ハラール (エチオピア)
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歴史的城塞都市 |
| (英名) | Harar Jugol, the Fortified Historic Town |
|---|---|
| (仏名) | Harar Jugol, la ville historique fortifiée |
| 面積 | 48ha |
| 登録区分 | 文化遺産 |
| 登録基準 | 文化遺産(2), (3), (4), (5) |
| 登録年 | 2006年 |
| 拡張年 | |
| 備考 | |
| 公式サイト | ユネスコ本部(英語) |
| 地図 | |
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ハラール(アムハラ語:ሐረር Harar)はエチオピア東部の都市で、ハラリ州の州都。アディスアベバからは約500km離れており、エチオピア高原の東の丘の上にある(海抜1885m)。ジュゴルと呼ばれる城壁に囲まれたハラールの町には、82のモスクが存在し、イスラームにおける「第4の聖地」とも考えられていた。この歴史的町並みは、「歴史的城塞都市ハラール・ジュゴル」の名で、ユネスコの世界遺産に登録されている。
また、何世紀もの間、ハラールは、エチオピア各地、アフリカの角、アラビア半島などを結ぶ交易の中心地であり、港を通じて、それ以外の世界に開かれていた。
さらに、ハラールの名は独特のコーヒーの名前(ハラール・コーヒー)にもなっている。
目次 |
[編集] 人口
1994年の国勢調査での人口は76378人、エチオピア中央統計局による2005年の調査では122000人(男性60000人、女性62000人)である[1]。
[編集] 住民
ハラールの住民はキリスト教徒やムスリムだが、その民族構成は多様で、アムハラ人、オロモ人、ソマリ人、グラゲ人、ティグレイ人などからなる。
しかし、市内で優勢なのはこの町の先住民であるハラリ人である。彼らは自らをゲイ・ウス(Gey 'Usu,「都市の民」)と称するセム系民族で、かつてはアクスム王国の軍事的前哨拠点を出自とする人々と考えられていた。ハラリ人は民族集団を固持するよりも他の集団と混じったし、また異邦人にも好意的であったことから、今日の彼らの区分は厳格な民族集団の区分というよりも、文化的・社会的な区分にすぎない。
彼らの言語であるハラリ語は、クシュ語が支配的な地域にあって、セム系言語の点在する地域を構成するものである。筆写には、本来アラビア文字が使われたが、近年ゲエズ文字も使われるようになっている。
[編集] 歴史
住民たちからゲイ(Gey,「都市」)と呼ばれていたこの町は、史料によって異なるが7世紀から11世紀の間に建造されたようであり、アフリカの角におけるイスラームの宗教的・文化的中心地として立ち現れた。
当時はエチオピア帝国の臣下に当たっていたAdal Sultanateの一部であり、アブー・バクル・イブン・ムハンマド (Abu Bakr ibn Muhammad) 治下の1520年にアダルの首都となった。その後16世紀中に、「左利きのグラグン」(Gragn the Left-handed) の異名を持つアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジ (Ahmad ibn Ibrihim al-Ghazi) が、ハラールを拠点に侵略戦争を仕掛け領土を拡大し、エチオピア帝国の存立をも脅かした。その後継である首長ヌル・イブン・ムジャヒド (Nur ibn Mujahid) は、町の周りを5つの門を持つ4mの城壁で囲んだ。「ジュゴル」と呼ばれたこの壁は今も残り、住民にとってはハラールのシンボルとなっているのである。
ハラールは16世紀に最盛期を迎えた。地域の文化が繁栄し、多くの詩人たちが逗留し謳い上げた。同時に、コーヒー、織物業、籠細工、製本術などでも有名になった。
ハラールの支配者たちは独自の貨幣も鋳造した。最古のものはイスラム暦615年(西暦1218年 - 1219年)と読めるかもしれない日付が刻印されているものだが、確実に最古といえるものは西暦1789年のことになる。その後、19世紀を通じて、さらに貨幣が発行された[2]。
都市は1875年までは何とか独立を保っていたが、その年にエジプトに征服された。なお、この時期、詩人アルチュール・ランボーがハラールに滞在しており、彼が住んでいた家は今では記念館となっている。
10年後、ハラールは束の間の独立を取り戻したが、わずか2年後の1887年1月6日、シェワを拠点とするメネリク2世治下のエチオピア帝国に併合された。
その後、ハラールの商業的重要性が後退した。当初都市間を直接結ぶことが計画されていたアディスアベバとジブチ間の鉄道が、資金の節約のためにハラールとアワッシュ川の間で山の北側を迂回することになったためである。この結果、「新しいハラール」として、新都市ディレ・ダワ (Dire Dawa) が1902年に建造された。
1995年には、都市とその周辺だけでひとつの地方行政体 (kilil) になった。また、ディレ・ダワからハラールへの給水パイプラインが、現在建設中である。
[編集] 観光
旧市街にはフェレス・マガラ広場を中心に、110のモスクとさらに多くの寺院が立ち並んでいる。特に、メドハネ・アレム大聖堂と16世紀のジャミ・モスクなどが有名である。旧市街には市場もある。
長い伝統としてハイエナへの餌付けも行われている。もともとは一年に一晩だったのだが、1960年代に観光客向けの見世物として、夜ごとに行われるようになった。
[編集] 世界遺産
[編集] 登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
- (5) 特に、不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例。
[編集] 脚注
- ^ CSA 2005 National Statistics, Table B.4
- ^ Richard R.K. Pankhurst, An Introduction to the Economic History of Ethiopia (London: Lalibela House, 1961), p. 267.
[編集] 参考文献
- この記事の初版は英語版ウィキペディアから翻訳されたもので、以下はそこに掲げられた参考文献である。
- Fritz Stuber, "Harar in Äthiopien - Hoffnungslosigkeit und Chancen der Stadterhaltung" (Harar in Ethiopia - The Hopelessness and Challenge of Urban Preservation), in: Die alte Stadt. Vierteljahreszeitschrift für Stadtgeschichte, Stadtsoziologie, Denkmalpflege und Stadtentwicklung (W. Kohlhammer Stuttgart Berlin Köln), Vol. 28, No. 4, 2001, ISSN 0170-9364, pp. 324-343, 14 ill.
[編集] 外部リンク
- Harari portal - Gateway to Harar and Harraris on the web
- Harari People -Harraris finder community
- Ethiopian Treasures - Harar City Wall
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