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モアイ

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モアイ像 ラノ・ララクと呼ばれるモアイの製作所
モアイ像(遠景)

モアイ(Moai)はチリイースター島にある人面を模した石造彫刻のこと。大きさは3.5m、重量20トン程度のものが多いが最大級のものは20m、重量は90トンに達する。

概要

小豆島くらいの小さな島の海に面したアフと呼ばれる高台に、人面を模したモアイ像が多数建てられている。島で産出される凝灰岩でできており、建造中に放置されたものも含め約1000体ある。現在アフに立っているモアイは、すべて近代以降に復元されたものである。

造られた時代によってモアイの様式は変化する。初期のモアイとされるモアイは、高さ3m程度と小型のものが多いが、時代が下るにつれ大型化していった。顔も初期は人間に近い形だが、後期には細長くなっていった。 アフに建てられたことのあるモアイには頭と胴体があり、プカオと呼ばれる赤い石を頭上に乗せ、目が入っていた。一方、製造途中で放棄されたモアイの多くは頭だけしか造られず、目もはめ込まれることはなかった。

完成したモアイは、海岸近くにあるアフに立てられた。モアイの多くは海を背に、島の集落に向かって立っていた。

モアイの目的・用途については、「祭祀目的で立てられた」と推測されているが、実際の祭祀形態については諸説あり、定説は未だにない。モアイが作られた目的が不明なのは、西洋人の到来後島民が奴隷として島外に連行され、解放され島に帰った際に天然痘を持ち込むなどして島民の大半が死亡し、記憶は途絶え島固有の文化である文字板コハウロンゴロンゴを読める者もいなくなったためである。さらに、キリスト教布教の際、コハウロンゴロンゴが多数焼かれてしまった結果、文字板もわずかにしか残っていない。

モアイの修復

西洋人がイースター島にたどり着いた時には、すでに部族間抗争によって多くのモアイが倒されていた。その後西洋人による持ち出しなどもあり、19世紀にはアフに立つすべてのモアイが倒されてしまった。この倒されたモアイの一部は、20世紀以降に考古学者や地元の人の手によって起こされた。現在はおよそ40体のモアイが復元されている。

香川県高松市に本社を置く株式会社タダノが、1992年からクレーンなどをイースター島に持ち込んで、島南部のアフ・トンガリキにある15体のモアイ像の復元・修復などを行い、使用後のクレーンなどをイースター島に寄贈している。これはTBSの『日立 世界・ふしぎ発見!』で1988年の秋にイースター島を特集した際、「クレーンがあれば、モアイを元通りにできるのに」という知事の声を放送したところ、解答者である黒柳徹子が「日本の企業が助けてあげればいいのに」という内容の発言をし、それをタダノの社員が見ており、社長が話に乗ったのがきっかけである [1]。クレーンの運搬にはチリ海軍の協力を得ている。費用も全額タダノが出費している。

建設方法

モアイの材料となった石材は凝灰岩と判明しているが、凝灰岩は海岸周辺には存在せず、島内の山から切り出され、運ばれた可能性が指摘されている。考古学者のヘイエルダールが現地住人の協力を得て行った実験では、木のころに横倒しにして乗せて、大勢が縄で引っ張った。また木の棒と大小の石を積むことで立たせるという方法で、当時の人口・技術力でもモアイの運搬が可能であったことを証明している。詳細には、モアイを立てた事と、モアイを運ぶ試みは別々に行われ、最初にモアイを立てる試みが行われた。これは実験ではなく、現地に伝承されていた技術にもとづいたもので、設置に12人で18日掛かったものが同島アナケナ・ビーチ近くの丘に残っている。倒れたモアイを近くのアフに立てたが、木の棒と、地面とモアイの隙間に入れていく大小の石でモアイを立たせた。詳しくはヘイエルダールの著書「アク・アク」を参照されたい。当時の人口や環境に関する考古学的な部分はイースター島の歴史を参照。

モアイを運ぶ方法について、直接ではないが伝承では石垣にする大きな石を運ぶ時に使ったミロ・マンガ・エルアというY字形の分かれた木の幹でつくった石づちがあったという。またハウ・ハウの木の皮で太い綱を作ったという。

だが、その後の研究でモアイは完成後すぐに立てられ、立った状態で縄で目的地まで運搬された、という方法も示されており、この方法では横倒しにして運搬するよりも人数が少なくてもすむ上、効率も良い事が確認されている。また、「モアイは自分で歩いた」という現地の伝説の根拠にもなっている。

超古代文明説として

その一方で、上述の考古学上の調査に対して反論を行う超古代文明説の支持者もいる。超古代文明説とはモアイ像建造当時のイースター島に「現代科学では想像できない超技術が存在していた筈である」(→ロストテクノロジー)というものである。以下は、そのような超古代文明説の論拠としてしばしば示されるものである。いずれも、最新の調査結果が反映されないまま、現代のイースター島の自然環境水準で考察されたものである点が指摘できる。

木製のソリ[要出典]
現在はユーカリが生い茂っているが、これは18世紀以降にヨーロッパからの入植者が持ち込んだものである。それ以前はユーカリを除いた自然環境にあり、現在のイースター島のほとんどの地域が草や低木しか無いことを見れば、巨大なモアイを運搬可能な巨大な木製ソリの制作は困難であったと考えられる。

※ヘイエルダールは木のころを使った。

当時のイースター島には、ロープとして使用できる植物はしか存在しなかった。葦製の縄には数十トンのものを運べるほどの強度はない(1トン単位でも無理である)。上記の実験では外国製の丈夫な縄を使用していた。
地形、モアイの重量、運搬距離
上記の実験では、平坦な砂地で重さ約10トンの小型のモアイを約90メートル運搬するのがやっとであった。しかし、島にある多くのモアイはそれより重いものが殆どである。さらに、高さ100メートル以上の崖から切り出し、高低の激しい山地を平均で6〜8キロメートル運搬したということが判明している。また、実験ではモアイの頭部に傷を付けてしまったが、現存しているモアイには運搬時や立てた時に付けられたと見られる傷は殆どない。

しかし、人間がポリネシア方面から入植し始めた4世紀(3~9世紀など諸説あり)から5世紀ごろの地層に対しイースター島の火口湖でボーリングを行い堆積物に含まれている花粉を調査した結果、5世紀ごろの土の中からヤシの花粉が大量に発見されており、当時はヤシの森に覆われ木材は豊富であったと考えられる。超古代文明説はこのような調査が行われたことを完全に無視し、当初から現代の丸裸なイースター島の自然環境であったという、ヨーロッパ人が入り込んだ18世紀以降19世紀から20世紀初頭にかけて形成された前提に立つものとなっている。

例えばソリや綱は建設当時の自然環境では幾らでも入手できたものであり、ことヤシ類から得られるシュロは天然の繊維素材のうちでも特に引っ張り強度に優れるものである。地形や重量に関しても、実験では12名が参加したが、実際にはより多くの人が運搬に携わっていた可能性がある。2000年代の漁業と観光産業に従事する4千人を超えない人口(1872年の調査では島民人口わずか111人)だが、これは概要で上述の通り18~19世紀にヨーロッパ人の到達以降急激に人口が減少したためである。当時の同島には最大で1万5千人(6千〜3万人など諸説あり)規模の人口がいたと考えられており、遥かに多くの人力を言わば国家事業として徴用できた可能性が無視されている。また、設置から数世紀が経過したモアイを幾ら調べても、ヘイエルダールが実験の際に付けてしまったような真新しい傷を発見することはできよう筈も無い。そういったミスは単純な技術的欠陥に起因するものだけに、予防策は存在する。

モアイの謎

モアイという言葉の語源と意味は諸説あって特定に至っていないが、それら以上の最大の謎は建造目的だった。だが近年の調査でモアイの台座から人骨が多数発見されたことで、「モアイは墓碑であった」という説が有力になりつつある。

モアイのその独特の形状についても起源が未解明である。他の地域の似たような形状の石像から起源が求められているが、いずれの説も特定には至っていない。中には、日本の猿石に起源を求める説もある。また南米のティワナク遺跡の石像群との関連も指摘されているが、未だにどちらが先でどちらが後になるかの議論には結論を見出せずにいる。モアイの起源が完全に定説になる段階までに仮説を絞れずにいるその最大の理由は、モアイの形状があまりにも独特なためにイースター島以外では似たような形状の石像がほとんど存在せず、関連性を突き止められないためである。

モアイにはかつて目がはめ込まれていた事がわかっており、復元されたモアイには目がはめ込まれた物も存在する(ただしこの目は、写真撮影のために後から作られたレプリカである)。目の材質はサンゴ質の石灰岩であることが判明している。しかし、イースター島近海にサンゴ礁がないため、イースター島原住民の交易ルートの実態という新たな謎が生み出された。他の海域との交易が無ければ、サンゴ質の石灰岩をイースター島にて入手する事ができないからである。

モアイの頭上には、プカオと呼ばれる帽子をかぶったような形の石も発見されている。これは当初地位をあらわす帽子か女性の髪形を復元した物とされていたが、その後プカオは男性の結髪を再現した物である事が明らかにされた。これにより、「モアイは男性像である」という説が確立された。ただし、女性のモアイもわずかながら存在することがわかっている。

モアイと環境問題

現在イースター島には大規模な森は存在せず、1000体分もの石材を運搬するのは、木材が足りず不可能のように思われるが、地質学的調査によると、モアイが作られた当時は椰子の木が生い茂っていたとされる。むしろ島民たちの乱伐によって森が消失した可能性が高い。人口1万人の島に1000体ものモアイが乱立し、森が消滅したことから、モアイを現在の世界各地のビルにたとえ、地球全体をラパヌイにたとえて、地球温暖化や森林伐採に警鐘を鳴らす人々もいる。

モアイに対する犯罪

モアイも他の世界的観光資源同様、観光客による落書きや破壊行為が絶えない。モアイを損壊した者には最高5年の禁固刑または最高1万9000米ドルの罰金が課せられる。地元警察署は同島の岩であっても傷付けることは犯罪であるとしている。

2003年1月に日本人観光客が「倒れているモアイ像」を「ただの岩」と思い落書きを彫り込み、地元のチリ警察に逮捕された。これに関して同月、日本の外務省は「海外安全ホームページ」内などで旅行者に対し、海外の文化財を含む旅行先の物品に落書きをしないよう呼びかけると共に、モアイ像を傷つけた場合は上述の刑罰が課せられる可能性があると警告している。

2008年3月には、フィンランド人がモアイ像の耳を破壊し破片を盗んだため、現地警察に身柄を拘束された。その後、罰金1万7000米ドルを支払い出国を許された。

日本にあるモアイ

正確にはこれらの彫像はすべて、「モアイのレプリカ」または「モアイ型の彫像」などと呼ぶべきものである。

札幌市滝野霊園の実物大モアイ像
高松市女木町モアイの広場のモアイ像
太陽公園イースター島のモアイ像

チリで作られたモアイのレプリカ

  • 1960年に発生したチリ地震津波で甚大な被害を受けた宮城県志津川町(現在の南三陸町)では、チリ地震津波災害30周年の折、同じ被災国であるチリとの友好のシンボルとしてモアイを輸入した(設置は1991年7月)。このモアイは、チリで産出した黒色輝緑岩(凝灰岩)を用いて現地の技術者が制作し、船で46日かけて運ばれたもので、現在、志津川湾に面した公園(チリプラザ)に設置されている。
  • ラ・セレナ市と交流のある奈良県天理市では、市役所にモアイを飾っている。

日本で作られたモアイのレプリカ

  • 宮崎県日南市サンメッセ日南にあるモアイ像は世界で唯一イースター島の長老会が認めたものであり、大きさも形も全く同じである。
  • 香川県女木島には、倒されたモアイ像を起こすテストのために作られたモアイ像がある。
  • 福岡県中間市屋根のない博物館(モヤイ公園)には世界各地の石像や石の遺物のレプリカが多数展示されており、その中にモアイ像も数体存在している。
  • 札幌市南区に所在する滝野霊園にも多数のモアイ像を模した石像群があり、一種の観光名所化している。2012年4月現在33体のモアイ像が存在し、周辺の休憩用ベンチの一部もモアイ像を模している。
  • 姫路市の遺跡テーマパーク「太陽公園」にもモアイのレプリカがある。
  • 和歌山市の和歌山大学周辺の住宅地ふじと台にもモアイのレプリカがある。

その他

  • モヤイ像はモアイにヒントを得て作られた一連の彫刻作品の通称である。詳しくはモヤイ像の項を参照のこと。

脚注

関連項目

外部リンク