九〇式野砲

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九〇式野砲

機動九〇式野砲
制式名称 九〇式野砲/機動九〇式野砲
重量 九〇式野砲 1,400kg
機動九〇式野砲 1,600kg[1]
口径 75mm
砲身 2,883mm
砲口初速 683m/s
最大射程 14,000m[2][3]
高低射界度 -8°〜+43°
方向射角度 左右25°
使用弾種 九〇式尖鋭弾
九〇式榴弾
九四式榴弾
九四式鋼性銑榴弾
九〇式破甲榴弾
三八式榴霰弾
九〇式榴霰弾
九〇式焼夷弾
九〇式照明弾
九〇式発煙弾
一式徹甲弾
使用勢力  大日本帝国陸軍
運行方式 6馬挽馬[4]自動貨車九八式四屯牽引車
総生産数 九〇式野砲 約200門
機動九〇式野砲 約600門[5]

九〇式野砲(きゅうまるしきやほう)は、1930年代初期に大日本帝国陸軍が開発・採用した野砲、生産数は約200門。本項では機械化牽引を目的とした派生型で、生産数が約600門の機動九〇式野砲(きどうきゅうまるしきやほう)についても詳述する。

第二次世界大戦では改造三八式野砲とともに帝国陸軍の主力野砲として運用された。

概要

九〇式野砲の開発以前(日露戦争後)、帝国陸軍の主力野砲は1907年明治40年)に制式採用された三八式野砲であったが、1910年代第一次世界大戦を経て火砲の性能が格段の上昇を遂げると、駐退復座機の導入に伴う過渡期の産物であった三八式野砲は陳腐化してしまった。

陸軍はこの事態に際し、1920年代にコストと時間の関係から三八式野砲を改良して最大射程を伸ばした改造三八式野砲を開発・量産する一方で、新型野砲の導入に向けた動きを1920年大正9年)から進めていた。しかし当時の日本には列強各国の新型火砲と同等のものを自力で開発できる技術がなかったため、新型野砲の開発は必然的に外国の技術に頼ることとなり、陸軍は外国に視察団を派遣しその設計を依頼することにした。この過程で注目を集めたのが火砲先進国であるフランスシュナイダー社が提案した75mm野砲であった。この75mm野砲は世界で初めて砲身後座方式を採用した75mm野砲 Mle 1897を発展させたもので、開脚式砲架などいくつかの新技術が取り入れられていた。陸軍はシュナイダー社と交渉を重ね、最終的にこの新型野砲の購入とそれに伴う新技術の取得で合意した。

陸軍は当初シュナイダー砲の購入で得られた新技術を基に新型野砲を開発する予定であったが、コスト面や技術的な観点および購入砲自体が優れていたことなどから、最終的にシュナイダー砲に改良を加えたものを陸軍新鋭野砲として導入することにした。改良の主なポイントは、ヨーロッパでの運用を前提にしているシュナイダー砲を中国大陸での運用に適したものにすることであった。本砲の設計は1928年昭和3年)に開始され、数度の改正を経て1930年(昭和5年)に試製砲が完成し、1931年(昭和6年)に仮制式制定を経て1932年(昭和7年)に九〇式野砲として制式制定された。

技術的特徴と採用までの経緯

本砲の技術的特徴として以下の点が主に挙げられる[6]

  1. 自己緊縮方式の採用による砲身の抗堪力の向上。
  2. 砲口制退器の採用による、射撃時の砲架への反動低減。
  3. 駐退復座機に空気式を採用することで、反動の吸収を容易化。
  4. 開脚式砲架と打ち込み式駐鋤の採用による、射角、方向限界の増大と射撃操作の容易化。

しかし、重量が過大であったため参謀本部の作戦担当者はこの点を問題とし、機動性に重点を置いたさらなる新型野砲の開発を主張した結果、開発・生産されたのが九五式野砲である。他方、実用側の部隊からは、長射程の九〇式野砲を主力野砲とすべきと主張し両者の意見は対立した。結果、関東軍第2師団で九〇式野砲の部隊実験を行った結果、長射程が重量過大を補って余りある価値があることを証明したため、以降九〇式野砲の整備が進められていった[7]

機動化

1931年(昭和6年)3月、同年に仮制式制定となる九〇式野砲を臨時に機械化牽引する目的をもってサスペンション付の台車を研究することになり、翌1932年(昭和7年)5月に設計着手、1934年(昭和9年)に完成[8] し、1935年(昭和10年)8月九〇式野砲機動台車として制定された。制定は後述の機動九〇式野砲とほぼ同時期になったが、既存九〇式野砲装備部隊の自動車化のために先に生産に入り、牽引車の代わりに自動貨車で牽引させた[9]

機動九〇式野砲

これとは別に本格的な機械化砲兵用の火砲(機動砲)研究のため、1931年(昭和6年)3月、九〇式野砲機動台車の研究開始と同日付で九〇式野砲を改修した機械化野砲の研究が決まり、1933年(昭和8年)6月に設計着手[10]、改修は車軸をサスペンション方式とし、車輪に直径800mmのパンクレスゴムタイヤを採用、その他細部の改修が実施された。二次に亘る試験の結果、射撃精度は通常の九〇式野砲とほぼ同等であることが証明され、1935年(昭和10年)3月23日に制式が上申され、同年8月9日機動九〇式野砲として制定された[11]

機動九〇式野砲は最終的に600門前後が生産されており(九〇式野砲は約200門)、1939年(昭和14年)には実戦投入されているが本格的な大量配備は1942年(昭和17年)に戦車師団軍隊符号1TKD2TKD3TKD)およびその隷下となる機動砲兵連隊編成されて以後のことになる[12] 。なお、製造された機動九〇式野砲には、九〇式野砲から改造された砲もあった[13]。牽引車には主に九八式四屯牽引車が使用された。

実戦

九〇式野砲の初陣は1931年(昭和6年)の満州事変であり、その長射程が多少の重量過大面を補ってあまりあることを証明した[14]。このため、以後九〇式野砲の整備が進むこととなる[15]。しかしながら、帝国陸軍はドイツ陸軍およびアメリカ陸軍の運用方式に倣い、師団砲兵(野砲兵連隊等)の火力向上のため1930年代末頃から(師団砲兵の)主力火砲を従来の75mm野砲2~3個大隊と九一式十糎榴弾砲1個大隊から、野砲1個中隊・十榴2個中隊から成る3個大隊と十五糎榴弾砲1個大隊(全大隊輓馬編成)に改編する計画[16]を立て、野砲と山砲の生産を緊縮し九一式十榴等の量産に努めていたため、九〇式野砲自体は約200門しか生産されなかった(なお、機動砲である機動九〇式野砲は量産が進められ、九〇式野砲の3倍である約600門が生産されているが、当時の諸外国でこのクラスの砲は10,000門以上製造されていたのに比べると少ない)。

機動九〇式野砲の初陣は1939年(昭和14年)のノモンハン事件で、8門を擁する独立野砲兵第1連隊 (1As) の2個中隊第23師団(23D)隷下として投入された[17][18]。本砲は当初安岡支隊に直協すべく配備されたが、7月1日よりの両岸攻撃では野砲兵第13連隊(13A)の第2大隊と交代させられ、左岸の小林隊に直協した[19]

1941年(昭和16年)に太平洋戦争大東亜戦争)が勃発すると、九〇式野砲・機動九〇式野砲もまた連合軍との戦いに投入された。1944年(昭和19年)のフィリピン防衛戦では機動九〇式野砲を擁する戦車第2師団 (2TKD) 隷下の機動砲兵第2連隊の2個中隊が投入された。その後も硫黄島の戦い戦車第26連隊(26TK、連隊長西竹一陸軍中佐)の8門[20]が、沖縄戦戦車第27連隊 (27TK) の4門などが使用されている。特に沖縄戦では2門の機動九〇式野砲がアメリカ海軍艦艇を砲撃し、海岸線防御の遊動砲兵として戦った[21]

また、本砲はその高性能を生かして対戦車砲としても転用され、一式機動四十七粍砲を凌ぐその大火力を発揮した。また戦車砲としても一式七糎半自走砲/一式砲戦車 ホニIの備砲として転用され、さらに改修型である三式七糎半戦車砲(II型)が三式中戦車 チヌ三式砲戦車 ホニIIIに搭載された。チヌとホニIIIは量産されたものの本土決戦のため内地に温存され終戦を迎えたが、ホニIはフィリピン防衛戦とビルマ戦線などに少数が投入された。フィリピンではサラクサク峠の戦いにて上述の機動砲兵第2連隊のホニI 4両が、同連隊の機動九〇式野砲とともに活躍している。

現存砲

陸上自衛隊武器学校の三式中戦車 チヌ

機動九〇式野砲の主な現存砲としては、アメリカオクラホマ州フォート・シルのアメリカ陸軍野戦砲兵博物館(本項上掲写真)および、中国北京市中国人民革命軍事博物館四五式二十四糎榴弾砲や九五式野砲など大量の火砲を含む日本軍兵器とともに)に、原型を保った比較的良好な状態で収蔵・展示されている。

また車載型としては、ホニIがメリーランド州アバディーンアメリカ陸軍兵器博物館に、チヌが茨城県土浦市陸上自衛隊武器学校に収蔵・展示されている。

参考文献

  • 日本兵器工業編『陸戦兵器総覧』 図書出版社、1977年
  • 竹内昭・佐山二郎『日本の大砲』 出版協同社、1986年、ISBN 4-87970-042-8
  • 佐山二郎『大砲入門 陸軍兵器徹底研究 』 光人社、1999年、ISBN 4-7698-2245-6
  • 『GROUND POWER AUG.2008(No171)』 ガリレオ出版、2008年

脚注

  1. ^ 竹内昭・佐山二郎『日本の大砲』 p.47
  2. ^ 日本兵器工業 編『陸戦兵器総覧』 p.78。
  3. ^ 尖鋭弾を使用時、最大射程13,890mとする説もある。『GROUND POWER AUG.2008(No171)』 ガリレオ出版、2008年、p.103。竹内昭・佐山二郎『日本の大砲』 p.45等の文献を参照。
  4. ^ 日本兵器工業 編『陸戦兵器総覧』、p.76。
  5. ^ 佐山二郎『大砲入門 陸軍兵器徹底研究 』 p.296
  6. ^ 『GROUND POWER AUG.2008(No171)』 pp.98-100
  7. ^ 佐山二郎『大砲入門 陸軍兵器徹底研究 』 pp.287-288
  8. ^ 『九〇式野砲機動台車仮制式制定の件』 アジア歴史資料センター、Ref:C01001356200
  9. ^ 『GROUND POWER AUG.2008(No171)』 pp.115-116
  10. ^ 『機動九〇式野砲及同弾薬車仮制式制定の件』アジア歴史資料センター、Ref:C01001405200
  11. ^ 竹内昭・佐山二郎『日本の大砲』 pp.45-47
  12. ^ 別冊歴史読本 日本陸軍機械化部隊総覧』 新人物往来社、1991年、p.218
  13. ^ 『九〇式野砲を三八式野砲と交換の件』 アジア歴史資料センター、Ref:C01003629100
  14. ^ 日本兵器工業編『陸戦兵器総覧』 p.76
  15. ^ 佐山二郎『大砲入門 陸軍兵器徹底研究 』 p.288
  16. ^ 佐山二郎『大砲入門 陸軍兵器徹底研究 』 p.147
  17. ^ 玉田美郎『ノモンハンの真相 -戦車連隊長の手記- 』加登川幸太郎 編、原書房、2001年、ISBN 4-562-01182-3、pp.46-47
  18. ^ 佐山二郎『大砲入門 陸軍兵器徹底研究 』 p.296
  19. ^ アルヴィン・D・クックス『ノモンハン―草原の日ソ戦 1939 (上)(下)』岩崎俊夫・吉本晋一郎訳、朝日新聞社
  20. ^ 『GROUND POWER MARCH 2001(No082)』 デルタ出版、2001年、p.84
  21. ^ 『GROUND POWER APRIL 2001(No083)』、デルタ出版、2001年、pp.9-10。

関連項目