縮景園
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縮景園(しゅっけいえん)は、広島県広島市中区にある池泉回遊式庭園。
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[編集] 概要
名称は中国の西湖周辺の風景を縮めて表したことによると言われる(造営当時の名称は「泉水屋敷」)。1620年、広島藩主となった浅野長晟が茶人であった家老の上田宗箇に作庭を命じ、以降徐々に拡張整備されたが1758年の大火で庭園はいったん灰燼に帰した。このため7代藩主浅野重晟は、京都から庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ、跨虹橋の造営など新作に近い大改修を行った。この際頼春水らによって園内の名勝・建物34カ所に中国風の号が命名された。
明治時代以降は浅野家の別邸として利用され、「泉邸」と呼ばれるようになった。また大本営が一時広島に移転した際は明治天皇の宿泊所に充てられた。1913年からは一般にも開放され観覧できるようになり、1940年には浅野家から広島県に寄付され、国の名勝に指定された。1945年8月6日の原爆投下では壊滅的な打撃を受けたが、1951年に復元・開園し「縮景園」と改称され現在に至っている。また、虹跨橋は原爆の爆風にも耐えたほど強固として知られる。
[編集] 原爆被災
縮景園は空襲時の市民の避難先に指定されていたため、被爆直後の園内は多くの被災者であふれた。当時の惨状は、家族とともに避難していた原民喜の小説『夏の花』に描かれている。そのまま命を落とした被爆者の遺体は、荼毘の火が米軍機の目標になることを恐れて火葬されず、園内の丘に埋葬された。1945年9月下旬に縮景園を訪れた朝日新聞カメラマンは、被爆して枯れた木の根元に遺体が埋葬された旨を記した立札を撮影しており、この写真にもとづいて発掘調査が実施され1982年多数の遺骨が発見された。1988年、遺骨発見地点(園内巡回路の川沿い、祺福山北側の地点)に慰霊碑が建立され、現在も被爆樹が残されている
[編集] ギャラリー
[編集] その他の著名な庭園
藩政期には、縮景園以外にも萬象園・与楽園・萬春園・春和園・翠江園などの名園が藩主や重臣によって造営されたが、すべて現存しない。
- 1657年、広島藩家老の三原浅野家が藩主浅野光晟から下賜された地に下屋敷を築き、その敷地内に造営した回遊式庭園で縮景園に次ぐ名園と称された。命名は文人・頼山陽による。維新を経て戦後しばらくまで三原浅野家に所有され、1960年以降は日本電信電話公社により福利厚生施設として使用されていたが、2002年閉園された。跡地には現在高齢者複合施設「広島萬象園」が建設されており、庭園内にあった屋形灯篭と殿様の腰掛石と伝承されてきた礎石のみがNTT広島(中区基町)の玄関西側に移設保存されている。
- 与楽園(よらくえん、水主町 / 現中区加古町)
- 1801年藩主・浅野重晟により、藩主の別邸として隣接する広島藩中屋敷(水主町屋敷)とともに着工され、1826年完成した。明治以後は県立病院(当時)の庭園となり、原爆により大きな被害を受けたが、戦後もしばらく存続していた。現在は跡地にアステールプラザなどが建てられ、「与楽園」の名は中島小学校の理科園の名前として残っている。
- 萬春園(ばんしゅんえん、船入村神崎堤 / 現中区舟入)
- 藩家老・上田氏(上田宗箇の末裔)が下屋敷内に造営し、園中の「山水軒」が広く知られていた。
- 春和園(しゅんわえん、国泰寺村真菰 / 現中区国泰寺町)
- 享保年間頃、古江村を領していた藩家老の浅野直道が別荘地として造営、その後複雑な経緯をたどり1777年以降は広島藩の所有となり「西御山屋敷」と称された。園内には多くの施設が設けられ、また広島湾を一望できる景勝の地として藩主を始め多数の文人が訪れたが、廃藩後荒廃した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 名勝縮景園
- 庭園の写真 - 縮景園:縮景園の写真
- 萬象園の旧跡

