マルセロ・カエターノ
マルセロ・ジョゼ・ダシュ・ネヴェシュ・アルヴシュ・カエターノ(Marcelo José das Neves Alves Caetano, 1906年8月17日 - 1980年10月26日)はポルトガルの政治家、首相。
来歴 [編集]
元はリスボン大学の法学教授であり、超保守主義者であった。 1940年、アントニオ・サラザールの権威主義的独裁の下、カエターノの出世が始まる。 彼はすぐにエスタド・ノヴォ体制の要人となり、ヒトラーユーゲントを模倣した組織であるポルトガル青年団(Mocidade Portuguesa)の長官、後には植民地省大臣にも指名された。
1968年、サラザールが突然の事故により執務不能となると、カエターノが後継者に指名され、9月28日、首相に就任した。 サラザールと比較し、カエターノの政治姿勢はカトリック内の進歩的な思想にある程度寛容さを示した。ポルト司教とマリオ・ソアレスは追放を解除され、検閲も緩和された。カエターノ自身は社会民主主義を標榜したが、実際のところ、全体主義的な傾向は変わっていない。1968年10月にカエターノはアレンテージョで演説を行うが、聴衆の老婆が発した「今回のサラザールは、前のより少しだけマシらしい」との言葉は、カエターノの統治の性質を表す言葉として当時のジャーナリストによく紹介された[1]。だが、植民地政策についてはサラザールを踏襲する。植民地戦争は継続され、ザンビアのカウンダ大統領らの仲介の申し出にも応じなかった。
カエターノの政策、特に植民地に対す政策は厭戦感情の高まる民衆と軍部に失望を与えた。それまでも政府への批判活動は社会党、共産党が先頭に立って行われていたが、それら政党は政府を打倒する武力はなく、変わって軍部に期待が寄せられるようになる[2]。またこの時期、ポルトガル軍の将官に体制打倒に同調する素地も作られていた。ポルトガル軍の士官はかつて上流階級によって占められていたが、第二次大戦後の社会の変化により上流階級の志願者が減少した。植民地戦争が起こった1960年代には志願者の減少から、士官学校はあらゆる階層の国民を受け入れるようにもなっていた。こうして、士官にプロレタリア階級出身者が多く生まれるようになる[3]。さらに1973年6月、カイターノが徴兵を受けた従軍中の大学卒兵を優遇する政策(帰国して一年間教育過程を受ければ、将校に昇格させる)を発したことで、彼らは決定的に反政府へと転じる。そこには下層出身者が唯一の出世の手段として士官学校を四年間かけて卒業して手に入れた地位を、大学に通える資産があるだけのアマチュアが一年で同格になることへの強い反発があった[4]。
1974年には左派青年将校らによる国軍運動 (MFA) が決起し、アンゴラ、モザンビーク、リスボンの各地からカエターノへの抗議文を提出した。軍部からの反発にカエターノは虚をつかれ、責任者の処罰といった対応をとる時間もなく[5]、カーネーション革命が勃発。包囲されたカエターノらは投降し、翌日にはトマス大統領と共にマデイラ島へ移され、数日間滞在した後、ブラジルへ亡命。1980年、同地で没した。
参考文献 [編集]
- 野々山真輝帆 『リスボンの春』 朝日新聞社、ISBN 4-02-259548-5
出典 [編集]
|
|
|