福山大空襲

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1945年8月1日に日本全国の都市に投下されたアメリカ軍による空襲を予告する伝単。画面左下には「福山」の文字が見える

福山大空襲(ふくやまだいくうしゅう)は、1945年8月8日22時頃 アメリカ占領下のマリアナ諸島テニアン島の基地より発進したアメリカ陸軍戦略航空軍所属のB-29爆撃機91機により広島県福山市深安郡深安町など周辺部が受けた空襲である。

概要[編集]

福山城月見櫓付近から撮影された焼け野原になった福山市街

M47(油脂焼夷弾)132.9t 4,035発 M17(収束爆弾M50焼夷弾110本内蔵)416.5t 1,666発 M50焼夷弾180,000発を用い、空襲は午後10時25分から11時35分まで1時間10分におよんだ。陸軍射撃場や弾薬庫のあった現在のポリテクカレッジ福山や福山市立大学北本庄キャンパスがある北本庄地区などの市周辺部から徐々に市中心市街地が無差別爆撃を受けた。この周辺部への逃げ道を火の海にして住民の退路を塞ぐ攻撃法は、日本本土空襲におけるアメリカ軍の常套手段であった。

当時の福山市にあった火薬原料を製造していた日本火薬(現在のポートプラザ日化にあった旧日本化薬福山工場)・爆撃照準器などを製造していた三菱航空機(現在の三菱電機福山製作所)・帝国染料などの軍需工場、帝国陸軍歩兵第41連隊司令部及びその付属施設、帝国海軍福山海軍航空隊が主要な目標とされた。

またこの福山を襲った編隊のうち1機が帰路に岡山県浅口郡北木島村(現在の笠岡市北木島町)へ爆弾を投棄し、幼女1名の死者が出ている。

空襲で焦土と化した福山市街

損害[編集]

被災した国鉄福山駅
  • 犠牲者は1945年8月1日の福山市の人口 58,745人 世帯数13,671戸中、死者354人 重軽傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災者数47,326人(当時の福山市民の81%が被災)
  • 国宝(旧国宝)福山城天守などの貴重な文化財も焼け落ちた。

戦果[編集]

  • なし なお市内には陸軍や海軍配置の複数の高射砲などが配置されており反撃したが戦果はなかった。高射砲のうち、ひとつは川口小学校内や現在の福山市体育館(当時は備後護国神社建設地・この空襲で焼失)に布陣していたという。

慰霊碑[編集]

福山大空襲の慰霊碑 母子三人像

空襲の犠牲者の慰霊碑は福山中央公園に建立されている。この慰霊碑は「追憶」と命名されており、空襲から逃げ惑う母子3人の銅像である。この像のモデルは翌日に田んぼで火に撒かれ絶命していた母子3人(氏名も判明しており、市内の主婦と彼女の2名の子供であった)で、彼女らを慰霊する主旨となっている。毎年空襲の慰霊祭はこの像の前の広場で執り行われている。なお慰霊碑は1967年に建立され、公園整備により2008年に周辺が新調された。なお空襲の慰霊碑の隣には広島原爆の慰霊碑も建立されているが、これは8月6日の広島市への原爆投下の救援のために福山市駐留の部隊や勤労奉仕の市民が向かい、入市被爆の犠牲になった者が少なくなかったためである。

その他[編集]

  • 福山海軍航空隊などへのアメリカ海軍艦載機の機銃掃射攻撃は福山大空襲以前にも頻繁に行われていた。
  • 当時、福山市は人口6万人程度の小都市で市内とその周辺には阪神方面からの学童疎開してきた子供が多く滞在していたため、市民から「まさか空襲の標的にはならないだろう」という声もあった。なお、空襲の被害についての展示は福山市人権平和資料館で行われている。
  • アメリカ軍が空襲前に空中から撒いた伝単には空襲予告都市に「福山」の名があったが、憲兵警察官がすぐに回収したため、ほとんど伝わることはなかった。

戦災概況[編集]

FUKUYAMA Bombing Damage map 1945.jpg

外部リンク[編集]