アントニオ・オスカル・カルモナ
| アントニオ・オスカル・カルモナ António Óscar Fragoso Carmona |
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| 任期: | 1926年 – 1951年 |
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| 出生: | 1869年11月24日 |
| 死去: | 1951年4月18日(満81歳没) |
アントニオ・オスカル・カルモナ(ポルトガル語: António Óscar Fragoso Carmona、1869年11月24日-1951年4月18日)はポルトガルの軍人、政治家、第11代大統領。
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経歴 [編集]
カルモナは1869年11月24日にポルトガルのリスボンで生まれた。1923年に軍事大臣に就任。 1926年5月28日の革命で、ジョゼ・メンデス・カベサダス、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタの次に権力を掌握。7月9日(法律的には11月16日)に大統領に就任した。
1927年、アントニオ・サラザールを大蔵大臣に登用。サラザールの手腕に感銘を受け、1932年にサラザールを首相に任命する。この結果サラザールはカルモナ以上の権力を手にする。1933年に憲法を改正し、「エスタド・ノヴォ」の成立を宣言。
人物 [編集]
前大統領マヌエル・ゴメス・ダ・コスタとは違って、カルモナが指揮官として戦ったことは無かった。 第一次世界大戦中、ポルトガル軍がフランドルへ派遣されたとき、カルモナは部下に命令だけを与えて、自分は国にとどまった。1933年以降、彼はサラザールの全くのお飾りで、形式的な閣僚任命権などの儀礼的な役割以外には何の力も持たなかった。
しかし、サラザールへの政治的追従は別として、カルモナは1935年から1936年にかけてのサラザールへの民衆の反抗に対して、重要な役割を果たした。カルモナは平和と安全に関する演説で反抗を鎮めたのである。第二次世界大戦中も同じように、人を惹きつける演説を行って国民を励ました。サラザールとはあまりよい関係ではなかった。サラザールはカルモナの次の大統領であるクラヴェイロ・ロペスは解任できたが、カルモナの人気ぶりに、彼を解任することはついにできなかった。
その他 [編集]
カルモナの大統領としての職務は1951年に彼が死ぬまで続いた。彼はリスボン近郊のベレンにあるジェロニモス修道院に埋葬された。1913年に騎兵学校のための本を、1928年には「Prefácio(序文)」という本を執筆した。彼はリスボン市長アントニオ・ペドロ・ノブレ・カルモナ・ロドリゲス(2004年 - 2007年)の大叔父である。
関連項目 [編集]
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