

大場 啓仁(おおば ひろよし、1935年 - 1973年9月4日)は、日本の英米文学者。元立教大学一般教育助教授1973年に不倫関係にあった教え子を殺害後、一家心中した事件で知られる。

人物

経歴

静岡県森町の煙草販売所長の子として生まれたが[1]東京都葛飾区堀切3丁目の左官職人に養子となる。疎開先の栃木県宇都宮で中学と宇都宮高校を卒業後、立教大学文学部英米文学科に入学。細入藤太郎教授に師事し、1958年に卒業。その後、同大学大学院に進学し、修士課程博士課程をそれぞれ修了。専門は19世紀アメリカ文学で、ヘンリー・ジェームス研究が専門だった。業績は全国学会への査読付き投稿論文はなく、学内紀要と翻訳にとどまるが、一般教育部専任講師に採用されて研究者としての定職を確保し、1967年に32歳と人文科学系としてはかなり若い年齢で助教授に昇格した。教授陣に東京大学出身者の割合が高い立教大学にあって、母校出身教員として恩師の細入教授から将来を嘱望されていたが、後述のように1973年に教え子を殺害し、45日後に妻と幼い子供2人と一家心中した。

主要業績

  • ヘンリイ・ジェイムズ―「ボストニアンズ」について― 立教大学文学部英米文学研究室 『英米文学』28、1967年
  • 中里晴彦・大場啓仁訳『ヘンリー・ジェイムズ短篇集』 真砂書房、1969年
  • M.トウェインとW.D.ハウエルズのユートピア物語―産業主義時代と作家―  『英米文学』33、1973年
  • 大場啓仁・鈴木龍一・田中啓史訳 ロード・ラグラン『文化英雄-伝承・神話・劇』 太陽社、1973年10月

立教大学助教授教え子殺人事件

一家心中

1973年9月6日午前4時、伊豆半島南端の石廊崎に近い静岡県賀茂郡南伊豆町池野原の奥石廊崎展望台(愛逢岬)下の海岸で子供を含む男女4人の遺体が釣り人により発見され、豊島区南長崎3丁目のマンションに住む立教大学一般教育部助教授大場啓仁(38)とその妻のJ子(33) および6歳と4歳の二人の幼い娘とわかった。飛び降りた20メートル上の断崖には、「大変迷惑ですが、親子4人、この下の淵で投身自殺をしておりますので、お届け下さい」と、身元と現住所を明記した置き手紙が残されていた[2]自殺の原因は、大場が大学院英米文学科修士課程に所属する教え子のK子(24) との不倫関係清算に失敗し、彼女を殺害したことが発覚したためである。

大場は幼い頃に結核患者の両親から引き離されて親戚に預けられたのち、東京都葛飾区堀切の左官職人に養子として引き取られるという複雑な環境で育った。対照的に妻J子は東京都目黒区大岡山の裕福で円満な家庭に育ち、立教大学文学部英米文学科を卒業しているが、大場にとっては大学の後輩でもある。大場は講師だった当時、J子の親からの強い反対を押し切って結婚した。大場は吃音が激しく内向的性格だったが、スマートな風貌と陰翳的な雰囲気から女子学生の人気は高く、結婚後も女性関係をめぐる風聞は少なくなかった。しかしK子との関係は、教員と教え子の「火遊び」では済まないほど深化していた。大場はK子が学部生だった4年前から性的関係を維持している。一方、K子も甲府市の資産家である両親からの、早く地元に帰って身を固めてほしいとの要望に反し、大場とつきあうため修士論文提出をあえて延期するほど、大場との関係にのめりこんでいた。既婚の男性教員が女子学生と愛人関係になるのは、当然ながらセクシャル・ハラスメントに該当し、当時の基準でも懲戒の対象となりえた。

大場はK子から「妊娠した」と告げられ、妻との離婚を迫られていた。一方、妻のJ子は大学の後輩でもあるK子と夫の不倫を察知し、密会現場に踏み込んだり自殺未遂をするなど、大場にK子との関係清算を強く迫っている。大場としては、助教授の地位と妻子との家族関係を維持するための、追い詰められての犯行だった。しかし、あまりに短絡的で、殺害されたK子と大場本人、さらにはその家族3名の、合計5名が命を失うという、きわめて陰惨な結末となった。

教え子の失踪

K子は大場との愛人関係に悩み、さらにホジキンリンパ腫のため体調を崩し、静養のため甲府市で呉服店を営む実家にしばらく帰省していたが、1973年7月19日に慶應義塾大学病院での定期治療のため上京した。当日午後、K子は新宿駅地下のダイアナ靴店新宿店で買い物をしたのち、獨協大学生の弟と一緒に下宿していた北区十条の親戚宅に宿泊する。しかし、「友達に会うので遅くなる」という伝言を残したまま、翌20日から連絡が絶えた。両親は分別のあるK子の行動としては不可解なうえ健康状態も気がかりだったが、23日になって「二週間ほど旅行します。8月4日に帰ります」という、21日新宿局消印のK子直筆の手紙が実家に届き、ひとまず安心した。また、30日には「大伴旅子」なる人物から、「遊覧船では厄介になりました。あなたの彼によろしく」との礼状が、現金20,000円を添えて郵送されてきた。このため、両親はK子の音信不通はあくまで家出ではなく異性との長期旅行と信じ、また嫁入り前の娘に対する世評も懸念し、大学や警察への捜索願いの届け出が遅れた。しかし事件発覚後、二通の着信はすべて大場の偽装工作だったことが判明する。一方、大場は「大伴旅子」の手紙が届いた30日に、「まだ帰りませんか」と甲府までK子の実家を訪れ、両親からの相談に親身に対応して信頼関係を築くほどだった。

殺害と隠蔽

7月20日午後、研究室を離れた大場はK子と新宿で合流した後、恩師の細入教授が所有する八王子市鑓水別荘多摩美術大学東側、現在の日本聖公会聖ケネス教会)に誘った上で絞殺し、遺体を付近の空き地に埋めた。その後、大場は午後11時過ぎに立教大学アメリカ研究所の女性職員A子を池袋駅近くの料理店に呼び出した。A子は大場が女子学生と問題を起こすたびに相談相手になっていた。大場はA子に、K子との関係について「けりをつけた。君の想像以上の方法だよ」と打ち明け、「自殺?」と尋ねるA子に対し、「もっと大変なんだ」と殺人を示唆したうえで、夕方5時から夜9時まで一緒にいたことにしてほしいとアリバイ工作への協力を懇願した[3]

翌日、大場は細入教授が主催する囲碁同好会に参加するため熱海に向かった。一方、大場からアリバイ工作への協力を依頼されたものの殺人の可能性に困惑したA子は、22日に細入教授門下で大場の8年先輩にあたる英米文学科M助教授に事実を打ち明けた。驚愕したM助教授は、細入教授の義弟で大場とは立教大学の同期でもある専修大学K助教授を自宅に呼び、徹夜で対策を協議する。そして、23日午後に熱海から戻ってきた大場を大学に呼び出し、A子から聞いた事実を確認したうえで自首するようK助教授とともに説得した。大場は「やっちゃったもの、仕方がないじゃないか。残った者がどううまくやっていくか相談しよう」と開き直り、M助教授らは呆れ返ったが、夫の不倫に悩んで自殺未遂をしたことのあるJ子(彼ら共通の後輩でもある)への配慮から、大学および警察への通報を思いとどまる。翌日もM助教授は自首を勧めたが、大場は「自分のことをあれだけ愛してくれた彼女なのだから、あんな扱いをされても、彼女は本望だろう」と言い出し、「では君の娘が将来そんなことをされても構わないのか」と迫られると「それは認めるわけにはいかん」と答え、M助教授をあ然とさせた[4]。こうした先輩・親友の苦悩をよそに、大場は25日に何事もなかったかのように妻子を連れて千葉県の白浜まで海水浴に出かけた。しかし、夫婦喧嘩の末に翌26日夜に一人で東京に戻り、高円寺スナックにK助教授を呼び出す。とはいえ、あいかわらず説得に応じなかった。大場は29日に鑓水に立ち寄り、K子の遺体をより目に付きにくい地点に埋め直している。その後、大場はM助教授に会い、「絶対にわからない場所に埋めた。大丈夫だ」と重ねて自首を拒否した。

K子が帰宅すると告げた8月4日が過ぎ、さらに夏期休暇中とはいえ失踪から約1ヵ月たち、焦慮したK子の母親は8月18日に大学を訪れて捜索を要請した。母親は、大場との関係に悩んでいることを赤裸々に綴った娘の手記を彼女の部屋からすでに発見しており、K子の失踪に大場が何らかのかたちで関与していることを疑いはじめていたが、あくまでも家出と信じていた。一方、大学側は大場とK子の抜き差しならない関係をある程度は察知していたが、個人レベルの問題として外部には「ノー・コメント」で対応する方針を固める。

これに対し、大場はあいかわらず隠蔽工作を続けた。8月20日には細入教授の家族らと鑓水の別荘に宿泊し、翌日は敷地内でテニスやバーベキューを楽しんでいるが、おそらくは遺体を埋めた現場周辺の状況を確認したものと思われる。また、帰宅途中にはK子が通っていた日本翻訳専門学校をわざわざ訪ね、「教え子が自分の責任で行方不明になり困っている。クラスメートの住所を教えてほしい」と、心底心配している態度で協力を依頼した。21日の読売新聞夕刊と翌日朝刊には、「K子さん、連絡を待つ父病気、ひろよし」と大場が依頼した三行広告も掲載されている。

なお、K子の失踪を告げられた妻のJ子は、M助教授たちの説得により、8月上旬から大阪にある姉の嫁ぎ先に娘たちを連れて滞在していた。13日に大阪を訪れたK助教授が面会した際、「K子さんが自殺している可能性があるのですね。そうなっても自分は大場と一緒にやっていくしかないと思います」と答えている。しかし、J子はこの直後に東京に戻り、またも自殺未遂をおかしていた。当時、大場はロード・ラグラン著『文化英雄-伝承・神話・劇』[5]の翻訳原稿の最終校正を行っていた。8月25日に出版社で開かれた共同翻訳者たちとの検討会で、疲労のためか、あるいは教え子失踪の真相が発覚しつつあることへの心理的動揺のためか、何を問われても上の空といった状態だった。このため、結局は会を中断せざるをえなくなったという。そして翌26日、ついに大場は新学期を前に自首を考えるようになり、27日にM助教授らと打ち合わせを始めた。

一方、K子の母親から捜索要請を受けた立教大学側は、学生部を中心に内密に調査をすすめていたが、8月28日になってM助教授から大場の1年後輩で一般教養部の学生副部長だったH助教授に、A子が1カ月以上前に証言したK子失踪の真実が知らされる。スキャンダルの情報は執行部に伝わり、ただちに一般教育部長I教授が大場を呼びだした。さらに30日にはH学生副部長らが聞き取り調査を行う。しかし大場は、K子失踪については「詳しいことは勘弁してくれ」と、のらりくらりと黙秘し、いわば煙にまかれるかたちとなった。執行部内では警察に即時通報すべきとの強い意見も出たが、M助教授は大場を自首させるため最後の説得をするので、いましばらく待ってくれと訴え、また大学側もブランド・イメージへの影響や、万が一間違いだった場合は過激派から人権問題との糾弾を受けかねないうえ、警察官が構内に入ると沸騰している学生運動をさらに刺激する可能性があるとし、慎重に対応することとした[6]

8月31日、M助教授の説得に応じて大場はついに自首を決心し、一般教育部長宛に辞表を郵送するとともに研究室を整理した。翌日、大場はM助教授・K助教授と最後の会食をした。そして、大場とJ子を離婚させ、K助教授がJ子と娘たちを自宅にかくまい、そのうえでマスコミの目に付きにくいだろう土曜日の8日に、大場に弁護士をつけて自首させる手はずが整えられた(ちなみに、当時の世間の耳目は金大中事件に集中していた)。しかし、大場は翌日の9月2日に義父の見舞いに行くとM助教授に電話をかけて以降、妻子とともに消息を絶つ。

大場の一家は、自宅を去った2日の夜は帝国ホテルに宿泊し、ディナーを楽しんでいる。3日朝に東京を離れ、午後3時20分ごろに下田東急ホテルに到着した。伊豆は大場夫妻の新婚旅行の地であった。そして、4日午前10時ごろにホテルをチェックアウトしている。

一方、大場の妻子の隔離を引き受けたものの、大場から数日にわたり一向に音信がないことに不審を抱いたK助教授は、5日に大場宅の鍵を持つJ子の母に声をかけ、豊島区南長崎3丁目にある大場の自宅マンションを訪ねた。しかし内部は無人で家財道具の大半は整理されており、閑散とした室内には不吉にも喪服が整然と備えられていた。さらに、大阪にいるJ子の姉から実家に、現金10万円を添えて大場一家が破滅した顛末と形見分けなど事後の処理を細かく依頼したJ子直筆の遺書が届いたと連絡が入る。また、M助教授の元にも「最後になって深い友情を裏切ってしまうことになりました。(中略)J子には事実については最初から話しておりました。それで彼女には、以来死ぬことだけしか念頭になかったのですが、(中略)今はただ彼女の気持ちだけを最後には尊重してやりたいという気持ちだけが強いようです」という遺書が届く。二通とも3日下田郵便局消印が押されていた。ただちにJ子の目黒区大岡山にある実家から所轄の碑文谷警察署に、ノイローゼ気味の夫婦が娘二人を連れて下田方面に失踪したと捜索願いが出される。

自首を説得して奔走したのに大場夫婦に「やられた」と思ったM助教授とK助教授は、午後10時半ごろに警視庁捜査一課の宿直室を訪問し、大場による教え子殺害の可能性と一家失踪を伝える。そして、翌朝に前述のように大場一家の遺体が奥石廊崎で発見された。下田署による検視の結果、4日の夕刻に一家心中したものと推定されている。

被害者の遺体発見

失踪直後から真相をある程度は大学内の人間が把握していたにもかかわらず、事実を告げられずに娘の消息を求めて奔走していたK子の両親は、当然ながら「犯人隠し」だと激怒した。警視庁は大場の自宅を所轄とする目白警察署に捜査本部を置き、M助教授らから事情聴取しつつ本格的に捜査を開始する。犯人がすでに死亡しており、事件として立件するために被害者の死体を捜索することとなったが、こうした事案は警視庁でも前例がなかった[7]

大場がM助教授に「山かもしれないし海かもしれない。河口湖かもしれない」と、遺体の処理についてはぐらかした発言をしていたため、一時は河口湖の捜索も検討された。しかし、7月19日に大場が細入教授から鑓水にある別荘の鍵を借りていたことが判明し[8]、消息を絶ったK子は大場によって何度か逢引に使われた別荘内で殺害された可能性が強いと判断され、9月12日から周辺の捜索が開始された。その結果、泥のついたスコップが物置から発見されたほか、9月19日には別荘近くのナス畑からダイアナ靴店製の赤いサンダル式ハイヒールが左片方だけ発見されたが、失踪前日にK子が同店の紙袋を持っていたのを弟が記憶していたのと、7月19日に都内で同じ型番が売られたのは新宿店の1足だけだったので、K子のものと断定された。20日には200メートル離れた藪から右片方も発見されている[9]。また聞き込み捜査の結果、7月20日午後4時頃に京王片倉駅付近の中華食堂で大場とK子らしい女性が1時間ほど食事をしていたことが確認され[10]、大場のシャツや下着、軍手など遺留品も発見された。加えて、甲府の実家に届いたK子の手紙の下書きや、『万葉集』歌人の大伴旅人をもじったと思われる「大伴旅子」が使用したのと同じ「万葉」の題が入った便箋が別荘内の押し入れから見つかり、大場がK子を殺害して周辺のどこかに埋めたのは確実と判断された。

しかし、殺人事件としての立件に不可欠なK子の遺体は、細入教授の別荘が雑木林や畑を含め敷地1万平米と非常に広かったうえ、大場が7月29日に埋め直したこともあり、「絶対にわからない場所に埋めた」との大場の豪語を裏付けるかのように発見が難航した。実際には大場の犯行は無造作で短絡的だったが、野球テニスを得意にしていたことから体力のあるスポーツマンと思われていたうえ、大学助教授という肩書から知能犯というイメージもあり、警察内には大場はよほど手の込んだ方法で遺体を処理したのだろうとの悲観的な雰囲気も漂った。

当初は300名態勢で航空隊や警察犬まで動員された捜索も、最終的には捜査一課と目白署の特別班7名に縮小され、「仏探し」が継続された。しかし、別荘周辺の空き地や雑木林を農業用の検土杖でしらみつぶしに突き刺すという彼らの地道な捜索の結果、翌1974年2月28日午後2時30分ごろ、別荘から50メートル離れた崖下にある造成予定地の藪(現在の鑓水板木の杜緑地の外側)から、洗濯用ロープにより両足で頭を抱え込むかたちで三重に縛られ50センチほど掘られた穴に無造作に埋められた、ミイラ化した無残な女性の遺体が発見された。わずかに残っていたオレンジ色のワンピースの柄や髪型の特徴からK子のものと特定される[11]司法解剖の結果、死因は絞殺と断定された。なお、K子が大場に告げたという妊娠の事実は確定できなかった。K子が失踪して224日目。開始から190日間にわたった捜査はこの日で打ち切られる予定だったが、必ず遺体を遺族に届け、大場の犯罪を明らかにするという刑事たちの執念が実った。3月26日に被疑者死亡のまま大場は送検となり、ようやく事件は決着する。

大学への批判

この事件はミッション系で女子の受験生に人気が高い有名大学が舞台となったうえ、当時は現在よりも権威的に見られていた大学教員による教え子不倫殺人という前代未聞のスキャンダルで、さらに一家心中という衝撃的結末から、週刊誌やワイドショーを中心にセンセーショナルに事件が報じられた。とりわけ、複数の学内関係者が殺害の事実を事件直後から察知していたにもかかわらず、大学の体面や内輪の事情を優先して極秘裏に処理することに奔走し、懸命に捜索を続けるK子の両親を無視したかのような立教大学の対応は、遺族のみならず社会から倫理に反すると強く批判された。また、「友情」を優先して40日以上も警察に通報しなかったM助教授らの行動も、通報があれば少なくとも一家心中は防げたはずだと捜査関係者から非難された。一方、「J子には最初から事実を告げていました」という大場の遺書は、自首を説得しつつもJ子のショックを心配したM助教授らの配慮を裏切るもので、9月22日に憔悴しきった表情で記者会見に臨んだM助教授は、「大場に友情を裏切られた」と強い憤りを示している[12]。なお、大場が100万円で複数の学生を不正に入学させたというK子の告発文が実家から発見されたとの報道もなされたが、大場は手続きに関与できる立場ではなかったと大学側に一蹴されている。

学内においては、事件発覚直後に一般教養部長と文学部長が責任を負って辞任し、佃総長も事件に関する調査報告書の完成を待って約1年後に辞任した。また、次期総長と目された細入教授も教え子たちの不祥事で学内行政から遠ざけられ、定年後も名誉教授に就くことができなかった。この事件は、翌年に同じくミッション系の青山学院大学で発生した春木猛教授による教え子強姦事件とならび、知識人の集団であるべき大学教員の権威にダメージを与えることとなる。

事件を題材にした作品

  • 山崎哲『うお傳説』(『うお傳説 漂流家族 山崎哲戯曲集』 深夜叢書社 1982年収録)
  • 映画『女子大生失踪事件 熟れた匂い』荒井美三雄監督、東映、1974年

参考文献

  • 松田美智子 大学助教授の不完全犯罪-女子大生殺害・一家心中事件―(恒友出版 1994年9月 ISBN 4765240835幻冬舎アウトロー文庫 1998年12月 ISBN 9784877286774)。
  • 斉藤充功・土井洸介 情痴殺人事件TRUE CRIME JAPAN 〈4〉 (同朋舎 1996年4月 ISBN-13 9784810422818)。
  • 上條昌史 立教大学を震撼させた「大場助教授教え子殺人」事件 (『新潮45』2005年6月号)。
  • 野坂昭如『子嚙み孫喰い』筑摩書房, 1974

脚注

  1. ^ 『現代の眼』1978年8月号(現代評論社)
  2. ^ 『読売新聞』1973年9月6日夕刊11面。
  3. ^ 『読売新聞』1973年9月18日朝刊23面。
  4. ^ 『読売新聞』1973年9月23日朝刊23面。
  5. ^ 大場の死後に刊行されたこの書籍は、大場にとって氏名が筆頭で掲載された初の刊行物という学術業績となるが、不倫・殺人・一家心中を犯した「文化英雄」と週刊誌に皮肉を浴びせられることとなる。
  6. ^ 『新潮45』2005年6月号52ページ、上條昌史 立教大学を震撼させた「大場助教授教え子殺人」事件。
  7. ^ 『新潮45』2005年6月号51ページ。
  8. ^ 『読売新聞』1973年9月13日夕刊11面。
  9. ^ 『読売新聞』1973年9月21日夕刊10面。
  10. ^ 『読売新聞』1973年10月16日夕刊11面。
  11. ^ 『読売新聞』1974年3月1日朝刊19面。
  12. ^ 『読売新聞』1973年9月23日朝刊23面

外部リンク