マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)

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マリア・アレクサンドロヴナ
Мари́я Алекса́ндровна
ヘッセン=ダルムシュタット家
Maria Alexandrovna von Hessen-Darmstadt.jpg
称号 ロシア皇后
フィンランド大公妃
全名 Maximiliane Wilhelmine Marie
マクシミリアーネ・ヴィルヘルミーネ・マリー
出生 1824年8月8日
ダルムシュタット
死去 1880年6月3日(満55歳没)
Romanov Flag.svg ロシア帝国サンクトペテルブルク
配偶者 アレクサンドル2世
子女 アレクサンドラ
ニコライ
アレクサンドル3世
ウラジーミル
アレクセイ
マリア
セルゲイ
パーヴェル
父親 ヘッセン大公ルートヴィヒ2世
母親 ヴィルヘルミーネ・フォン・バーデン
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皇后マリア

マリア・アレクサンドロヴナМари́я Алекса́ндровна / Maria Alexandrovna, 1824年8月8日 - 1880年6月3日)は、ロシア皇帝アレクサンドル2世の皇后。ヘッセン大公女マクシミリアーネ・ヴィルヘルミーネ・マリー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(Maximiliane Wilhelmine Marie von Hessen-Darmstadt)として生まれた。

出生[編集]

マリーは、大公妃ヴィルヘルミーネ・フォン・バーデンが生んだ7人の子のうちの末子だが、ヴィルヘルミーネの生んだ子供たちのうち下から4人の父親は、彼女の愛人アウグスト・フォン・スナルクラン・ド・グランシー男爵だった。醜聞を避けるため、夫のヘッセン大公ルートヴィヒ2世が4人を認知したのである。このため、4人のうち生き残った2人、マリーと兄アレクサンダーは、大公の住むダルムシュタットではなくハイリゲンベルクで育てられた。

1838年、結婚相手を求めてドイツを旅していたロシア皇太子アレクサンドルは、14歳のマリーを見そめた。彼は、マリーが「不義の子」であることを承知で結婚を決意し、難色を示した母・皇后アレクサンドラ・フョードロヴナを押し切った。2人は1841年4月に婚配機密を受け、マリーは名をマリア・アレクサンドロヴナに改めた。

結婚生活[編集]

マリアは非常に人見知りが激しく、慣れない人にはぎこちなく接し、服装に好みがなく、議論もできず、魅力がない女性だと見なされがちだった。母ヴィルヘルミーネに似て呼吸器官が弱く、咳や周期的な発熱に苦しみ、サンクトペテルブルクの気候が合わなかった。それにもかかわらず、彼女は8人の子供の母親となった。絶え間ない妊娠は病を伴い、多くの行事が重なる宮廷から彼女を遠ざけた。それは同時に、アレクサンドルに誘惑の機会をもたらした。マリアは、アレクサンドルが不貞をはたらき、多くの愛妾を抱えていることを知った。彼は愛妾エカチェリーナ・ドルゴルーコヴァを特に愛し、彼女と間にできた3人の庶子たちと宮殿に住んでいた。彼らは、マリアが1880年6月に亡くなってからわずか1ヶ月後に貴賤結婚をした。1855年にアレクサンドルは皇帝に即位。彼はマリアの体調が安定しようがしまいが、公務に付き合わせた。マリアの最も愛した皇太子ニコライの1865年の死は、彼女に非常な打撃を与えた。

マリアは貴賤結婚をしてハイリゲンベルクに住む兄アレクサンダーをしばしば訪ねた。そこで、彼女の甥ルートヴィヒ4世と結婚したイギリス王女アリスと出会った。マリアは、アリスからアリスの兄エディンバラ公アルフレッド(ザクセン=コーブルク=ゴータアルフレート)とマリアの娘であるロシア大公女との縁組みを打診されたが、これは最後に成立した。1878年にアリスが病死すると、彼女の遺児たちに会いにしばしばハイリゲンベルクを訪れた。母の訪問に同行したセルゲイ大公は、ここで未来の妻エリーザベトを見そめるのである。また、エリーザベトの妹アリックスは、マリアの孫ニコライ2世の皇后となる。

子女[編集]

関連項目[編集]

彼女の名前にちなんで、下記の名前がつけられた。

先代:
アレクサンドラ・フョードロヴナ
ロシア皇后
フィンランド大公妃
1855年 - 1880年
次代:
マリア・フョードロヴナ