マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)

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マクシミリアン2世エマヌエル
マクシミリアン2世エマヌエル

マクシミリアン2世エマヌエルMaximilian II. Emanuel, 1662年6月11日 - 1726年2月26日)は、バイエルン選帝侯(在位:1679年 - 1726年)。フェルディナント・マリアサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の娘アデライデ・エンリエッタの子。

[編集] 生涯

1679年に選帝侯位を継いだが、幼少のため叔父のマクシミリアン・フィリップ・ヒエロニムスが翌1680年まで後見人となっていた。

1683年第二次ウィーン包囲で解放軍に加わりオスマン帝国からウィーンを解放、大トルコ戦争にも参戦して1686年ロレーヌシャルル5世の指揮下でブダを落とし、1687年モハーチの戦いでオスマン帝国に勝利、翌1688年にシャルル5世に代わって指揮を執りベオグラードを陥落させた。同年に大同盟戦争に参戦、シャルル5世と共にライン川の防衛に向かい、トルコ戦線はバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムに交替した。

先妻との間の子である長男ヨーゼフ・フェルディナントは、子のないスペインカルロス2世の最近親の男子として王位継承者に指名され、アストゥリアス公に叙されたが、ほどなく夭折した。また、マクシミリアン2世はヨーゼフ・フェルディナントの誕生と前後してスペイン領ネーデルラントの総督となり、スペイン継承戦争さなかの1706年までその地位にあった。

スペインの新たな王位継承者の座を巡ってスペイン継承戦争が勃発すると、マクシミリアン2世はフランスルイ14世の孫で自身の甥に当たるアンジュー公フィリップ(フェリペ5世ルイ王太子と姉マリー・アンヌの次男)の王位継承を支持してフランス方に就き、1701年にネーデルラント総督職の安堵を条件にフランス軍をネーデルラントに引き入れ、翌1702年にはフランス側として参戦、1703年ヴィラール率いるライン川のフランス軍とも合流してドナウ川流域を制圧、ウィーンを脅かした。

しかし、方針を巡ってヴィラールと衝突、1704年にヴィラールに代わって派遣されたタラール伯マルサンと共にドナウ川に留まったが、ブレンハイムの戦いマールバラ公ジョン・チャーチルプリンツ・オイゲンが率いるオーストリアイギリス連合軍に敗れ、バイエルンは敵軍に占領され息子達も捕虜として数年間を過ごすことになった。マクシミリアン2世はネーデルラントへ逃亡、フランスの将軍ヴィルロワ公と組んでイギリス・オランダ連合軍と戦ったが、1706年にラミイの戦いでまたもや大敗、ネーデルラントもイギリス・オランダに占領されたため逃亡、ライン川戦線の守備に回されたが、やがて姉の縁を頼ってフランスへ亡命した。

1713年に戦争が終結し、1715年になってバイエルンへ戻れた。その後はニンフェンブルク宮殿の拡張とハプスブルク家の関係修復に取り組み、後妻との間の次男カール・アルブレヒト神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘マリア・アマーリエを結婚させたり、オーストリア・トルコ戦争ではオーストリア軍に兵力を供出している。一方で5男のクレメンス・アウグストを弟のヨーゼフ・クレメンス亡き後のケルン大司教に就かせている。

1726年に死去し、選帝侯位はカール・アルブレヒトが継いだ。

[編集] 家族

1685年神聖ローマ皇帝レオポルト1世と皇后マルガリータ・テレサの娘マリア・アントニアと結婚した。3子をもうけたがいずれも夭逝し、妃も1692年に死去した。

1694年ポーランドヤン3世ソビエスキの娘テレサ・クネグンダと再婚し、10子をもうけた。

[編集] 参考文献

先代:
フェルディナント・マリア
バイエルン選帝侯
1679年 - 1726年
次代:
カール・アルブレヒト
先代:
カスターニャ侯
スペイン領ネーデルラント総督
1692年 - 1706年
次代:
イギリス・オランダ軍による占領
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