イエズス会聖ヨハネ修道院
イエズス会聖ヨハネ修道院 西日本霊性センター NAGATSUKA Monastery for Jesuits | |
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情報 | |
旧名称 | イエズス会長束修練院 |
用途 | 修道院 |
旧用途 | 修練院 |
構造設計者 |
イグナチオ・グロッパー修道士 (イエズズ会) |
建築主 | イエズス会日本管区 |
構造形式 | 木構造 |
階数 | 地上3階 |
竣工 | 1938年(昭和13年) |
所在地 |
〒731-0136 広島市安佐南区長束西2-1-36 |
座標 | 北緯34度26分5.77秒 東経132度27分3.60秒 / 北緯34.4349361度 東経132.4510000度座標: 北緯34度26分5.77秒 東経132度27分3.60秒 / 北緯34.4349361度 東経132.4510000度 |
備考 | 1993年広島市により被爆建物台帳に記載 |
イエズス会長束修道院(イエズスかいながつかしゅうどういん)は、広島県広島市安佐南区長束にあるイエズス会(カトリック教会)の修道院の通称[1]。正式名称は「イエズス会聖ヨハネ修道院 西日本霊性センター」、あるいは「長束黙想の家」。
なお2005年までは「イエズス会長束修練院」という名の修練院であった。
概要
1938年、旧安佐郡長束村にフーゴ・ラッサール神父によりイエズス会の修練院として建てられ、東京の上智学院内にあった修練院がここに移り、翌1939年から日曜のミサを開始した[1][2][3][4]。
元々ラッサール神父が1935年イエズス会日本管区の上長(管区長)に選ばれた際、広島で布教活動を行いたいと日本管区の本部自体を広島へ移した経緯があることから[† 1][2]、長束修練院は日本管区の中でも重要な場所となり、昭和時代におけるイエズス会日本人会員の初期養成は、ほぼすべてここで行なわれていた[3]。
2005年、修練院の機能をより充実させるため東京都練馬区上石神井に移されて、ここは黙想の家・霊性センター(修道院)となった[3][1]。
2010年1月現在、神父8人・修道士1人・修道女4人[1]。
構造
主要施設は木造三階建て[1]、新館のみ鉄筋コンクリート構造。設計者は、関東大震災後の上智大学を再建するために1930年6月ドイツから派遣された建築家のイグナチオ・グロッパー修道士[† 2]と言われている[5][6][7]。3つの棟からなり、うち本館礼拝堂が初期からあり戦後補修され、1960年ごろから宿泊施設など残り2棟が整備された[8][9]。2011年現在、3つの聖堂・3つの集会室・24の個室からなる[10]。
昭和初期に建てられたキリスト教関連施設でありながら洋風建築ではなく、漆喰・瓦葺き・畳敷きの和風建築が採用されている[1]。これは建設当時太平洋戦争へと向かう時代背景の中で、当地が熱心な浄土真宗信仰(安芸門徒)地であることから、周辺に配慮し和風にしたとされている[1][8]。特徴として、三重塔や懸魚といった和風様式に十字架が付いている[8]。竣工当時は、北側にパン焼き小屋や、ワイン庫も備えていた[8]。
また戦前からある本館礼拝堂および三重塔は、1945年広島市への原子爆弾投下の際に倒壊から免れた被爆建物でもある[1][8]。これは、グロッパー修道士が日本の地震を過大に考え[11]当時の一般的な日本家屋より頑丈な骨組みで設計した[7]ことに加え、爆心地から4.5キロメートル離れたところに位置した[1]ことから影響が比較的小さかった[9]ため、倒壊しなかったと考えられている。ちなみに広島市の被爆建物台帳の中で、2011年現在キリスト教関連施設としては唯一選ばれている[12]。
建物の裏手には、庭園と墓地がある。庭内には、2003年に作られたペドロ・アルペイエズス会元総長の胸像がある[13]。
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入り口から見た本館礼拝堂
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本館と木村館(右側)
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新館
被爆
1942年3月、ペドロ・アルペ神父が長束修練院の院長と修練長に就任した[3]。
被爆の半年前にあたる1945年2月ごろ、他の都市は空襲による被害がある中で広島だけそれがないことから、東京にあったイエズス会の哲学部および神学部はここ長束修練場に疎開してきた[7]。
1945年8月6日8時15分、被爆。ちょうど朝食を終えた後のことだった[14]。爆弾による閃光から10秒ほど遅れて爆風が到達した[7]。爆心に近い方である南側窓ガラスは爆風により割れ窓枠も破損し、ドアはへし折られ、礼拝堂南側の柱が3本ほど折れ、天井は凹み、張られたタイルは吹き飛んだが、倒壊を免れた[1][8][7][15]。周辺の山では熱風により山火事が発生したが、ここでは火災は発生しなかった[7]。中にいた人間は割れた窓ガラスなどで怪我をしたが軽症で、重症を負ったものはおらず無事であった[1][7]。
1時間後には市街で被爆した被爆者がここまで避難してきて、9時半には数千人規模にまで増えた[7][14]。アルペ院長が、マドリード・コンプルテンセ大学で医学を学んだ経験を生かし修練院を救助所とするようにと指示し、他の神父と共に重症の被爆者を板で作った担架やリヤカーで運び入れ、数十人とも数百人とも言われる人たちをここで手当てした[1][3][4][7]。この様子は小説『黒い雨』にも描かれており、作中の「山本駅の北側にあるカトリック教会」とはこの教会であるとされる。
当時イエズス会日本管区本部が置かれていた幟町天主公教会[7]にいたラッサール管区長以下ウィリアム・クラインゾルゲ神父[† 3]・フーベルト・チースリク神父・フーベルト・シッファー神父の4人[17]と修道士達や秘書も被爆しうちラッサールとシッファーは重傷を負っており、縮景園で一時避難していたところをクラウス・ルーメル神父[† 4]らによりここに運び込まれ看護を受けている[2][7]。戦時中で物資が少ない中でのことであり、大した治療を行えるはずはなかったが、懸命な看護を続けた[7][14]。また、外国人であることから奇異あるいは憎悪の目で見られると当初は市街に入るのをためらうものもおり、実際ラッサール管区長らを救助していた際に偶然出くわした日本人将校から落下傘で降りてきたアメリカ兵と誤認されている[7]。市内で社会福祉事業を行なっていた援助修道会三篠修道院[† 5]も被爆により倒壊したため、修道女はここに避難し医療活動に従事した[15][18]。
アルペ神父は後に当時のことを
A permanent experience outside of history, engraved on my memory.(私の記憶に刻まれた歴史の外の永遠の経験。)
と述べている[20]。ルーメル神父[† 4]はこの日のことを、
Der Tiefpunkt des Daseins.(生存のどん底。)
と述べている[14]。
当時いた著名な神父に、後に津和野カトリック教会司祭となるパウロ・ネーベル神父(日本名岡崎祐次郎、被爆時は当院副院長)[21]、栄光学園中学校・高等学校創設に携わったハンス・シュトルテ神父[22]、自身の手記が米国戦略爆撃調査団の報告書や1946年2月タイム誌「広島原爆に関する最初の詳細な報告」に引用されたヨハネス・ジーメス神父[7][23]などがいた。
長束修練院自体は終戦翌年である1946年夏までに建物修築を完了している[24]。また幟町天主公教会の方は焼失しており、1945年12月ここから資材を運んでバラック小屋を建てて教会再建を始め[25]、その後世界平和記念聖堂が建つに至った。また三篠修道院、現在のカトリック三篠教会は、1945年9月進駐軍が小さな小屋を建て再建、1952年聖堂が完成するなど1950年代初期に再建されている[26]。
交通
脚注
- 注釈
- ^ 詳しくはフーゴ・ラッサール#ミッション参照。
- ^ Ignatius Gropper、1889年12月2日生まれ、1968年11月17日上智大学にて没[5]。上智大学校舎だけでなく数々のイエズス会の教会や教育機関などを設計している。
- ^ のちに日本に帰化(高倉誠)。ジョン・ハーシー『ヒロシマ』にも登場する[16]。
- ^ a b 後に上智大学教授、上智学院理事長。当時被爆した10数名の宣教師の中で、最後まで生き残った人物[2](2011年3月1日死去)。
- ^ 1936年創設の、旧三篠町現在の西区楠木町にあった女子修道院。元々煉獄援助修道会日本教区はイエズス会広島教区が呼び寄せたことにより広島で発足した。 被爆当時は爆心地から2.4キロメートルに位置した。当時フランス人修道院長は結核により入院、イギリスとベルギー出身の修道女は敵国人として三次市にあった抑留所へ送られており、被爆時の修道院にはフランス2・イタリア2・アイルランド1・日本2の計7人の修道女と、ドイツ人のコップ神父1人の計8人がいた。その後の調べで当時の外国人修道女は2005年までに全員死去したことがわかっている[18][19]。
- 出典
- ^ a b c d e f g h i j k l 2010年1月24日読売新聞
- ^ a b c d カトリック広島教区情報サイト
- ^ a b c d e 長束修練院の歴史
- ^ a b “教会をたずねて”. 聖パウロ女子修道会. 2011年11月13日閲覧。
- ^ a b 杉森彰. “グロッパーさんのこと” (PDF). 上智大学. 2011年11月19日閲覧。
- ^ 石丸紀興『世界平和記念聖堂』相模書房 1988年 p.17
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 破壊の日
- ^ a b c d e f ヒロシマをさがそう
- ^ a b “被爆の跡に(1)語り継ぐ平和”. (朝日新聞からの転用) (1995年6月7日). 2011年11月23日閲覧。
- ^ “黙想の家案内”. 霊性センターせせらぎ. 2011年11月23日閲覧。
- ^ ジョン・ハーシー『ヒロシマ』法政大学出版局 1949年 p.16
- ^ “被爆建物リスト”. 広島市. 2011年11月17日閲覧。
- ^ “アルペ神父胸像除幕式の報告”. 聖イグナチオ教会. 2011年11月23日閲覧。
- ^ a b c d die Tageszeitung
- ^ a b 広島原爆戦災誌、p.1023
- ^ “地域FM放送での原爆番組”. 中国新聞経済メールマガジン (2009年7月31日). 2011年11月26日閲覧。
- ^ “世界平和記念聖堂の被爆した十字架”. 世界平和記念聖堂. 2011年11月26日閲覧。
- ^ a b “修道女、広島の献身 欧州出身の5人が被爆後に看護(1/2)”. 朝日新聞 (2009年8月4日). 2011年11月26日閲覧。
- ^ “修道女、広島の献身 欧州出身の5人が被爆後に看護(2/2)”. 朝日新聞 (2009年8月4日). 2011年11月26日閲覧。
- ^ “Father Pedro Arrupe (1907-1991)” (英語). Pedro Arrupe Formation Center. 2011年11月13日閲覧。
- ^ “繁華街を平和行進 カトリック広島司教区”. 中外日報 (2008年8月9日). 2011年11月26日閲覧。
- ^ “シュトルテ先生逝く” (PDF). 栄光学園 (2007年10月20日). 2011年11月26日閲覧。
- ^ “米将軍に被爆神父の手記 45年秋、広島の惨状伝える”. 共同通信 (2005年8月1日). 2011年11月14日閲覧。
- ^ “「長束修練院」被爆後の写真発見 「礼拝堂の外壁の柱折れ、扉もつぶれ…」神父の手記と合致”. 中国新聞 (2014年7月31日). 2015年1月28日閲覧。
- ^ 広島原爆戦災誌、p.1020
- ^ “カトリック三篠教会(広島教区)”. 聖パウロ女子修道会. 2015年6月4日閲覧。
参考資料
- “長束修練院の歴史”. イエズス会 聖ヨハネ修道院 西日本霊性センター. 2011年11月15日閲覧。
- “世界平和記念聖堂 献堂50周年ニュース” (PDF). カトリック広島教区情報サイト. 2011年11月19日閲覧。
- 被爆建造物調査研究会『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る-未来への記録』広島平和記念資料館、1996年。
- “神父が治療 被爆者ら救う イエズス会長束修練院(現・長束修道院)”. 読売新聞 (2010年1月24日). 2011年11月13日閲覧。
- “イエズス会長束修練院”. ヒロシマをさがそう(NHK広島). 2011年11月13日閲覧。
- “The Atomic Bombing of Hiroshima by Father Johannes Siemes” (英語). the War Time Journal. 2011年11月14日閲覧。
- “破壊の日― ジーメス神父の広島原爆―現場目撃証言”. 哲野イサクの地方見聞録. 2011年11月14日閲覧。
- “Der Tiefpunkt des Daseins” (ドイツ語). die Tageszeitung (2003年8月6日). 2011年11月15日閲覧。
- 広島市『広島原爆戦災誌』(PDF)(改良版)、2005年(原著1971年) 。2011年11月19日閲覧。