平桝敏男

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平桝 敏男
基本情報
出身地 日本の旗 日本 広島県広島市打越町
(現・西区
生年月日 1911年7月19日
没年月日 1971年
身長
体重
167 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1936年
初出場 1936年4月29日
最終出場 1941年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

平桝 敏男(ひらます としお、 1911年7月19日 - 1971年)は、プロ野球黎明期の選手、大阪タイガース(阪神タイガース)創立時の1番打者、外野手広島県広島市打越町(現・西区)出身。  

来歴・人物[編集]

1929年、旧制広陵中学(現広陵高等学校)4年のとき、1学年上の小川年安(元阪神)らと春選抜高校野球大会甲子園)出場。代打出場2試合のみで2打数1安打。チームは決勝で第一神港商業(現神港高等学校)に敗れ準優勝だった。大会終了後チームのハワイ遠征(平桝は不参加)が秋まで長引き、翌年春の選抜選考大会は欠場し選に洩れ、最上級生となった5年時は4番を打ったが最後の夏は山陽地区予選で敗退した。

慶應義塾大学を経て1935年、創設された大阪タイガースに入団。背番号161936年から始まったプロ野球リーグ戦でセンター1番を打った。俊足巧打の外野手として鳴らし、特に浅いフライをトンボ返りしながら捕球するプレーはファンを熱狂させたといわれる。強烈なファイトの持ち主で、ゲームが終わったあとも、ファイト剥き出しにするので、若い選手は近くへ寄れない程だったという。しかしこの年5月1日の対阪急戦、強烈なライバル意識のあった阪神電鉄の上層部から「どこに負けてもよいが阪急にだけは負けるな」との指示があったにもかかわらず、本拠地・甲子園で平桝の落球によりサヨナラ負け。これが大きな問題となり2ヶ月後の初代監督森茂雄更迭の引き金となった。変則的な日程だった初年度のこの年、通算42試合に出場し本塁打0、17打点、打率.265。盗塁13は苅田久徳に次ぐ2位。タイトルが創設された秋季リーグは打率.269ながら打撃ベストテンの9位。折目正しく、お洒落な選手でもあり、戦前のタイガースでは塚本博睦と二人だけ、化粧水やクリームを使っていた。

翌年1937年、応召し郷里広島の陸軍第五師団に入営。1940年まで4年間従軍。第五師団にはのち藤村富美男藤村隆男兄弟や白石勝巳らも入営している。1941年除隊後、阪神に復帰。外野手の控えとなり19試合出場。打点1、打率.157と振るわなかった。このあと再び応召する。

終戦後の1946年、広陵の後輩・門前眞佐人らと広島駅前で映画館パチンコ屋キャバレーなどを経営していた広島鯉城園のノンプロチームに参加し、第17回都市対抗野球大会出場。職業野球経験者をずらりと揃えながら、初戦で優勝した大日本土木に惨敗した。この後、チームの主力は東京カブスと合流しグリーンバーグ~結城ブレーブスとチーム名を変え国民リーグに参加するが、広島鯉城園としてチームも残ったようで、さらに岩本信一南海ホークスなど、プロからの選手の引き抜きで間も無くチームは解散。平桝はプロ野球に復帰することなくその後は広陵、広島商業広島一中などのOB混成チーム・全広島(広島クラブ)に参加し、1950年第21回都市対抗野球大会に出場した。後に広島で飲食店を経営。1971年病死。

16歳離れた実弟・俊之も1946年パシフィックに1年在籍。記録は1試合、0打数0安打0盗塁1得点。何かしらで塁に出てホームを踏んだものと思われるが、戦後初年度の混乱期で「平桝の弟なんだから巧いだろ」という理由で採用されたといわれている。野球は兄とは違い、「ズブの素人」だったらしい。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1936春夏 大阪
阪神
15 75 69 12 18 1 0 0 19 7 6 -- 2 -- 4 -- 0 3 -- .261 .301 .275 .577
1936秋 27 97 78 21 21 3 0 0 24 10 11 -- 0 -- 19 -- 0 3 -- .269 .412 .308 .720
1941 19 48 38 3 8 1 0 0 9 1 1 -- 0 -- 10 -- 0 3 -- .211 .375 .237 .612
通算:2年 61 220 185 36 47 5 0 0 52 18 18 -- 2 -- 33 -- 0 9 -- .254 .367 .281 .648

背番号[編集]

  • 16 (1936年、1941年)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]