労働党 (オランダ)

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オランダの旗 オランダ政党
労働党
Partij van de Arbeid
党首 ディデリク・サムソム
成立年月日 1946年2月9日
本部所在地 アムステルダム
第二院議席数
30 / 150   (20%)
(2010年6月15日)
第一院議席数
14 / 75   (19%)
(2007年5月29日)
政治的思想・立場 第三の道社会民主主義中道左派
国際組織 社会主義インターナショナル
欧州社会党
社会民主進歩同盟
公式サイト nu.pvda.nl
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労働党(ろうどうとう、Partij van de Arbeid、略称:PvdA)はオランダ社会民主主義政党2007年2月22日以降、第4次バルケネンデ政権与党でもあったが、現在は野党に転じている。欧州社会党および社会主義インターナショナルに加盟。

党史

1945年から1965年まで

1946年2月9日社会主義政党の社会民主労働党 (SDAP)、リベラル左派政党の自由民主連合 (VDB) およびキリスト教左派政党のキリスト教民主同盟(CDU、プロテスタント系)の3政党が合併して誕生。3党は第二次世界大戦中にカトリックレジスタンスに参加した者、キリスト教歴史同盟反革命党(いずれもプロテスタント系)の元党員から構成。

結党当初は社会主義に自由主義宗教人文主義を包含した理念を有していたが、1948年には党の左傾化に批判的な元自由民主連合系の一部党員が離党して、中道右派政党の自由民主国民党 (VVD) を結成。1946年から1958年にかけてはカトリック人民党などから成る連立政権の与党となったほか、1948年にはウィレム・ドレース首相を輩出。

この間国内は大戦からの復興が一段落し、福祉国家建設に取り組みインドネシアが独立を果たした。1958年以後は自由民主国民党に政権の座を奪われ、1965年まで野党に留まった。また、選挙で凋落が始まったのもこの時期である。

1965年から1989年まで

1965年に中道右派連立政権内で軋みが生じると、労働党も参加する新たな連立政権が誕生。しかしこの連立政権も財政問題を巡り内部抗争が絶えず短命に終わる。

一方、労働党内では若手議員(いわゆる新左翼)を中心に、女性解放環境保全第三世界への開発援助などの問題にも取り組むべきとして党改革を主張する動きが表面化し、一時党内は混乱状態に陥った。また、この新左翼の運動に呼応して、ドレースの実子であるウィレム・ドレース・ジュニア中道政党の党員らを巻き込み新右翼政党を結成。1970年、労働党内の内部抗争に嫌気がさした一部党員が離党し民主社会70 (DS70) を結党した。

新左翼が新たな勢力として興隆する中、労働党は新左翼への切り崩し戦略を図るべく、議会内で多数を占める進歩派を基盤とする政権造りに邁進する。労働党は左派リベラル政党の民主66やキリスト教系の急進党 (PPR) とともに協力体制を築いたのである(進歩協定)。1971年翌年総選挙に際して3党は、急進的な共通マニフェストを掲げ選挙後に連立内閣を組織する協定を結んだが、いずれの選挙でも敗北。1971年、政権樹立の夢が潰えた一方で、労働党の離党者から成る民主社会70がビースフーヴェル政権の与党となった。

また1972年の選挙では、労働党もカトリック人民党も過半数を取ることが出来なかったため、両党らは共闘し労働党党首のヨープ・デン・アイルを首班とする連立政権を発足させる。この連立政権は社会や経済の抜本的な改革に乗り出すが、不況とイデオロギー上の問題を抱え頓挫。特に、首相とカトリック人民党との折り合いが悪く、1977年の選挙直前に連立政権が瓦解してしまった。選挙後はキリスト教民主主義政党のキリスト教民主アピール (CDA) と自由民主国民党との連立政権が誕生し労働党は野党となった。

1981年の選挙では、キリスト教民主アピールと自由民主国民党が共に大敗し、議会第1党のキリスト教民主アピールは労働党やリベラル左派政党の民主66 (D66) との共闘を選択するものの、ドリース・ファン・アフト率いる新政権はアイルとの諍いが絶えず数ヶ月後に崩壊。翌年1986年の各選挙ではキリスト教民主アピールと自由民主国民党がいずれも勝利し労働党は野党に転落した。この間党改革を進め、1986年にはアイルが政治家を引退し代わってウィム・コックが党首となった。

1989年から現在まで

1989年の選挙後、キリスト教民主アピールとの連立政権に復帰しコックはルード・ルベルス首相の代理首相に就任。労働党は公営企業民営化福祉国家の見直しなど、ルベルス政権が着手した経済改革を受け入れつつ与党に留まった。党の姿勢に対しては労働組合から強い抗議を受けたのみならず、党内でも大きな波紋を広げた。

1994年の選挙では、労働党とキリスト教民主アピールが議会で過半数割れとなったものの、労働党が議会第1党に躍進したため、コックは自由民主国民党や民主66との連立政権を樹立。この所謂「紫政権」は1918年以降初めてキリスト教民主主義政党が与党を降りたことから、オランダ現代史上画期的な出来事となった。新政権の下でも経済改革を進めたが、コックの人気は高くカリスマとして政界に君臨。1998年の選挙でも、民主66の議席減を尻目に労働党と自由民主国民党が議席を伸ばしコック政権は再選された。

2002年の総選挙でも党勢の拡大が期待されたが、コックがアド・メルケルトに党首の座を譲りピム・フォルタインが台頭すると、その望みは打ち砕かれることとなった。メルケルトがコックに比してカリスマ性が乏しいこと、フォルタインの掲げる移民問題などに十分応えることが出来なかったことが相俟って、選挙の結果45議席から23議席に激減するなど大敗を喫した。選挙後メルケルトは党首を辞任し労働党も野党に下り、キリスト教民主アピールと自由民主国民党、そしてピム・フォルタインリストが連立政権を組むが短命に終わる。

この間、ファウター・ボスが党員によるレファレンダムで党首に選出され、党組織の民主化に着手しイデオロギー上の方向性を大きく変えた。2003年の選挙では、ボスが前回選挙で失ったほぼ全ての議席を奪還、再び議会第2党となったが、バルケネンデ率いるキリスト教民主アピールとの連立与党入りへの交渉が難航し、野党に甘んじることとなった。2006年の地方選挙では党改革が奏功し大勝、他与党を差し置いて第1党に躍進したものの、国政選挙では9議席を失うなど敗北。現在は33議席しか有しておらず、与党の社会福祉切り捨てを厳しく批判する[1]社会党へ票が流れつつある。2010年の総選挙で連立政権から離脱。

イデオロギー

伝統的に福祉国家建設を目指す社会主義政党を標榜してきた。1970年代は女性解放や環境保全及び第三世界への開発援助といった問題に取り組んでいたが、1990年代に入ると福祉国家改革や公営企業の民営化を掲げるなど方針が穏健化した。2005年には従来の新自由主義的政策を見直し中道左派寄りの方針を採択したことにより、雇用や社会福祉のほか教育、治安および医療への公的投資を重視するようになった。

地方自治

アムステルダムヨプ・コーヘン市長らをはじめ、全国414名の市長のうち122名の党員市長を抱える。多くの自治体で与党となっており、2006年の地方選挙以後更に与党の自治体が増え続けた。

選挙母体

歴史的に労働者階級の支持が厚いが、現在は公務員や移民の間にも比較的支持が広がっている。アムステルダムやロッテルダムなど大都市やフローニンゲンフリースラントおよびドレンテの北部各州で強い。

党組織

代表者会議

地方支部の代議員から構成される代表者会議が党最大の機関である。代表者会議は年1回開かれ、第一院第二院および欧州議会の候補者を決定するほか、党の運営方針についての最終決定権を有する。2002年以降は全代議員によるレファレンダムが代表者会議に置き換わりつつあり、レファレンダムを通じて党首や議長が選出されている。2002年にはファウター・ボスが党首選挙で勝利。

党員数

現在500の地方支部に62,000名の党員が存在。

他党との関係

労働党のデモ(2004年10月)

国内ではこれまでキリスト教民主主義政党のキリスト教民主アピールや急進党、リベラル政党の民主66や自由民主国民党などと連立政権を組んでいた。1971年から1977年までは民主66や急進党と、1977年から1989年までは民主66とそれぞれ連立政権を担当していたが、2003年以降は民主66との関係が悪化。民主66が与党の政権では労働党が野党となり、労働党が与党として参画している政権では民主66が野党であった。なお、第2次・第3次バルケネンデ政権では社会党やフルンリンクスとともに労働党も与党入りを打診されたが、党首が要請を断っている。

国際比較

オランダ労働党の他に第三の道を採用しているヨーロッパの社会民主主義政党としては、ドイツ社会民主党イギリス労働党などが挙げられる。また、アメリカ民主党内のリベラル派にも政策面で類似する。

脚注

関連項目

外部リンク