元老院 (ローマ)

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元老院でカティリナを攻撃するキケロ
チェーザレ・マッカリ画(1888年
現存する帝政ローマ期の元老院議事堂であるフォルム・ロマヌムクリア・ユリア

元老院(げんろういん、ラテン語: Senātus、セナートゥス)は、古代ローマの統治機関。

歴史

共和政時代

共和政時代では、元老院は建前上執政官の諮問機関であったが、名望家や現職および元職の要職者のほとんどを議員とし、また名望家は多数のクリエンテスを抱えることにより立法機関である市民集会に多大な影響を与えていたため、その実体は外交・財政などの決定権を掌握する実質的な統治機関であった。ローマを指す言葉にSPQRがあるが、これは "Senatus Populusque Romanus"(元老院とローマの市民)の略である。

元老院議員は、過去に会計検査官を務めた人物を対象に、監察官が検討した上で決められていた[注 1]。例外として、護民官を経験した平民は自動的に議員になれた。

新たに元老院議員となる場合、過去に議員を輩出した家系の出身者であることが有利に働いた(そのため、議員を何人も輩出する家系は次第にノビレスと呼ばれる特権階級を形成していった)。ただしノビレスの方が有利とはいっても、ノビレスであれば自動的に議員になれるわけでもなく、ましてや世襲によってその身分が継承されることもなかった。

議員の多数を占めるノビレスはノブレス・オブリージュの精神の体現者という側面が強く、そのため戦場に赴くことを厭わず、そこで戦死する者も多かった(その最悪のケースがカンナエの戦いである)。加えて古代故に各議員の寿命は短く、また職を担えないほどに老衰した際は自ら身を引く者も多かった。そのため、元老院議員の身分は終身であるにもかかわらず、議員の新陳代謝は十分に機能していた。

ローマで要職を目指す者は、成人(17歳)から約10年に亘る軍隊経験が必須とされていた。元老院議員になった者も例外ではなく、裏を返せば元老院は、軍事及び国政に関する経験や見識を備えたエリートの集団であったと言える。終身制であるが故に1度議員になればその身分を失う不安はなく、そのため各議員には長期的視点に立ってローマの方向性を示すことが期待された(これに対し、官職はほぼ全て選挙で選出される)。

ローマは民主共和政社会であり、執政官の選出、法律の制定など重要事項は市民集会により決定される。元老院は単なる諮問機関であり、権力は持たない[注 2]。だが実際には、元老院はその権威により政治を主導し、実質は貴族共和制・寡頭制国家であったとされる[注 3]

内乱の一世紀

元老院主導の政治体制は、ローマが単なる都市国家(キウィタス)、あるいは都市国家連合の長であった頃は上手く機能していた。その頃の元老院議員=ローマ貴族は、貴族と言えど単なる地域の有力者に過ぎず、言ってみれば「面倒見の良い者」というに過ぎず、ノブレス・オブリージュによる義務を果たす事を求められる存在であった。特にポエニ戦争ではその機能を十全に発揮した。

しかしローマが地中海全域を勢力圏とする大国になるにつれ、ラティフンディウムの普及により貧富の差が拡大し、元老院議員=ローマ貴族は、特権にあぐらをかき、私利私欲を優先する存在となった。議員の質は低下し、体制も硬直化していった。特に属州総督の地位を利用しての蓄財は、共和政を通じての問題であり続けた。ただ、多くのローマ貴族はパトロヌスとして大勢のクリエンテスを保護する立場であり、「面倒見の良い者」で有り続けた。かつてローマが都市国家である当時は、ほとんどの構成員がローマ貴族=パトロヌスに保護されるクリエンテスであったのが、ローマという国家が拡大するにつれて、ごく一部の身内だけの保護者になってしまい、結果としてローマ貴族が私利私欲を優先するようになったという見方もできる。

そのような状況でグラックス兄弟はローマの抱える問題を見抜き、その改革に着手したが、護民官の立場の弱さ(護民官は武力を持たず、しかも元老院体制の外にあった)故に失敗する。そこから元老院派(閥族派)民衆派の争い、内乱の一世紀の幕が開ける。

その中で、グラックス兄弟の失敗を踏まえ、武力を有し独裁官の立場で改革に当たったのがルキウス・コルネリウス・スッラガイウス・ユリウス・カエサルである。スッラは元老院体制を手直しし、建前上は単なる諮問機関であった元老院に実質的な権限を付与し、その存続を図った。さらに定員をそれまでの300から600に倍増させた。騎士階級などの新興有力者を新たに元老院に取り込んだが、定員が増えることで議論百出の末に結論が出ない、といった弊害も悪化した。そしてカエサルは元老院体制の打倒と新体制の樹立を目指し、カエサル暗殺後は後継者のオクタヴィアヌス(アウグストゥス)によって帝政が完成した。

帝政時代以後

帝政時代になると、元老院はしだいに皇帝の統治に組み込まれていき、その地位は低下していった。また軍団勤務の義務も緩くなっていった。それでも五賢帝時代までは、「元首」である皇帝の正統性、後継者を承認(護民官職権授与)する機関として重要であり、皇帝の発した勅令も恒久法制化するには元老院の議決を必要とした。そして軍団叩き上げの人物でも政務に関わらせるために、皇帝の推挙によって元老院の議席を得たりした。トラヤヌスなどの皇帝たちも、元老院の権威を尊重しながら統治を行なった。また帝国の属州総督も半数は元老院に任命権があった。元老院が総督を任命する元老院属州は、皇帝が総督を任命する皇帝属州より統治が容易で経済力もある地域であり、元老院はいわば実利を握る立場であった。

しかし、続く軍人皇帝時代になって帝国各地の軍団が勝手に皇帝を擁立するようになると、帝位の承認機関としての地位も失なわれ、ローマ市の市参事会(市議会)程度の役割しか果たせなくなっていった。また、皇帝ガリエヌスの時代に元老院を軍務から締め出す法を可決したことで、軍務と政務のバランスの取れた人材を輩出する手段も絶たれた[注 4]

一方で、皇帝がローマ市から離れたことで、イタリア本土やアフリカでの元老院の影響力はむしろ増大した。また、イリュリア出身の氏素性が定かでない軍人上がりの皇帝たちは元老院との利害関係を持たず、元老院に関する問題については、軍に随行していた元老院議員や元老院からの使節団の意見が通りやすくなったと想像される。元老院が軍事からは締め出されていったのは確かであるが、政治的立場は従来とは異なる形で向上し、クラウディウス・ゴティクスタキトゥスプロブスに見られる元老院への敬意は、こうした歴史的事情を反映しているとも考えられる[1]。見方を変えれば、皇帝の地位が単なる軍事司令官に低下し、政治は元老院が主催する体制になったと言える。

その後ディオクレティアヌスが軍人皇帝時代を終焉させ、専制君主制(ドミナートゥス)に移行すると、再び皇帝の地位と権威は向上し、元老院の地位は低下した。ディオクレティアヌスは属州を再分割し属州総督の権力を削減し、強固な官僚支配体制を確立したが、それは今まで半数の総督任命権を持っていた元老院の権力削減でもあった。

コンスタンティヌス1世は、自身もイリュリア出身でありながら元老院議員の再登用を進める。マクセンティウスを破りイタリアの支配者となった312年から326年までの間に次第に増員し、600名から2000名にまで拡大した。編入されたのは、主に騎士身分高官と都市参事会員層である。なお、この元老院拡充過程で、騎士身分はその固有の官職や称号を喪失し、身分としての特徴を失っていった。

ローマ元老院は476年西ローマ皇帝の地位が廃止された以降にも存続した。東ローマ皇帝の代官としてイタリアを統治したオドアケルやオドアケルを滅ぼしたテオドリックの下で元老院は貨幣の鋳造権を取り戻し、ローマ市の人口が40万人ほどにまで回復したこともあって帝国におけるローマ元老院の権威は一時的に回復することになった。しかし6世紀になると東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が西ローマ帝国における皇帝権威の回復事業によってローマ市を大きく荒廃させてしまい人口も激減、多くの建物やモニュメントが打ち捨てられて廃墟と化し、政治・経済の中心地であったフォロ・ロマーノは土砂の下へと埋もれてしまったほどであった[注 5]。さらに554年のユスティニアヌス1世による『国事詔書英語版[注 6]Sanctio Pragmatica)によって行政権の一部が元老院からローマ教皇庁へと移されたこともあり、これ以降、ローマ元老院の政治的重要性は大きく低下していった[2]。ローマ元老院の存続は以後も例えば9世紀のローマ教皇セルギウス2世の治世などに確認できるものの[3][2]、その組織的な政治活動を確認できるのは7世紀初頭の東ローマ皇帝フォカスの治世までとなっている[3][4]。教皇庁へ与えられた行政権は1143年に市民蜂起によってローマ元老院へと返還されるが[2]、返還当時に古代から続いていた元老院家系は僅か50家ほどで、12世紀末まで元老院議員としての活動を続けていたのは「元老院の第一人者」(プリンケプス・セナートゥス英語版)でもあるローマ市長官だけだった。

コンスタンティノポリス元老院

330年コンスタンティヌス1世によってコンスタンティノポリスが開都されると、コンスタンティウス2世の統治下で[5]、遅くとも340年までにはコンスタンティノポリスにも元老院が置かれた[6]。当初、コンスタンティノポリスの元老院はローマの元老院のような栄誉や法的特権を有していなかったが、359年にコンスタンティノポリスが属州都市から地方自治都市へと昇格されたことにより、コンスタンティノポリス元老院の権限も361年頃から段階的が引き上げられていった[7]

コンスタンティノポリス元老院は、最初から東ローマ皇帝の諮問機関として設立された。東ローマ皇帝の不在時に東ローマ帝国を代表する役割や、東ローマ皇帝が後継ぎを指名せずに死去した場合に後継者を指名する役割も果たした。コンスタンティノポリス元老院はローマの元老院と同じく「元老院」と呼ばれてはいるものの、両者の間には違いもあった[7]。ローマ元老院がローマ帝国の最高統治機関としてローマ皇帝からも独立しており、東西の皇帝府とは対立的であったのに対し、コンスタンティノポリス元老院は常に東ローマ帝国の皇帝府と密接に結びつき、元老院議員でありながら東ローマ皇帝にも仕えているという人物も多かった[8]。コンスタンティノポリス元老院で議員となったのは、ローマ元老院の場合と同じく主に都市参事会員層であった。これは、支持基盤を必要としたコンスタンティウス2世が帝国東部を円滑に統治するため、伝統的勢力である都市参事会員層の支持を取り込み、恩恵を与える場が必要であったためでもある。

当初、東ローマ皇帝には「元老院・軍隊・市民の推戴によって初めて帝位の正当性を受ける」という不文律があった。これは前述のローマ元老院の伝統を引き継いだためである。しかし5世紀も半ばになるとコンスタンティノポリスでは皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、これが古代ローマの伝統に取って代わった[9][10][注 7]6世紀ユスティニアヌス1世の絶対主義によって政治の表舞台から遠ざけられたコンスタンティノポリス元老院は7世紀ヘラクレイオス王朝下で一時的に活力を取り戻すものの[11]、その役割は次第に儀式的なもののみとなっていった。7世紀後半以降は元老院議員身分の世襲が認められなくなり、一定以上の爵位を持つ高級官僚[注 8]を元老院議員と呼ぶようになり、「元老院議員」であることが組織された統治体の一員(元老院の議員)であることを意味しなくなった。遅くとも850年代までにはコンスタンティノポリス元老院は実体のない存在となっており[3][4][12][13]、皇帝レオーン6世は「もはや元老院は言葉の上にしか残っていない」としてコンスタンティノポリス元老院の消滅を正式に宣言した[12][13][注 9]。しかし、あくまでも名目的ながら、その滅亡まで東ローマ帝国の制度の根幹に元老院があるという認識は存続した[注 10]

脚注

注釈

  1. ^ 後にスッラの改革を経て、ほぼ自動に近い形で決まるようになる。
  2. ^ しかし共和政末期には、スッラの改革において、実権力を付与された。
  3. ^ ペリクレスの全盛時代にアテナイへ視察団を派遣しているが、その制度を取り入れることはなかった。
  4. ^ 近年の研究では異説が出ている。詳しくはガッリエヌス#文武官の分離と歴史的意義を参照
  5. ^ 6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世をして「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆かせるほどの荒廃ぶりだった。
  6. ^ 名称は『基本勅令』と翻訳されることもある[2]
  7. ^ ただし、井上浩一は論文「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」(#笠谷2005p194-5)にてレオン一世の戴冠について述べたくだりで「総主教による戴冠は、それ自体として皇帝を生み出すものとは考えられなかった。総主教は、ある場合には元老院・市民・軍隊の代表者として戴冠し、ある場合には皇帝によって指名された人物を改めて聖別したに過ぎない」としている
  8. ^ 9世紀頃の東ローマ帝国では上から8番目の爵位である「プロートスパタリオス」(筆頭太刀持ちの意)以上が元老院議員身分とされていた(ミシェル・カプラン著 井上浩一監修『黄金のビザンティン帝国』(1993年 創元社「知の再発見」双書28 P46))。この爵位はテマ(軍管区)の長官などの官職を持つ者に与えられていた。
  9. ^ レオーン6世は同時期に古代ローマの市民(デーモス)の存在を否定する勅令も出した[14]。その後にデーモスという語はレオーン6世が編纂させた官職表『クレートロロギオン英語版』によって官職名として再定義された[14]
  10. ^ 10世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス7世が著した『儀式の書』の序文でも「古の慣習は帝国の輝きを比類ないものへと磨き上げるために朕が牧場から集める花のようなものである。それはまた曇りひとつないまでに磨き上げられた光り輝く鏡のようなものであろう。朕はこの鏡を宮殿の中央に置き、皇帝権力にふさわしいもの、元老院制度にふさわしいものを写し出すものとするであろう。」(劇場国家ビザンツ 井上浩一 Archive.isに保存されているアーカイブ 元は大阪市立大学インターネット講座掲載)と書かれており、コンスタンティノポリス元老院の実体が消滅して久しい10世紀になっても東ローマ帝国の制度の根幹に元老院があるという認識は存続していた。また、さらに時代が下った12世紀にコムネノス朝の皇女アンナ・コムネナが父アレクシオス1世コムネノスについて著した歴史書『アレクシアス(アレクシオス1世伝)』でも「元老院」(: σύγκλητος)という用語は使われており、例えば同書の第1巻9章5節では「(父アレクシオス)は皇帝からセヴァストスの爵位を受け取り、元老院の満座の中でセヴァストスと呼ばれたのである」と書かれている(アンナ・コムニニ(コムネナ)、相野洋三訳『アレクシアス』悠書館 2019年)P31。

出典

  1. ^ 井上文則 『軍人皇帝時代の研究 ローマ帝国の変容』 151~158頁、岩波書店、2008年 ISBN 978-4-00-022622-6
  2. ^ a b c d 「ローマ」『世界歴史大事典』教育出版
  3. ^ a b c 「元老院」『世界史事典』評論社、2001年。ISBN 4566049515
  4. ^ a b 長谷川・樋脇2004、p.81。
  5. ^ [ローマ史]『ブリタニカ国際大百科事典』第2版、TBSブリタニカ、1993年。
  6. ^ 尚樹1999、p.56。
  7. ^ a b 尚樹1999、p.57。
  8. ^ 尚樹1999、pp.57-60。
  9. ^ オストロゴルスキー2001、p.85。
  10. ^ 尚樹1999、p.51。
  11. ^ オストロゴルスキー2001、p.153。
  12. ^ a b オストロゴルスキー2001、p.318。
  13. ^ a b 尚樹1999、p.441。
  14. ^ a b 井上2009p72、p.72。

参考文献

  • 井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会〈学術選書〉、2009年6月。ISBN 9784876988433 
  • 笠谷和比古『公家と武家の比較文明史』思文閣出版、2005年。ISBN 4784212566 
  • ゲオルグ・オストロゴルスキー 著、和田廣 訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年。ISBN 4770410344 
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年。ISBN 4486014316 
  • 長谷川岳男樋脇博敏『古代ローマを知る事典』東京堂出版、2004年。ISBN 4490106483 

関連項目