アリエル・シャロン
アリエル・シャロン אריאל שרון | |
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アリエル・シャロン | |
生年月日 | 1928年2月26日(96歳) |
出生地 | クファル・マラル |
所属政党 |
カディーマ(2005 - ) リクード(1973 - 2005) |
配偶者 | リリー・シャロン |
サイン | |
第15代 イスラエル国首相 | |
在任期間 | 2001年3月7日 - 2006年4月14日 |
アリエル・シャロン גבי אשכנזי | |
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生誕 |
1928年2月27日(96歳) クファル・マラル |
所属組織 |
ハガナー イスラエル国防軍 |
軍歴 | 1948 - 1972 |
最終階級 | 中将 |
指揮 |
第143機甲師団長(シャロン師団) 第202空挺旅団長 |
戦闘 |
第一次中東戦争 第二次中東戦争 第三次中東戦争 第四次中東戦争 |
除隊後 | 政治家 |
アリエル・シャロン( Ariel Sharon 、אריאל שרון、生名:アリエル・シャイネルマン、Ariel Scheinermann、1928年2月26日 - )は、イスラエルの政治家、軍人。愛称は入植者の父、ブルドーザー。
イスラエルの首相(第15代)。カディーマ党首(初代)、リクード党首(第4代)を歴任。
経歴
イギリスのパレスチナ委任統治時代の1928年、パレスチナのキブツ(集団農場)であるクファル・マラル村にウクライナ系移民の長男として生まれる。家庭は熱心なシオニストであった。母親から常に「アラブ人を信じるな」と教えられて育った。
イスラエル史上、最もパレスチナに強硬姿勢を貫くタカ派政治家と言われているが、イスラエルの歴史上初めてパレスチナ国家の独立を明言した首相でもある。パレスチナ自治政府が不法な武器を徴収してテロを放棄させるまでは、パレスチナ首脳部との和平交渉には応じないというのが方針であった。
たいへんな大食漢であり、かつ不規則に間食を摂るため、極端な肥満体であった。これが慢性的に健康を害し、脳卒中につながったと言われている。
軍人時代
1942年にユダヤ人の自衛組織であるハガナー(のちのイスラエル国防軍)へ入隊、軍事訓練を受ける。1948年にイギリスがパレスチナより撤退し、シオニスト指導者ベングリオンがイスラエル独立の宣言を行った。それにより、周辺アラブ諸国との第一次中東戦争に突入すると、アリエルも歩兵中隊長として従軍、ラトルン要塞攻防戦にて負傷している。第一次中東戦争でパレスチナにユダヤ人国家が建国されると、アリエルは1952年から翌年までヘブライ大学で法学・東洋史・地政学などを学ぶ傍ら、新設された情報機関に所属して活動していたと言われる。
1953年にはイスラエル国防軍に復帰し、エジプトのスエズ運河国有化を巡ってイギリス・フランス・イスラエルが侵攻した1956年の第二次中東戦争(スエズ戦争)では第202空挺旅団を率いて、シナイ半島中部のミトラ峠に降下している。そこにおいて偵察と称して敵と戦闘を行う独断行動を行っている。ただし、峠の占領には成功している。
その後1957年に一時英国留学した。イスラエルがエジプト・シリア・ヨルダンへ先制攻撃した1967年の第三次中東戦争において、シナイ半島の占拠で活躍する。1972年に退役するが、エジプト・シリアがイスラエルへ侵攻した第四次中東戦争では、イスラエル側の苦戦に接し現役復帰する。そしてスエズ運河を逆渡河する反撃作戦を立案・実行し成功を収める。その結果、シャロンは伝説的な指揮官として国民の人気を得ていくのである。
政治家時代
1973年の国会選挙に出馬して当選、75年にはラビン政権、続く77年のベギン政権で,農水相として閣僚入りを果たす。
国防相
ベギン政権下の1981年就任。 1982年にはエジプトとの和平実現のため、シナイ半島に建設されていた、ユダヤ人入植地ヤミット入植地を解体。入植者2000人を力づくで退去させる。 同年、PLO(パレスチナ解放機構)が支配するレバノン南部へ侵攻、第1次レバノン戦争(ガリラヤ平和作戦)。同作戦の末、PLOをベイルートから撤退させることに成功する。しかし、レバノンの首都ベイルートは廃墟同然に破壊された。同盟軍であったレバノン国内のキリスト教徒マロン派民兵組織であるレバノン軍団がパレスチナ人虐殺を行い、その際に「傍観」していたという責任を問われ、国防相辞任。シャロンと共にベイルート侵攻を主導したラファエル・エイタン参謀総長もそれに連座した。
住宅建設相
1990年のシャミール政権下で同相をつとめ、ヨルダン川西岸地区(「パレスチナ国家」予定地)に、積極的に主に旧ソ連からイスラエルに移民してきたユダヤ人の入植を奨励した。結果、入植地は20万人規模となる。当時補佐官をつとめていたのがヤアコブ・カッツ(現・国家統一党党首)である。
首相
1984年のリクード党首選挙には敗北するが、96年、ネタニヤフ政権下で国家基盤相として入閣、98年には外相を兼任する。99年にはリクード党首の就任を果たし、バラック政権に対抗する。ただ、バラック政権に対しては露骨な倒閣運動は行わず、外交・安全保障政策に関する拒否権をリクードが保持した形での大連立を当初は模索していた。99年からバラック政権はアメリカを仲介にパレスチナ和平を積極的に進める。しかし、シャロンはパレスチナ和平の気運が自治区議長のアラファトの強硬姿勢によってトーンダウンさせられたことを機に、武装護衛を引き連れて、かつてエルサレム神殿であった岩のドームがある丘(イスラム教の聖地)を訪問する。そこで、「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言した。この訪問は明らかにパレスチナ人を挑発するものだった。岩のドームに集結したパレスチナ人は投石でこれに応え、アルアクサ・インティファーダが始まった。
これにより、イスラエルとパレスチナとの関係が悪化すると、バラックは辞任。テロが連発する情勢に、シャロンは汚職疑惑で失脚したエゼル・ワイツマン元大統領をはじめとする市民の心を掴み、01年の前倒し首相選ではバラックに20ポイントもの大差で勝利し首相に就任する。同政権は労働党を加えた大連立政権で、シャロンは当初、国防相を兼任していたバラックの続投を要請していたが、バラックは敗戦責任をとる形でこの申し出を拒否。議員の職も同時に辞した。
2002年のパレスチナ過激派の巧妙な作戦による「テロの海」により、テロリストの摘発作戦・防御の盾作戦ではパレスチナ地区へ国防軍を出動させざるを得ない状態に置かれた(イスラエルのパトカーだと武装グループの襲撃に遭う。またパレスチナ警察はテロリストの摘発を怠っているとイスラエルから見られている)。しかし、パレスチナの武装グループは民間人の間から先制攻撃を仕掛けるため、イスラエル軍は多大な犠牲を払わざるをえない。
また、アラファトPLO議長がテロ実行の指示を出している可能性があると見なし、議長府立入り捜査を行おうとしたが、迎撃され、双方多数の犠牲を出しながらアラファトを監禁することに成功する。イスラエル側は大量のテロ指令書類を押収したと発表した(自治政府側は否定)が日本のマスメディアではほとんど報道されなかった。
ユダヤ・サマリア地区への防護フェンスの設置も実施するが、西欧諸国からは、これらの作戦が「徹底した過激派勢力の掃討作戦」「パレスチナ国家予定地内への「分離壁」の設置」「報復措置としての包囲・破壊」と非難された。
アラブ・パレスチナ側の評価
強硬策をとられたが「必要悪」であるとしている[要出典]。政権末期のシャロンを最も評価していたのはエジプトのムバラク大統領である。
ブッシュ大統領との関係
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
イスラエルは政局が流動化しやすく歴代の政権は短命に終わることが少なくない中で、シャロンは1974年初当選で、党内基盤が脆弱ながら30年に及ぶキャリアと国民の圧倒的な支持を背景に5年にわたる長期政権を維持したカリスマ的リーダー。そしてその長期政権を可能にしたのが米国のジョージ・ブッシュ・前大統領との盟友関係である。1998年、当時テキサス州知事として大統領選出馬を視野に入れていたブッシュはエルサレムを訪問、嘆きの壁などを訪問することになるが、その案内役を務めたのが当時同国の外相だったシャロンであった。シャロンのもてなしに甚く感激したブッシュは、シャロンとの雑談の中で「そう遠くない将来、私は大統領に、そして貴方は首相になるでしょう」と発言。以来、ブッシュとシャロンは終生の盟友となり、シャロンが2001年の首相選で当選を決めた際には、記者団らを前にこのエピソードを誇らしげに披露している。ただ、シャロンが打ち出したパレスチナ国家容認や婚約解消計画は、長年の政策を大きく転換するものであり政局・選挙は連勝であった一方、リクード内の掌握は最後まで実現できず、このことがカディーマ結成につながっていく。
略歴
- 1928年2月26日 イスラエル生まれ
- 1942年 - 1948年 ハガナー防衛隊メンバー
- 1948年 - 第一次中東戦争参加
- 1949年 - 101部隊を指揮し、ガザ地区などにおけるアラブ人部隊掃討作戦で勇名を馳せる。
- 1967年 - 第三次中東戦争で指揮官を務める
- 1973年 - 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)でスエズ運河逆上陸作戦を指揮、イスラエルの窮地を救う。 リクード結党に参画・国会議員に初当選
- 1977年 - 農水相として初入閣。
- 1982年 - ベギン内閣の国防相としてレバノン侵攻を指揮。ベイルート入城を果たし、PLOのアラファト議長追放に成功する。しかし、同盟軍のキリスト教マロン派によるサブラ・シャティーラ虐殺を「傍観」した責任を問われ、翌年に国防相を辞任。
- 1999年 - リクード党首に就任。
- 2001年 - 労働党のエフド・バラク首相に代わり、首相に就任。
歴代の政権で初めて、パレスチナ国家を容認。
- 2003年 - 総選挙で圧勝、首相に再任。
国会の外交・防衛委員会で、現在のパレスチナとの関係を占領と発言。ロードマップ受諾。外相時代のギリシャのリゾート開発疑惑が浮上、地検・警察が捜査に着手。
- 2004年 - ガザからの全軍撤退・全入植地撤去婚約解消計画を打ち出す。ギリシャのリゾート開発疑惑で、最高検が嫌疑不十分でシャロン父子の立件を断念。
- 2005年 - ガザからの全軍撤退・全入植地撤去婚約解消計画をわずか1週間で実現。
解散・総選挙に打って出る。同時に、リクードを脱退し、新党である中道政党カディーマを設立した。
- 2006年 - 脳卒中に倒れる。エフード・オルメルトが首相代行に就任し、権限委譲。数日後に大腸虚血疾患にみまわれ、大腸を切除した。その後は2010年現在に至るまで意識不明状態が続いており、春に行われた総選挙に出馬できず(手続きに本人のサインが必要)、本人の意思とは無関係に政界引退を余儀なくされた。現在のシャロンはやせ細り、体重はわずか50キログラム前後である。現在は家族の意向により自宅に移された[1]。
脚注
- ^ “Sharon will never recover: doctors”. THE AGE. (2010年1月6日) 2010年2月20日閲覧。
関連項目
外部リンク
公職 | ||
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先代 エフード・バラック |
イスラエル国首相 第15代 (第1次):2001 - 2005 (第2次):2005 - 2006 |
次代 エフード・オルメルト |
党職 | ||
先代 (結党) |
カディーマ党首 初代:2005 - 2006 |
次代 エフード・オルメルト |
先代 ベンヤミン・ネタニヤフ |
リクード党首 第4代:1999 - 2005 |
次代 ベンヤミン・ネタニヤフ |