民弥流

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民弥流(たみやりゅう)とは、居合術の流派のひとつ[1]。遠祖を林崎甚助重信、流祖を民弥権右衛門宗重とする[1]富山藩[2]加賀藩[3]など、北陸を中心に伝承された。

民弥流
たみやりゅう
文久2年(1862年)に発行された民弥流伝書
黒田弥平正好筆
使用武器 日本刀 
発生国 日本の旗 日本
発生年 江戸時代初期
創始者 民弥権右衛門宗重
源流 夢想流
主要技術 居合
伝承地 主に北陸地方
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概要[編集]

剣術柔術の付随発展ではなく、居合術のみで一流として体系だてられた専門流派である[4]民彌流と表記されることもある(漢字制限以後は主に現表記)[5]伊予吉田藩西条藩には民谷流の名で伝わったとされる[1]林崎流から同様に分派した傍系の「田宮流(たみやりゅう)」と同音であるため、表記揺れによる誤記も資料によっては有り得る[6][7][注 1]。加賀藩では、民弥流とともに、民弥流から分派したと思われる[注 2]「相心流」なる居合流派も伝わっていた[10]。現存の民弥流は富山藩に伝わった系統であり、その他の系統は明治以後伝承が途絶えたとされる[11]

以下の書物に富山藩に伝わった民弥流の伝書が掲載されており、デジタルアーカイブ資料として公開されている。

歴史[編集]

流祖の民弥権右衛門宗重は、上泉孫次郎義胤と同一人物とされる[12]。上泉義胤は、上泉信綱の孫であり、父である岡村行綱(上泉秀胤という説もある[12])が上泉流軍法を授けたものの新陰流剣術は学ばせず、長野無楽斎から無楽流(長田宮流)居合を学ばせ、夢想流(上泉流)居合を開いた[7][13]。はじめに軍法師範として岡山藩に仕え、居合術を極めたのち居合術師範として尾張藩に仕える[13]。孫次郎:孫四郎、義胤:義郷など当時の資料には表記揺れが多いのに加え、義胤は改名が多い人物でもあり、のちに上泉権右衛門秀信、岡村新之丞などと名を変えていった[12][14]。ある晩年の時期に母方の姓である民弥に改姓して民弥権右衛門宗重と名乗った際に、自身の流儀も民弥流と改め教授したため、夢想流とは別の流派として伝承されていったと考えられている[15]正保4年(1647年)12月11日に没したとする説があるが、享年は詳らかでなく、また墓所も明らかになっておらず、謎の多い人物である[13]

現存している系統は、長屋七左衛門吉富(飛騨国金森家の浪人[16])が正徳(1711 - 1716)年間に富山藩に伝えたものである[11]。この系統は富山藩の藩校「廣徳館」でも指導された[2][17]文政2年(1819年)に次期富山藩主前田利保に上覧した記録も残されている[18]明治時代以降は、富山藩士で武術師範であった黒田正好(明治6年没[19])家伝の系統と、そこから別れた高岡弥兵衛(黒田正好の弟子)[20]の系統とで伝承・教授された[注 3]

技法[編集]

富山藩に伝わった民弥流の基本の形(表の形)は以下の通りである[8][21]

  • 表之型(前七之勝)
    • 一ッ目、真之太刀(真太刀)
    • 二ッ目、行之太刀(行太刀)
    • 三ッ目、草之太刀(早太刀)
    • 四ッ目、向掛(向拂)
    • 五ッ目、柄取
    • 六ッ目、観念太刀(観念)
    • 七ッ目、陽之剣(陽剱)

黒田鉄山は林崎諸流のなかでも特に田宮流との技法上の関連を示唆しており[22]、実際に田宮流の古い伝書にある「刀ヲ帯シ左足ヲ居敷キ右足ヲ前ヘ出シテ」[23]、「右の足を立て、左の足を引きながら少し前かかり、抜く手と引く足と腰の延べとともに調い」[24]、「一調子ニ速ニ抜出スヲ格トシ」[23]、「直に左へ廻し旋らし、頭上に冠りて打ち込み切り付くるなり」[25]そのままの形を伝えている。居合術の古態をとどめた高度な内容の形を特徴としており[26][27]、その趣旨は実戦の模擬ではなく身体運用法を学ぶことであるという[28]

系譜[編集]

富山藩に伝わったのち、さらに黒田家に伝わった系統を記す[29]

参考文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 天保7年(1836年)刊行の『諸芸雑志』に掲載された民弥流の伝書[8]には、末尾に「民弥ト田宮者別人可成田宮氏ハ夢相流二代目ノ師可成欤民弥流ニハアラス」との注意書きが記されている。
  2. ^ 相心流の伝書『相心流居合手抜鑑書』(安政7年(1860年)写)[9]において、民弥流と一部形の名称が一致するほか、形の解説のなかで「民彌流」への言及が見られ、さらに「宗重附属傳」(民弥流流祖の名は宗重)と題された技法も記載されている。なお当伝書には流祖や系譜についての記載がない。
  3. ^ 高岡の系統の近年の活動は少なくともインターネット上では確認できない。

出典[編集]

  1. ^ a b c 綿谷雪『武藝流派辭典』(人物往來社、1963年)259頁
  2. ^ a b 『富山県史 近世』(富山県、1976年)92頁
  3. ^ 『金沢市史 通史編:第2巻』(金沢市、2004年)307頁
  4. ^ 黒田 1991, p. 26.
  5. ^ 『金沢市紀要』(金沢市、1924年)82頁
  6. ^ 今村嘉雄『十九世紀に於ける日本体育の研究』(不昧堂書店、1967年)347頁
  7. ^ a b 富永堅吾『剣道五百年史』(百泉書房、1972年)85, 382頁
  8. ^ a b 天保7年(1836年)『諸芸雑志 巻1~巻17』(富山県立図書館所蔵)巻11:82-86頁
  9. ^ 安政7年(1860年)写『相心流居合手抜鑑書』(東京国立博物館所蔵)
  10. ^ 『金沢市史 通史編 : 第2巻』(金沢市、2004年)307頁
  11. ^ a b とやまスポーツ物語』(富山県公文書館、2020年)3頁
  12. ^ a b c 綿谷雪『武藝流派辭典』(人物往來社、1963年)92頁
  13. ^ a b c 綿谷雪『日本剣豪100選』(秋田書店、1972年)146-147頁
  14. ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社、2015年):「上泉孫次郎」項(コトバンク)
  15. ^ 綿谷雪『武芸流派100選』(秋田書店、1972年)99頁
  16. ^ 『富山市史』(富山市、1909年)146-147頁
  17. ^ 近世越中の教育事情 〜広徳館・私塾・寺子屋〜』(富山県公文書館、2012年)3頁
  18. ^ 諸芸雑志 巻1~巻17」(富山県立図書館所蔵)巻8:76頁に所収。
  19. ^ 富山市の「黒田正好 正郡先生碑」に刻まれた情報より
  20. ^ a b 『日本古武道総覧』(日本古武道協会、1997年)86頁
  21. ^ 黒田 1991, p. 141-253(第9-第13章).
  22. ^ 黒田 1991, p. 47-54.
  23. ^ a b 杉上清兵衛尉より杉山八左衛門『田宮真傳奥儀集』, 文化11(1814)年, 旧武専謄写本.
  24. ^ 窪田清音『剣法居合記』, 文政2(1819)年, 日本体育大学付属図書館蔵.
  25. ^ 窪田清音『剣法傳授居合口傳』, 江戸末期, 山田次郎吉『剣道集義 続』(1923年)所収.
  26. ^ 黒田 1991, p. 82, 126.
  27. ^ 甲野善紀『武術を語る 身体を通しての"学び"の原点』(壮神社, 1987年)304頁.
  28. ^ 黒田 1991, p. 29.
  29. ^ 黒田 1991, p. 126.
  30. ^ 振武館黒田道場, 2022/12/25閲覧

外部リンク[編集]