堀場雅夫

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ほりば まさお

堀場 雅夫
生誕 堀場 雅夫
(ほりば まさお)

(1924-12-01) 1924年12月1日
死没 (2015-07-14) 2015年7月14日(90歳没)
京都
住居 日本の旗 日本
出身校 京都帝国大学
職業 実業家(株式会社堀場製作所
テレビ番組 堀場雅夫のこころはベンチャー
肩書き 財団法人京都高度技術研究所 (ASTEM) 最高顧問
日本新事業支援機関協議会 (JANBO) 会長
京都商工会議所副会頭
京都市ベンチャー企業目利き委員会委員長 株式会社京都ニュートロニクス監査役 など
子供 堀場厚
堀場信吉
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堀場 雅夫(ほりば まさお、1924年大正13年〉12月1日[1] - 2015年平成27年〉7月14日)は、日本実業家株式会社堀場製作所創業者および同社最高顧問。

概要

1924年(大正13年)、京都帝国大学理学部教授の堀場信吉の長男として京都市に生まれる。京都教育大学附属京都小学校・京都教育大学附属京都中学校(現:京都教育大学附属京都小中学校[2]旧制甲南高等学校(現:甲南大学)を経て、1946年昭和21年)京都帝国大学理学部物理学専攻卒。学生ベンチャーの草分け的存在とされる。

1978年昭和53年)、53歳で代表取締役社長を辞し、代表取締役会長職に退く。堀場は「人生の能力・知力・経験・体力は全部を掛け合わせて40代がピークであり、50代になるとそれが落ちてきてしまう。そこで50歳になったら経営者を退き、後継者(現役)は40代がいい」と、「社長50歳定年制の実行」を1971年大阪証券取引所京都証券取引所への上場が実現した際に宣言する。そして目標の50歳から3年が経過した1978年に堀場は創立25年記念式典で正式に引退を表明。「ワンマン社長の首を斬るのは自らしかない。この機会をとらえてかねてからの考えを実行した」と、引退について述べている[3]

引退後は財団法人京都高度技術研究所 (ASTEM) の最高顧問、日本新事業支援機関協議会 (JANBO) 会長、京都商工会議所の副会頭、京都市ベンチャー企業目利き委員会の委員長、株式会社京都ニュートロニクス監査役などを務め起業家の育成に力を注いでいた。2015年(平成27年)7月14日、肝細胞がんのため死去[4]。90歳没。

堀場製作所会長兼社長の堀場厚は長男。

経歴

受賞歴

現職

著書

新書
文庫
  • 1997年平成9年)7月 - 出る杭になれ! 「わがまま」を言え、「わがまま」を聞け (祥伝社 ノン・ブック・ビジネス)
  • 1999年平成11年)1月 - 仕事ができる人できない人 (三笠書房 知的生きかた文庫)
  • 2000年平成12年)10月 - イヤならやめろ! (新潮社 新潮文庫)
  • 2001年平成13年)
    • 2月 - 出る杭になれ! 「いい人」やめれば仕事ができる (祥伝社 祥伝社黄金文庫)
    • 7月 - 「仕事ができる人」のビジネス心得帖 (三笠書房 知的生きかた文庫)
  • 2003年平成15年)2月 - イヤならやめろ! 社員と会社の新しい関係 (日本経済新聞社 日経ビジネス人文庫)
  • 2005年平成17年)
    • 3月 - その他大勢から抜け出す仕事術 仕事を変える「8つの時間」(三笠書房 知的生きかた文庫)
    • 7月 - 堀場雅夫の社長学 (ワック Wac bunko)

出演テレビ番組

脚注

  1. ^ 【訃報】 弊社創業者 堀場雅夫 逝去のお知らせ”. HORIBA (2015年7月16日). 2018年8月14日閲覧。
  2. ^ 京都教育大学附属京都小中学校 東櫻同窓会 - ニュース”. www.touou-dousoukai.jp. 2018年9月25日閲覧。
  3. ^ 1992年4月「日本経済新聞私の履歴書」、およびそれを原作とした2013年8月9日放送BSジャパン「日経スペシャル・私の履歴書・堀場雅夫(その3)」より
  4. ^ 堀場製作所創業者の堀場雅夫さん死去 朝日新聞 2015年7月16日閲覧
  5. ^ 博士論文書誌データベース

外部リンク