加藤喜美枝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。KoZ (会話 | 投稿記録) による 2022年8月19日 (金) 13:39個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (wikify,sty,fmt)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

加藤 喜美枝(かとう きみえ、1913年大正2年〉6月18日 - 1981年昭和56年〉7月29日[1])は美空ひばりの実母。本名加藤キミ、東京都出身[1]。35年間マネージャーを担当するなど公私ともにひばりを支えた。

人物

東京・山谷の出身[2]。結婚後は夫である加藤増吉の営む鮮魚店「魚増」の切り盛りと、4人の子供達(後の美空ひばり佐藤勢津子かとう哲也香山武彦)の子育てをしながら主婦業を務めた。

1943年6月、第二次世界大戦に夫・増吉が海軍に出征となり壮行会が開かれ、和枝(後の美空ひばり)は父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達が和枝の歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝は和枝の歌唱力に人を惹き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊から和枝の歌による慰問活動を始めるようになった。

長女・和枝の芸名「美空ひばり」は喜美枝が命名した。

最期

1977年10月、大腸癌で入院・手術し同年11月に退院。その後も入退院を繰り返し闘病生活を送ったが、1981年7月、転移性脳腫瘍のため68歳で死去。次女の佐藤勢津子によれば、死の数日前、ひばりと息子の和也、勢津子との4人で喜美枝の車イスを押しながら庭を散策したという。その時の『感謝』という言葉が、喜美枝の最後の言葉となった。

喜美枝が亡くなった際、火葬場にて最後の別れが終わった後、母の入った棺がかまどの中に入る際、ひばりは大きな叫び声をあげながら、本気で一緒にかまどの中に向かおうとした。しかし、参列していた高倉健萬屋錦之介の二人に強く引き止められつつ、ひばりはずっと号泣していたという[3]

脚注

  1. ^ a b 加藤喜美枝とは - コトバンク
  2. ^ 新藤謙『美空ひばりとニッポン人』晩聲社、1998年、16-17頁
  3. ^ ザ・スター リバイバル』 第4回(BSフジ 2013年11月9日)放送分 加藤和也コメントより