音素

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音素(おんそ、phoneme)とは、言語学音韻論において、客観的には異なるであるが、ある個別言語のなかで同じと見なされる音の集まり。ロシアの言語学者ボードゥアン・ド・クルトネが初めてその概念を提唱した。

音素は次の特徴を持つ。

  • 弁別的 (distinctive) な価値を持つ。すなわち、音素の違いは意味の違いをもたらす。
  • ある音素の実際の音価は、その周囲の音的環境から予測可能である。

音声と音素[編集]

音声表記と音素表記はいずれもよく用いられ、俗には混同されることが少なくないが、両者間には明確な違いがある。 以下に表の形で違いを対照しておく。

音声表記 音素表記
記述対象 人類が発するあらゆる言語音 対象とする一言語の、話者が認識している言語音
意図 言語音をありのままに記述し、記述したものから正確に音声を再現できること。
→ 網羅的に、精密に、客観的に。
対象となる言語の音声を解釈・整理し、「話者が認識している音」の連なりとして再構成してみせること。
ひいては、その言語の音韻構造、さらには統語構造などに内側から光をあてること。
→ 話者の直観にかなう形で、かつ合理的に、体系的に。
記号の定義 国際音声学会により国際音声記号としてあらかじめ定義されている。
その数は150個以上。補助記号つきも数えれば、さらに数倍になる。
言語ごとに慣例的におおむね決まっているが、研究成果に応じて研究者が改訂を試みることも可能。
記号の数は対象言語の音素数に等しい理屈だが、多くの場合たかだか数十個。

日本語 「人格者」
[ʥĩŋ̍kakɯ̥ɕa] - 音声表記は [ ] でくくって記述する。
※厳密さの度合いなどによって異なる表記もあり得る。
/zinkakusja/ - 音素表記は / / でくくって記述する。
※解釈や流儀により異なる表記もあり得る。

このように、音声表記がきわめて普遍的な性質をもち、他言語の音声同士を比較するようなことも頻繁に行われるのに対し、音素表記は個々の言語内でそれぞれに定義され完結しているもので、言語同士の比較に耐えるようなものではない。 したがって、たとえば日本語の音素表記で /h/長音「ー」の記号として用いられることが多いが、別の言語ではこれが子音 [ħ]音標に使われているとか、日本語、中国語フランス語イタリア語/r/ がそれぞれ全く違う音に聞こえる、といったことが起こるが、そもそも他言語の音素表記同士を比較すること自体が無意味なことなのである。

多数の音標を扱わざるを得ない音声表記が独自の特殊な記号をあらかじめ多数用意しているのに対し、音素表記では記号の数は比較的小数で済むため、特殊な記号に頼る必要が比較的少ない。 日本語の [ɯ][ɾ] をそれぞれ /u//r/ で記述するなど、扱いやすくて直観的にもわかりやすい「普通のアルファベット」を多用するのが一般的である。

音素の認定方法[編集]

音はさまざまな条件のもとで異なって発音されるが、言語話者によって同じ音だと認識される場合、それぞれの音は音素が同じということになり、それぞれの音はある音素の異音と呼ぶ。ミニマル・ペアを使うことによってその言語がもつ音素の範囲が特定できる。

例えば、日本語の音素/h/は、/a, e, o/の前では無声声門摩擦音[h]であるが、/i/の前では無声硬口蓋摩擦音[ç]、/u/の前では無声両唇摩擦音[ɸ]となる。これらの音はそれぞれ/h/の異音である。

上記の例のような異音は必ず決まった条件のもとで現れ、ある音が現れるときはそこに別の音が現れない。このことを相補分布しているといい、このような異音を条件異音という。またある言語では無気音の[k]有気音[kʰ]で意味を弁別して両者は異なる音素として現れるが、日本語では/k/が有気音であっても無気音であっても意味を区別しない。よって[k][kʰ]は日本語の音素/k/の異音であるが、その現れる条件は決まっていないので自由異音と呼ばれる。

ただし、ミニマルペアと相補分布だけで音素は判断できず、音声の類似性も重要である。たとえば英語では 音節頭にしかない [h] と音節末にしかない [ŋ] は相補分布しミニマルペアを持たないが、音声に類似がないため同じ音素とはみなされない。

日本語の音素[編集]

音素の認定には心理的・物理的な基準など様々な要素があり、また音素表記を何のために使うかによっても変わってくる。このため概説書のなかでも学者により大きく異なる場合がある。また学派によって音素に関する考え方が異なり、認知言語学のように音素を認めない立場がある。

一般的な説では、現代日本語の音素は次のようになる。ただし細部については論争がある。

母音 /a/, /i/, /u/, /e/, /o/
子音 /k/, /s/, /t/, /c/, /n/, /h/, /m/, /r/, /g/, /z/, /d/, /b/, /p/
半母音 /j/, /w/
特殊モーラ /n/, /q/, /h/

なお、/j/ の代わりに /y/、/h/ の代わりに /r/ を使ったり、特殊モーラのスモールキャピタルの代わりに普通の大文字を使うこともある。しかし、音素の記号は互いに区別できることだけが重要であり、使用する文字の種類は本質的な違いではない。

特殊モーラ[編集]

撥音「ん」は音環境により [n, m, ŋ, ɴ, ã, ẽ, ĩ, õ, ɯ̃] とさまざまな音価を取るが、これらは相補的な異音であり、同じ音素 /n/ とみなされる。促音「っ」も同様に /q/ とされる。

長音符「ー」については論争があり、/h/ を立てず母音音素の繰り返しとする説もある。ただしミニマルペア里親(サトオヤ)」と「砂糖屋(サトーヤ)」のような例があるので、これらを弁別する工夫が必要になる。ア行子音 /’/ を立てる説、繰り返し用の母音音素 /u/, /i/ を立てる説があり、「里親」「砂糖屋」のそれぞれのモデルでの音素表現は次のようになる。

里親 砂糖屋
/satooja/ /satohja/
/sato’oja/ /satooja/
/satooja/ /satouja/

/c/[編集]

ティー (tea)」と「チー(吃)」のようなミニマルペアがあるので、「ティ」を /ti/ とするなら「チ」には /ti/ とは別の音素が必要であり、/ci/ で表す。同様に「トゥ」/tu/ に対し「ツ」を /cu/ とする。「ツァ、ツェ、ツォ」は /ca, ce, co/、「チャ、チュ、チェ、チョ」は /cya, cyu. cye, cyo/ となる。このモデルでは、「チ」と「ツィ」は(「シ」と「スィ」のように)異音の違いとなる。

いっぽう、形態論的に「勝つ」という動詞の活用を分析するにあたり、/kata-/ /kaci/…と分けるよりは/kat/を語幹として分析する方が合理的だとする立場からは別に音素は立てられない。ただしこの場合、「ティ」「トゥ」「ツァ」等の扱いが問題になる。

/c/ を立てる立場からは、ある条件で /t/ が /c/ に変化するという生成音韻論的な推移則を立てて、活用の問題に対処する。これは、ワ行五段活用で /w/ が /∅/(音素がないことを示す)に変化する(「合う」が /awa-/ /ai-/ … と活用する)のに似ている。

鼻濁音[編集]

鼻濁音の子音 [ŋ]/ɡ/ の異音とされることが多い。しかし、「オオカ゚ラス (大烏)」と「オオガラス (大硝子)」がミニマルペアをなすという説もあり、その場合、/g/ とは別の音素 /ŋ/ が必要になる。

参考文献[編集]

  • Bybee, Joan. 2001. Phonology and Language Use. Cambridge: Cambridge University Press.

関連項目[編集]