ミキ・ビアシオン
| ミキ・ビアシオン | |
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ミキ・ビアシオン操るランチア・デルタ
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| WRCでの経歴 | |
| 活動時期 | 1980 - 1995 |
| 所属チーム | ランチア、フォード |
| 出走回数 | 78 |
| チャンピオン回数 | 2 (1988、1989) |
| 優勝回数 | 17 |
| 表彰台回数 | 40 |
| ステージ勝利数 | 372 |
| 通算獲得ポイント | 768 |
| 初戦 | 1980 ラリー・サンレモ |
| 初勝利 | 1986 ラリー・アルゼンチン |
| 最終勝利 | 1993 アクロポリスラリー |
| 最終戦 | 1995 ラリー・サンレモ |
マッシモ・「ミキ」・ビアシオン (Massimo 'Miki' Biasion, 1958年1月7日 - )はイタリア出身のラリードライバーであり、88、89年のWRCドライバーズチャンピオン。
目次 |
[編集] 経歴
ヴェネト州バッサーノ・デル・グラッパ出身。親はイタリア語で天使を意味する"ミケーレ"と名づけるつもりだったが、祖父が役所に届けた名前がマッシモだったため、それが戸籍上の名前となった。愛称のミキはその両親が考えた名前に端を発して付いたようだ。
[編集] WRC
ミキの黄金期は80年代のランチア時代で、ランチア・ラリー037、デルタS4でWRC参戦をきっかけに、87年のグループA草創期はデルタHF4WDでWRCのトップコンテンダーの仲間入りを果たす。そして、翌88年に悲願のWRCタイトルを獲得。 89年もトヨタとの争いが激しくなる中、地元サンレモから投入されたニューマシン、デルタHFインテグラーレ16Vを操り、この年、トヨタに移籍した新鋭、カルロス・サインツを見事に破って勝利を飾るとその年のタイトルも獲得した。
1990年にフランスの新人、ディディエ・オリオールやユハ・カンクネンらのランチア加入により、以前のような速さでラリーを圧倒することはなくなったものの、ミキは巧みなラリー運びでその後も勝利を挙げていく。だが、チーム代表がレーシング畑のジョルジョ・ピアンタに代わると、チーム首脳との関係が悪化。これによって、1992年は長年在籍したランチアを離れ、フォードに移籍する。しかし、フランスの若手、フランソワ・デルクールを中心としたチーム運営に加え、チーフ・エンジニアのフィリップ・ドゥナビンを始め、役所体質と言われた独特のチーム運営がミキのフラストレーションを高め、なかなか思うような成績を出せなくなり、終いにはチームの組織編成に伴いマシン開発も満足に出来ない状況に陥り、結果、フォード時代にあげた勝利は1993年のアクロポリスのみにとどまる。
1995年、フォードがベルギーのプライベート・チーム、RASスポールにワークス参戦委託を表明すると、RASの生え抜きであったブルーノ・ティリーに押し出される形でチームを離脱。これが実質的なWRC引退となってしまった。
WRCを離れた後はイタリアのタイヤメーカー、ピレリの開発ドライバーを務めたほか、ラリーレイドの三菱のワークスドライバーとしてダカールラリーやUAEデザートチャレンジなどに参戦した。1999年のUAEデザートチャレンジとチュニジアラリーではカミオン部門で優勝している。
[編集] エピソード
- カルロス・サインツやディディエ・オリオールらと並んで、マシンの開発能力には長けており、ランチアがWRCを席巻した活躍は彼の存在なくして出来なかったという声が多い。現に彼とランチア時代を過ごしたオリオールはその開発能力を高く評価していた。
- フォード時代の彼の扱いに対して、疑問を抱くものは多かった。フォード時代に共に戦い、ベルギー人ドライバーとして初のWRCトップを快走する活躍をみせたブルーノ・ティリーは、”なぜ、ビアシオンともあろう人がこれだけ苦しんでいるのか”という言葉を残している程である。しかし、彼が開発に携わったエスコート・コスワースはワークスチームだけに留まらず、他のプライベートチームにもその性能を認められていたことから、20年近くタイトル争いから遠ざかっていたフォード躍進の影の功労者といえるかもしれない。
- ランチアからフォードに移籍してきた直後の1992年にテストしたシエラ・コスワースを「人糞の積み重なり」と形容した。
- サインツ、オリオールと並んでマシン開発能力に秀でていたが、フォード時代はチーフ・エンジニアのフィリップ・ドゥナビンとの確執から、思うようなマシンの改良はおろか、セットアップも出来ずに走ることが多く、もし、ビアジオンの意向に沿ったセットアップがマシンに施されていたら、さらに活躍できたとの声も多い。ちなみにこのドゥナビンは人嫌いで閉鎖的な性格で有名で、自分の意に沿わないドライバーを遠ざけることが多々あったようだ。ちなみにドゥナビンは後にフォードに移籍し、マシン開発に対して積極的かつ綿密な作業を行うことで有名なサインツとも対立している。
- イタリアでは唯一の世界チャンピオンである彼は特別の存在である。スバルやセアトで活躍したピエロ・リアッティや、三菱で活躍したジャン・ルイジ・ガリは彼に対し、今でも尊敬の念を抱いている。
[編集] 関連項目
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