レイナード
レイナード(Reynard)は、イギリスのレーシングカーコンストラクター及び各種機械設計、開発企業。現在はスポーツカーの開発、製造のみを行っている。
概要
1973年にエイドリアン・レイナードにより創設され、1974年よりレーシングカーの製作を開始したが、2002年に倒産し、2009年にスポーツカーの開発、製造のみを行う企業として復活した。ちなみに同社が開発したマシンの中には、同社の倒産後ザイテックなど他のコンストラクターにより改良が続けられているものもある。
また1990年代後半より、そのデザイン及び軽量化の技術を生かして旅客機の座席の開発も行っており、同社が開発した座席はヴァージン・アトランティック航空の長距離線のビジネスクラスに採用された。
車体を供給していたカテゴリー
参戦実績
F1
1989年後半から1990年初頭にかけては、レイナード・無限・ブリヂストンのパッケージングでF3000用のマシンをF1用に改良してのテスト走行が鈴鹿サーキットで数回行われたが、これはテスト走行だけで終わった。ただしこれはレイナードのF1参戦というよりは、むしろ無限のF1進出に向けたエンジンテストの側面が強い。
その後レイナードはF1への参戦を模索していて、1989年末にベネトンを離脱したロリー・バーンをデザイナーに迎えてF1マシンのデザインをしたが、日の目を見る事は無かった。しかし1992年のインターナショナルモーターショーでパシフィック・グランプリが1993年からのF1への参戦表明を行い、その後資金不足から1年遅れて登場した「PR01」にそのデザインが流用された。ロリー・バーンは1991年後半にベネトンに復帰していたため、PR01は1992年のベネトン・B192と酷似した。
1999年にB・A・R用に開発・製作したマシンが本当の意味でレイナード初のF1マシンとなり、マシンのノーズとリアウイングの翼端板上部にレイナードのロゴが入れられた。レイナードは会社が倒産する2002年のシーズン途中までB・A・Rのマシン開発・製作を行った。
F3000
1988年にレイナードは、当時としては初めてのフルカーボンモノコックで国際F3000に参戦。デビューレースでデビューウインを飾った。当時の国際F3000はローラとマーチがシェアを誇っていたカテゴリーであったが、レイナードの速さに他のチームがレイナードにマシンチェンジを行い、同年の国際F3000ではロベルト・モレノがチャンピオンとなった。また全日本F3000選手権にもシーズン途中に登場し、鈴木亜久里によってチャンピオンになった。
国際F3000では1989年にジャン・アレジがチャンピオンとなり、2年連続でチャンピオンマシンとなった。1990年はF1以外では初めての「横置きギアボックス」を投入してエアロダイナミクスで勝負を掛けたが、ライバルのローラを使用したエリック・コマスにチャンピオンを奪われた。しかし1991年(クリスチャン・フィッティパルディ)・1992年(ルカ・バドエル)・1993年(オリビエ・パニス)・1994年(ジャン=クリストフ・ブイヨン)・1995年(ヴィンセンツォ・ソスピリ)で5年連続でチャンピオンマシンとなる。
国際F3000の参戦費用の増加を防止する為に、1996年より国際自動車連盟(FIA)がシリーズをワンメイク化することを決定。複数のコンストラクターが入札に参加した結果ローラが落札したため、以後ローラ・ザイテック(ジャッド)のワンメイクレースとなり、レイナードは国際F3000からの撤退を余儀なくされた。また、これにより大きな収入源を失った。
全日本F3000でも、1989年以降チャンピオン争いに加わることはできたが、レイナードが日本で2回目のチャンピオンマシンになるのはフォーミュラ・ニッポンとなった1996年まで待たねばならなかった。これはヨーロッパと日本のサーキットの舗装の違いや、各シリーズに供給されるタイヤが異質とも言える程の違いがあったためで、当時は(特にサスペンション周りについて)ヨーロッパ仕様とは別の「日本仕様」を製作・開発・供給する必要があった。エンジニアを日本へ直接派遣する等してマシンの戦闘力アップとセッティングを進めようとしたが、チャンピオンマシンになるには時間がかかった。
フォーミュラ・ニッポン
1996年に全日本F3000はフォーミュラ・ニッポンに衣替えして、引き続きレイナード・ローラ・童夢の3社(後に童夢に代わりGフォースが参入)による戦いが継続されたが、1999年以後はレイナードは性能面で他社に比べ優位に立ち、事実上レイナードのワンメイク状態となった。
しかし2002年に同社が倒産し、消耗パーツやスペアモノコック等の供給に問題が発生する恐れが出てきたことや、今後の開発がストップするなどの問題が出てきたことから、2003年よりフォーミュラ・ニッポンはシャシーをローラのワンメイクに変更した(さらにその後2009年からはスウィフト・エンジニアリングのワンメイクとなる)。
F3
1985年に、当時としては初めてフルカーボンモノコックを導入し、ヨーロッパ各国で行われていたF3選手権にシリーズに参戦をしてデビューレースでデビューウインを飾った。全日本F3選手権にも最終戦で投入され、1987年にはロス・チーバーがチャンピオンを獲得した。
しかしライバルでもあったラルトの戦闘力もあって、各国で行われているF3で激しい戦いを繰り広げた。全日本では1988年以降においてラルトやトムスが大きな壁となりチャンピオンを奪取することができなかった。
地元であるイギリスF3では1986年から1988年までの3年連続と1992年の4回チャンピオンマシンとなり、ライバルのラルトとチャンピオン争いを繰り広げ、ドイツでは1990年にミハエル・シューマッハが、また1992年はペドロ・ラミーがチャンピオンを獲得した。
しかしラルトの衰退と入替わるようにしてエアロダイナミクスで安定をした速さを魅せつけたダラーラが、レイナードユーザーからの乗換えを加速させた。またF3エンジンのパワーが170馬力前後(現在では約200馬力)と非力なのにもかかわらず、ライバルであるラルトやダラーラよりも大きなサイドポンツーンが空気抵抗となり、レイナードユーザー離れを加速させてしまい1993年でマシンの製作を終了した。
チャンプカー
1994年にはアメリカのレースであるCART(後のチャンプカー・ワールド・シリーズ)へ供給を開始して、ここでもデビューレースでデビューウインを飾った。
ライバルであったローラとペンスキーを寄せ付けない強さを発揮し1995年から2001年まで7年連続でチャンピオンマシンとなった。
復活
2009年、エイドリアン・レイナードは「Reynard Racing Cars」の社名において、公道を走ることもできる、レース用スポーツカーの製作を発表した。
関連項目
- チームルマン(日本国内における総代理店だった)