高宗 (高麗王)

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高宗
各種表記
ハングル 고종
漢字 高宗
発音 コジョン
日本語読み: こうそう
ローマ字 Gojong
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高宗(こうそう、1192年 - 1259年)は第23代高麗王(在位:1213年 - 1259年)。

1218年モンゴル帝国と同盟を結ぶことで親睦を深めようとしたが、モンゴルに従属国同然に扱われたことに激怒し、1225年に断交して対立する。そのため、高麗はモンゴル軍の侵攻を6度にわたって受けることになった。

このため、モンゴルの襲来を恐れた高宗は高麗の首都江華島に移したが、その結果として本土が壊滅状態となり、1258年、これを見かねた高宗は、皇太子(のちの元宗)を人質として差し出すことを条件にして降伏した。このモンゴルの侵攻で高麗は荒廃し、実質的には滅亡状態にあったという。

服属後の高麗国王は、皇帝号・天子の呼称をあらゆる場面において禁止され、などの字を用いることも禁止された。太子世子と格下げされるなどの処置もこうむった。高麗滅亡後、朝鮮では皇帝号・天子の呼称は基本的に使用されず、全て国王号に統一されたため、高宗は朝鮮における皇帝としては、大韓帝国以前の最後の人物となった。

1236年(高宗20年)に元が高麗に侵攻し、符仁寺にあった版木は戦災で焼失してしまった。高宗は江華島に避難していたが、大蔵経の製作を指示し、巨済島や南海から白樺の材木を運び、15年の歳月をかけて8万枚以上もの版木を彫り上げた。これが、今日に伝わる高麗八萬大蔵経である。

略年[編集]

  • 1192年 誕生。
  • 1213年 王位につく。
  • 1225年 高麗に送ったモンゴルの使節が殺害される(鴨緑江事件)。(高麗史 巻22)
  • 1231年
    • 8月29日 モンゴル兵が来襲する。
    • 11月29日 モンゴル軍、開京に至る。王は降伏。地方では抵抗が続く。(高麗史 巻22)
    • 12月1日 モンゴルと講和。南宋を夾攻することを約定する。
    • 72人の知事(達魯花赤)を設置。[1]
  • 1232年
    • 1月22日 モンゴル軍、高麗から引き上げる。
    • 都を開京から江華島に移して抵抗する。
    • 達魯花赤が殺害される。
  • 1235年 モンゴル軍、高麗に侵攻する。(元史 2)
  • 1238年 モンゴル軍、高麗に侵攻する。
  • 1247年 9月 モンゴル軍、高麗に侵攻する。(元史 208)
  • 1254年 夏 高麗へ。(元史 3)
  • 1258年 和州以北をモンゴルに割譲する。
  • 1259年 モンゴルに服属する。世子(元宗)を人質として差し出す。
  • 1259年 死去。

家族[編集]

  • 安恵太后 柳氏(熙宗と成平王后任氏の娘)
  • その他

脚注[編集]

  1. ^ 「元史」列伝第九十五 外夷一 高麗に『太宗三年八月,命撒禮塔征其國,國人洪福源迎降于軍,得福源所率編民千五百戸,旁近州郡亦有來師者。撒禮塔即與福源攻未附州郡,又使阿兒禿與福源抵王京,招其主王皞,皞遣其弟懷安公王侹請和,許之。置京、府、縣達魯花赤七十二人監之,遂班師。』

関連項目[編集]