韓医学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東医学 から転送)

韓医学(かんいがく)とは、伝統中国医学の系譜で、朝鮮半島で発展した医術・薬学。韓方(かんぽう)・韓方医学(かんぽういがく)・韓医方(かんいほう)ともいう。古くは東医学(とういがく)・東方医学(とうほういがく)と呼ばれ、北朝鮮では1993年に東医学から高麗医学に名称が変更された。また漢医学(かんいがく)・漢方医学(かんぽういがく)とも呼ばれていたが、韓国では1986年に民族的なアイデンティティの高まりから漢字表記が韓医学に変わった[1]。 広義の韓医学は、古代以来中国より導入され用いられていた漢方医学も含めた、朝鮮半島で行われた医学全体を指す場合もある。ただし、民俗医療はこれに含まない。李氏朝鮮時代において一般的に韓医学の恩恵に浴する事ができたのは王族・両班と中人階級だけであり、一般庶民はもちろん一部の両班(王族も含む)の間でも鬼神信仰にもとづく朝鮮独自の民俗医療が行われていた。

韓医学は、中国からの影響を受け、朝鮮半島独自の疾病・薬物などを取り入れ発展したとされるが、三国時代、統一新羅時代、朝鮮において実存する書籍は皆無である。唯一、朝鮮半島の医方を伝えているといわれる書に円融天皇時の永観2年(984年)に丹波康頼の著作『医心方』があるのみである。医心方は、平安時代に当時の中国医学の知恵を中国由来の文献から集大成し、天皇に献上された日本最古の医学書であるが、朝鮮半島の文献を引用したのではないかと思われる箇所が稀少例[2]見られる。

韓医学は、から中国の医学を導入しつつ高麗時代後期ごろから独自の医学として成立した[要出典]。特に庶民救済のため、済危宝・東西大悲院・恵民局が置かれ、現存する朝鮮最古の医学書『郷薬救急方』(高宗時代 13世紀後半)が編まれた。

李氏朝鮮時代では、太宗の時に医女制度が創始され、世宗の時には『郷薬集成方』と『医方類聚』が編集されたが、燕山君時代に入ると衰退し、中宗時代に入ると医学そのものに取って代わられ韓医学は完全に廃れてしまう。女真族の侵入や日本との軋轢などにより、明薬の輸入が不安定な時代が続くと明医学の持続が困難になり、韓医学が再び復活するが明医学の強い影響を受けている。宣祖の時代になると、許浚によって評価の高い『東医宝鑑』が編纂され、許任の鍼灸法や舎巖道人の新しい鍼灸補瀉法が創始された。19世紀になると、より実証的で科学的な医学が生まれ、李済馬の『東医寿世保元』からは四象医学が創始された。朝鮮では、許浚・舎巖道人・李済馬を朝鮮時代の三大医学者として挙げられている。

李氏朝鮮後期から末期に入ると韓医学は衰退の一途をたどり、開国後は西洋医学の流入により完全に衰滅し、朝鮮半島において韓医学(特に李氏朝鮮前期)の多くの古医書が逸失している。しかしながら、大韓民国の時代に至り、再び脚光を浴び、多くの韓方医院などが作られ復権している反面、その多くは中医学と区別することが難しいのが実情である。

[編集] 脚注

  1. ^ [[1]]
他の言語