エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ

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ユーリエフスカヤ公女エカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ、1880年頃

エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァЕкатери́на Миха́йловна Долгору́кова, 1847年11月14日 - 1925年2月15日)は、ロシア皇帝アレクサンドル2世の愛人で、後に2番目の妻となった貴族女性。貴賤結婚とされたためロシア皇后にはなれず、ユーリエフスカヤ公女殿下(Светлейшая Княгиня Юрьевская)の称号を与えられた。

生涯[編集]

エカチェリーナ(愛称カーチャ)は没落貴族のミハイル・ミハイロヴィチ・ドルゴルーコフ公爵の娘として生まれた。エカチェリーナが皇帝アレクサンドル2世と初めて出会ったのは、皇帝が父の領地を訪れたときである。このとき、皇帝はまだ12歳の少女だったエカチェリーナを心に留めることはなかった。父が何の財産も残さずに死ぬと、エカチェリーナと妹は首都サンクトペテルブルクにある貴族女学校、スモーリヌィ女学院の寄宿生となった。皇帝は亡きドルゴルーコフ公爵の4人の遺児たちの教育費を出してやっていた。

1864年の秋、皇帝はスモーリヌィ女学院を公式訪問した際、16歳になったエカチェリーナと再会して一目ぼれをした。ある同時代人は当時のエカチェリーナについて、「中背で洗練された容姿をしており、柔らかな白皙の肌、怯えたガゼルのような眼、官能的な口元、明るめの栗色をした豊かな髪の持ち主」と述べている。皇帝は学校を訪れてはエカチェリーナを散歩や乗馬に連れ出した。その後、皇帝はエカチェリーナを結核に悩まされる皇后マリア・アレクサンドロヴナの女官に任命した。

エカチェリーナは皇帝のことが好きで、皇帝と一緒にいるのを楽しんではいたが、大勢いるお手付きの女の一人になるのは嫌がった。母の公爵未亡人ヴェラとスモーリヌィ女学院の学長は、エカチェリーナに家運再興のための機会を逃さず、皇帝の寵姫となるよう彼女をせき立てていた。皇帝は1865年に後継ぎの長男ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公を亡くし、また暗殺未遂にも遭遇して、すっかり気落ちしていた。皇帝の嘆き悲しむ姿に心を動かされたエカチェリーナは、1866年7月に皇帝の愛人になった。エカチェリーナは1872年に長男ゲオルギーを出産したのを皮切りに、皇帝とのあいだに4人の子供をもうけた。

皇帝の第二の家族[編集]

皇帝はエカチェリーナと彼女に産ませた子供たちを傍におくことを主張してはばからなかった。皇帝は週に3度ないし4度はエカチェリーナと会い、その時はエカチェリーナが警護官に先導されて冬宮殿の皇帝の居室にやってきた。エカチェリーナは第三子ボリスを妊娠した際、子供を冬宮殿で出産することを主張し、望み通り皇帝の居室でボリスを出産した。もっとも、ボリスは生後数週間で風邪が原因で亡くなった。エカチェリーナと子供たちは皇帝から首都に邸宅を与えられていたが、のちに皇帝はエカチェリーナがテロの標的にされるのを恐れて、母子を冬宮殿の第三翼に住まわせることを決めた。

皇帝の家族や宮廷は二人の関係を激しく非難した。エカチェリーナは皇后の座を狙っているとか、皇帝に自由主義を吹き込んでいると中傷された。またエカチェリーナがある実業家と関係を持っているという噂も立てられた。皇族の中には、皇帝が愛妾エカチェリーナに産ませた子供に帝位継承権を与える可能性を恐れる声もあがった。皇帝は、死の床にある皇后が死ねばすぐにでもエカチェリーナと結婚する、なぜなら自分はいつ暗殺されてもおかしくないので、エカチェリーナとその子供たちに何らかの保障を与えねばならないからだ、と家族に宣言した。

ユーリエフスキー公爵家の紋章

コンスタンチン・ポベドノスツェフら一部の宮廷人はエカチェリーナを「下品で醜い」と酷評し、彼女が亡きマリア皇后に取って代わったことに憤った。しかし皇帝はといえば、長年日蔭の身においていたエカチェリーナとの関係を晴れて公式のものに出来たことを、非常に喜んでいた。皇帝の甥アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は、皇帝はエカチェリーナの前では10代の少年のように振る舞っていた、と回想している。皇帝の家族は、皇帝がエカチェリーナを皇后にし、彼女とのあいだの子供たちに帝位継承権を与えて大公や大公女の称号を与えるのではないか、と不安に思っていた。また皇帝の家族はエカチェリーナが皇帝を愛称の「サーシャ」で呼ぶことにも我慢がならなかった。

皇帝とエカチェリーナは幸福に暮らしていたが、皇帝は常に暗殺の脅威と隣り合わせの暮らしをしていた。1880年3月1日、冬宮殿の近くで爆発が起きて正餐室が揺れたとき、アレクサンドル2世は「カーチャ!愛するカーチャ!」と叫びながら階段を駆け上がってエカチェリーナの部屋へ走った。エカチェリーナは無事であったが、一方で死を目前にしたマリア皇后は朦朧として爆発にも気づけない状態だった。皇后の兄のヘッセン=ダルムシュタット公子アレクサンダーはその場に居合わせたが、妻のことを全く気にかけない皇帝のこの振る舞いを見て激怒した。

皇帝との結婚[編集]

1880年6月8日に皇后マリア・アレクサンドロヴナが死ぬと、皇帝は妻の死から1か月も経たない7月6日にエカチェリーナと再婚した。この結婚は皇帝の家族からも民衆からも祝福されないものだったが、皇帝は無理に再婚を急いだ。エカチェリーナはユーリエフスカヤ公女の称号を与えられ、子供たちも皇帝の子供として正式に認知されたが、貴賤結婚で生まれた子供として帝位継承権は与えられなかった。 1880年3月1日の冬宮殿の近くでの爆発のちょうど1年後の1881年3月1日、エカチェリーナは胸騒ぎがして皇帝に出かけないよう懇願したが、皇帝は妻をなだめて外出した。1時間もしないうちに、重体になった皇帝が宮殿に運び込まれた。皇帝が爆弾で致命傷を負ったと聞いたエカチェリーナは皇帝のもとに駆け付け、すでに息絶えた皇帝の遺体に取りすがって号泣した。葬儀では、エカチェリーナと子供たちは教会の入り口に立たされ、皇族の席を与えられなかった。またエカチェリーナ母子は皇族による皇帝追悼の聖体礼儀に出ることも禁じられた。

余生[編集]

皇帝の死後、エカチェリーナと子供たちは340万ルーブルの補償金と新しい邸宅を受け取るかわりに、冬宮殿を含む全ての帝室所有の宮殿に住まう権利を放棄した。エカチェリーナはパリリヴィエラに住み、この地の社交界で洗練された女主人として有名になり、20人の使用人と私用の鉄道馬車を抱える暮らしを送ったが、自身で財産を管理せねばならず、子供たちには贅沢をさせなかった。ロマノフ家の皇族たちは相変わらず彼女を軽蔑していた。継息子のアレクサンドル3世は彼女を秘密警察のスパイに監視させ、その行動を逐一報告させていた。そして、母親との暮らしに辟易した息子のゲオルギーが軍への入隊を希望しても、ロシア国内に入ることを一切許さなかった。アレクサンドル3世の三男ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公は、病気を口実に彼女と親交を深めるのを忌避した。ニコライ2世は彼女と息子らに対して寛容で、ゲオルギーをロシアに住まわせたが、エカチェリーナの娘オリガが詩人アレクサンドル・プーシキンの孫のゲオルク・ニコラウス・フォン・メレンベルク伯爵と結婚する際に父親代わりを務めてほしいとエカチェリーナに頼まれたが、母のマリア・フョードロヴナ皇太后の反対にあって断った。エカチェリーナは1925年に金を使い果たして死んだ。

子女[編集]

エカチェリーナはアレクサンドル2世とのあいだに4人の子女をもうけた。子供たちはユーリエフスキー(ユーリエフスカヤ)公爵の姓を名乗った。

外部リンク[編集]