ノート:127

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本記事の記載基準について[編集]

みそがいさんによる二度の差し戻しを受けて、WP:DPを踏まえノートでの話題を追加しました。 特筆性の有無という点が差し戻しの理由として挙げられていますが、私は差し戻された内容に関していずれも特筆性が無いとは感じていません。

ソウルの経度に関する記述の場合、例えば50の記事ではアメリカの州の数、及びハワイ州が50番目の州であることが記述されており、このことからWikipediaの数字に関する記事内において地理分野の情報の記述は「ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません(WP:INDISCRIMINATE)」の内容に該当することは無いと考えます。

アメリカ国内の地理分野に関する情報が妥当であれば、韓国の首都に関する情報は削除要件に当たらないでしょうし、ごく一般的な常識に照らし合わせてもこれが過剰な記述に該当するとはとても思えません。 「東経127度上にある全ての都市に特筆性はありますか?」という点に関しても、その都市の経済規模や人口、また政治上の機能や役割から総合的に判断すべきと考えます。

また、俎上の節は「その他 127 に関連すること」であり、特定の分野に留まらない幅広い情報の記載が前提とされた節です。現状、節上の事柄は11個に過ぎず、記事自体の文量も長いわけではなく、現時点で情報を過度な基準を設けて削除していく段階には、よほどの条件がない限りまだ達していないと考えます。

マリオに関する記載は私の記述ではないので、特にこの情報に関する強い意見はありませんが、これに関してもわざわざ消すほどの事ではないのではないですか。WP:GAMEGUIDEを差し戻しの理由として挙げられていますが、本情報はゲームガイドではありません。また該当の方針は、ゲームの攻略法に関する情報を記載すべきではないという内容であり、ゲームの内容に関する情報を一切記載してはならないという方針ではありません。

みそがいさんが提示された特筆性に関するWP:N上の基準に関しても、本記事は「独立記事作成」のための基準であり、これらは既存記事の編集に関して適用される内容ではありません。無論、自明のものとして、記事内の基準に関しても特筆性は要求されるものと考えていますが、それは記事作成の際に求められるほど厳格に求められるものでもなければ客観的に判断することが容易なものでもありません。--月日に囚われた男会話2024年1月30日 (火) 02:01 (UTC)[返信]


月日に囚われた男さん、コメントありがとうございます。
まず、上記のコメントに関し私の意見を述べます。
  • WP:DPを踏まえ」
    • WP:DPは、記事そのものを削除することについての方針文書ですから、記事の内容の一部を削除することに関しては別の文書(例えば「WP:!」、「WP:NPOV」、「WP:V」、「WP:NOR」、「WP:SURPLUS」等)を参照して下さい。その上で、私が削除した記述はWP:!(特にWP:NOTDICDEFWP:NOTADVICEWP:IINFO)によります。
  • ソウルの経度に関する記述の場合、例えば50の記事ではアメリカの州の数、及びハワイ州が50番目の州であることが記述されており」
    • 他の記事の内容(アメリカの50州)については、月日に囚われた男さんの加筆部分が同等の特筆性あるいは重要性を有しているとは考えられません。既に要約欄に記したように「東経127度上にある全ての都市に特筆性があるか」という点に尽きます。ソウル特別市が東経127度上にあること自体が特筆性を有するのならば、それが「重要である」ことを裏付ける出典を示して下さい。現在アメリカには50州あり、ハワイが50番目であることはアメリカ合衆国の歴史的経緯があり、きちんと書かれている事項です。そのような裏付けが無いならば、単なる事実でしかなく、些末な情報といえます。また、WP:NOTDICDEF#2にも書かれていますが数の記事において「統計127度上にある」ことに「文化的あるいは数学的な意味」は無いと考えます。同様にプロジェクト:数学/数#文化的な事項を含める基準も参考にしてください。
  • 「(その他 127 に関連すること)節上の事柄は11個に過ぎず、記事自体の文量も長いわけではなく、現時点で情報を過度な基準を設けて削除していく段階には、よほどの条件がない限りまだ達していない」
    • 特筆すべき情報がなければ記載する必要はありません。掲載事項が少ないから無制限に記述を増やして良いというというのは理由になりません。
  • 「マリオに関する記載は・・・」
    • WP:GAMEGUIDE 特定のポイントの値や実績、時間制限、面、敵の種類、ゲーム中でのアクション、キャラクターの重量などの詳細な記述は不適切とみなされます」に書かれている通りですから削除が妥当です。
これらが削除に足る理由であると考えます。したがって、月日に囚われた男さんがこれらの意見に対して納得出来る改善をしないのであれば再び削除することをお伝えしておきます。
次にこの版[1]における要約欄の記述について意見を述べます。
  • 「ノートでの議論の呼びかけの拒絶、無断での差し戻しの確認より、荒らしと判断」
    • 私は本件に関し「ノートで議論を呼びかけ」られていませんし、要約欄で理由を書いた上で差し戻しましたから「無断」でもありません。
    • したがって「荒らしと判断」される理由もありません。
  • 「編集内容の要約欄は他のユーザーに質問を投げかける場ではない(WP:NOTFORUM)」
    • WP:NOTFORUM#4「公開討論の場 - ・・・議論を記事に持ち込まないでください」と書かれているように要約欄は記事の内容ではありませんから参照する文書が違います。
    • 要約欄についてはWP:ESです。その上で言えば、疑問形で記述したのはWP:ESによればいささか不適切であったと言わざるを得ず、単に「特筆性無し。ゲームガイド。適切な出典無し」とだけ書いておけばよかったと思います。この点は申し訳ありませんでした。編集回数が少ない登録ユーザーなので、その前の版の「特筆性の有無という、客観基準の用意されていない問題に関して、議論も経ずに個人的な視点のみで編集を行う事は慎むべきでしょう」という文言に対応すべく分かりやすく書いたつもりでした。
  • しかしながら、これらの理由で私を「荒らし」と呼ぶこと自体は「WP:NPA」「WP:CIV」に当たりますのでこの場で撤回願います。
以上、よろしくお願いします。--みそがい会話2024年1月31日 (水) 13:33 (UTC)[返信]
@みそがいさん返信ありがとうございます。
  • 「WP:DPは、記事そのものを削除することについての方針文書ですから、」
    • 失礼しました。私が意図していたページはWP:POINTでした。こちらに基づいて議論を開始させていただきました。
  • 「それが「重要である」ことを裏付ける出典」
    • ソウルは韓国の首都であると同時に、過去に韓国標準時の基準、また平壌時間の基準として何度も採用されてきました。日本の首都は東京ですが、標準時子午線は明石市に通ります。首都と標準時子午線の都市を兼任してきたという点で、韓国におけるソウルの地位は日本の例と異なることが分かります。古くは1434年に世宗大王がソウルに日時計を置き、1908年には同国初の標準時として[2]、韓国独立後の1954年には朝鮮戦争休戦後から7年に渡り採用され、韓国史画期のタイミングで標準時の基準として採用されていることが分かります。標準時と経度は直接的に関わっており、今後も法律の改正とその議論の途上で韓国や北朝鮮において再びソウルの経度及び標準時にスポットライトが当たる可能性があります。一例として、近年では2013年に趙明哲議員が標準時改正案を提出しました[3]。また、2000年に同国20名余りの議員が改正案を提出した際は、北朝鮮との統一後に標準時の変更が行われる可能性が政府によって示唆されました[4]。この事から、ソウルの経度が地理上の意味のみならず、政治的にも大きな役割を担っていることが分かるでしょう。
    • みそがいさんが紹介されたプロジェクト:数学/数の記事の中には「ひとつの基準は、その文化的な事項が、多くの人々によって重要であるかどうか」と示されています。また「もしもほとんどの沖縄県民がそう考えているとしたら」という一つの基準も示されております。1954年に韓国標準時がUTC+8:30に戻った際、韓国標準時より30分遅らせると、「荒れた」気候は消えますの記事によると朝鮮日報が「1月の出入り時刻が不正確であるだけでなく、精神的にも不愉快だったが、今回韓国標準子午線に戻ったのは『時間の解放』と呼ぶべき当然だ」と報じ、「当時の雰囲気は、韓国のソウルの土地に基づいて標準時を設定する措置について非常に肯定的でした。ソウル鍾路(チョンノ)のボシンガクをはじめ、全国の学校、教会、寺院が鐘やサイレンを鳴らして「時の解放」を祝った。」とあります。このことから、韓国人のほとんどがソウルとその標準時、経度に対して並々ならぬ思いを抱いている事が分かります。また先述した通りですが韓国標準時より30分遅らせると、「荒れた」気候は消えますでは、「日時計は朝鮮王朝の首都であるソウルで測られ、ソウルを自然に通過する東経127度を基準とした標準時が用いられました。」とはっきりと朝鮮王朝時代の標準時が東経127度であったことが書かれています。もちろんこれはイギリス基準の近代の国際標準時とは異なるものでしょうが、おそらくは官庁においての基準時刻がソウル東経127度に当たったことと考えられます。この事からソウルを通過する東経127度が朝鮮における原初的な標準時の基準線であったことが分かります。
    • また現代においても、私が本記事に加筆した通りNCT127というグループの127の数字は韓国ソウルの首都の経度に由来し[5]、ソウルが東経127度上にあることは前述してきた標準時とは切り離された形で独立して認知されており、また東経127度線がソウルを示す記号、象徴として親しまれていることも分かります。
  • 「文化的あるいは数学的な意味」は無い
    • 本記事が「文化的あるいは数学的な意味」に限定されるべきということに関して何か出典はありますか?後述の「制限」に関する問題にも関わるのでぜひ認識を共有していただきたいです。
  • 同様にプロジェクト:数学/数#文化的な事項を含める基準も参考にしてください。
    • このページは存じ上げなかったため一読させていただきました。ありがとうございます。気になった点として、既にご存知だと思いますが、上位項目のプロジェクト:数学に「これらは単なる提案であって、記事を書く際の迷いを取り除いて先に進めるようにするためのもので、これに従う義務があるというものではありません。」との記述があります。プロジェクト:数学/数のページはルールや制限を網羅したものではなく、「宗教」「スポーツ」「統計」という三者は、暫定的に挙げられた例示であってその三者のみに記載が限定されるということではないと考えています。
  • 「特筆すべき情報がなければ記載する必要はありません。掲載事項が少ないから無制限に記述を増やして良いというというのは理由になりません。」
    • みそがいさんの言う「制限」とは一体なんでしょうか。「特筆すべき情報である」という事が一つの制限基準だとすれば、満たしていると考えていますし、Wikipediaの方針とガイドラインにも合致していると考えています。
  • しかしながら、これらの理由で私を「荒らし」と呼ぶこと自体は「WP:NPA」「WP:CIV」に当たりますのでこの場で撤回願います。
    WP:POINTの基準に基づき、差し戻しの理由に納得できず、またやや強引さを感じたために勢い余ってみそがいさんの行為を荒らしと呼んでしまいました。行き過ぎた発言だったと思います。また冷静になって要約欄を見返すと私の要約欄での言動には非があったことを認めます。以上の二点に関して謝罪します。申し訳ありません。
長文になりましたが、以上が私からの返信となります。ソウルの経度の出典と根拠を述べました。
よろしくお願いします。--月日に囚われた男会話2024年2月7日 (水) 00:32 (UTC)[返信]
まず、提示された外部リンク記事(リンクの[2]から[4]や韓国語のページ)については、私は韓国語が理解できませんので月日に囚われた男さんのコメントから判断していることをご承知置き下さい。(それらのページがWikipediaにおける適切な出典かの判断もしていません)
  • その上で私が読み取れた所は、新たに月日に囚われた男さんが提示された韓国の標準時に関する各情報は、現時点での韓国標準時は東経127度とは関係無い、ということです。また東経127度を基準とした標準時は一部で議論されているものの、あくまで未定である、ということです。過去に東経127度が基準となっていたことがあるとはいえ、過去の出来事かつ現在は適用されていないことから本記事に記載する理由としては、既に述べた通りであるという考えは変わりません。なお、韓国標準時の記事が正確であるとすれば、過去の事実では東経127度ではなく東経127.5度を基準とするのであって、そもそも数値が違います。127.5度だから127という記事に記載するのは適切でしょうか。128でもいいのでしょうか。そういう意味でも不適切であると考えます。
  • NCT127の127がソウルの経度がら来ていることは日本語公式ページでも記載されているので私は問題にしていません。しかしそれは「ソウルの経度は東経127度である」という事項を本記事に記載する理由にはならず、NCT127が記載に値する音楽グループ(でかつ単独記事もある)ということに過ぎません。韓国の首都がソウル特別市であり、ソウル特別市が東経127度線上にあるということが事実なだけで、公式ページでもそれ以上でもそれ以下でも意味付けはありませんでした。
  • このような理由から現時点では「韓国のソウル特別市は東経127度線が通過する」という記述に、本記事に記載すべき文化的あるいは数学的な意味を要求するプロジェクト文書あるいはWP:!等に照らしてみれば特筆性は無いと言わざるを得ません(改めて示せば方針WP:NOTDICDEF#2「個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます」に満たない)。事実であることと特筆性があることは別で吟味することが必要です。そもそも127は数の記事であり、東経127度(線)は記事が別にあります。また結局、本ノートでも私が記した「東経127度上にある全ての都市に特筆性があるか」という点に集約されると考えます。そして実際に東経127度線にはそれらの記載(各都市)があります。これは記事そのものが扱っている内容が異なるからです。
  • プロジェクト文書には全ての記載基準を網羅しているわけではありませんから、「文化的な事項を含める基準」に書かれている文書および例示を鑑みて例示以外の事項についても判断すべきと考えます。その上で、月日に囚われた男さんが提示された情報をもって経度○○度線上にある都市を記載することは例示3件と横並びで記載判断するのは無理があると考えます。
  • 「「制限」とは一体なんでしょうか」について。その意味する所は上記のプロジェクト文書あるいはWP:!等ですから、それに照らしてみれば記載しようとしている事項は記載に制限が掛かる(=特筆性を有しない・記載に値しないと判断される)ということです。この事項(ソウル特別市と東経127度)に関しては特筆性の認識が異なるわけで、理由は既に述べた通りです。
  • 過去の発言については、今回の月日に囚われた男さんさんの発言を受け了といたしました。私も今後気をつけます。
以上、よろしくお願いします。--みそがい会話2024年2月10日 (土) 14:59 (UTC)[返信]


2週間待ちましたが、月日に囚われた男さんからは本件に関するコメントはありませんでした。したがってご理解いただけたものとして、ソウル特別市およびゲームソフトに関する編集は差し戻しました。当該編集に関し、それぞれ復帰させる場合にはWikipediaあるいはプロジェクトの関連文書に対して相応の根拠となる出典等を示し、まず本ノートでの議論を経てから行うように希望します。--みそがい会話2024年2月25日 (日) 10:23 (UTC)[返信]
二週間の返信の遅れ申し訳ないです。しかしソウルに東経127度線が通過するという情報に特筆性があるとの認識はやはり変わりません。私の主張を改めて整理します。

記述方針の基準として作成されたプロジェクト:数学/数ですが、これはみそがいさんもお認めになる通り、「全ての記載基準を網羅しているわけではありません」し、そこに強制力が宿るわけでもありません。
また、該当プロジェクトの参加者の節を確認すると、プロジェクトへの参加者が利用者:白駒さん、たった一人であることも分かります。最終更新も一年以上前であり、活発な議論が交わされているとは言い難い状況にあります。

参加者が少なく、記述も完全とは言えずこれでは編集するにあたって全面に依拠するに相応しいページとは言えません。議論自体が途上にあり、提示された「宗教」「スポーツ」「統計」から成る事項は共通点や整合性を欠き、それらは暫定的な大枠の基準というより、現時点で部分的に挙げられた物事の一面と判断することが妥当だと考えます。

事実として現時点で、プロジェクトページにある「宗教」「スポーツ」「統計」の三者の枠に収まらない文化的な事項に関する記述が、みそがいさん自身が編集された数の項目の中においてすら多数記載されている事にお気付きでしょうか。

その中の一部を引用します。
──────────(引用始め)────────────────────────────────────
──────────(引用終わり)───────────────────────────────────
これらはプロジェクトページの「宗教」「スポーツ」「統計」の三例の範疇に収まりません。が、特に異議が出ることもなく自然に久しく馴染んできたものばかりです。みそがいさん自身もこれら項目を編集しながら、私が引用した箇所に関して除去を行っておりません。

これはみそがいさん自身がプロジェクト:数学/数の記載は不十分であり、かつ死文化していることを実感している証拠ではありませんか。またある期間において、これらの記述は特筆性において問題が無いと利用者から判断されてきた結果でもあります。

ともすれば、みそがいさんがおっしゃるように「文書および例示を鑑みて例示以外の事項についても判断すべきと考え」るのではなく、プロジェクトページの文書自体が一面的で未完の状態にあると割り切って、既存の数の項目の生きた事例に着目して総合的に特筆性を推論し、導出する他ないと考えます。[注釈 8]

それらと照らし合わせてみた場合、例えば、
これらは、まさしく「ソウルを通過する経度」に類する地理情報ですが、異論無く掲載されています。中立性という観点から考えた際、日本語版だからと言って日本の都道府県の情報を外国の首都に関する情報よりも優先させる理由は無いはずですし、ハード島とマクドナルド諸島に至っては外国です。
一般的な常識から考えて、「ハード島とマクドナルド諸島のJIS国名コード」は記載されて、「ソウル経度」は記載すべきでないとする理由は無いでしょう。
他の先行記述との比較においても特筆性に関して全く同様に指摘可能です。
つまり、現在の数の項目の内容を特筆性の基準の一つとして考えた場合、該当記述は十分にその水準を満たしています。

もう一つの基準としてみそがいさんが示されたWP:NOTDICDEF#2にある文言においても、紹介される順序として、「文化的あるいは数学的な意味」と、文化面を建制順として前に序列していることからも、文化的な記述と数学的な記述が優先順位として並列、ないしは文化的な記述に分がある可能性さえ伺え、文化的記述の記載を制限する名分はないことが分かります。

また数字に関して、経度のような地理情報を包摂主義的に含めていくことには実際のメリットがあります。
数字の項目を閲覧するのは、なにもその数の数学的性質を確認する目的とは限りません。
ある人は、小説の登場人物の愛称やプロフィールなどを設定する上でなにかヒントを得ようと数の項目を読んでいるかもしれませんし、またある人は自分の部屋番号が何に関連しているか調べるために素朴な好奇心から数の項目を検索するかもしれません。
そのように偶発的に自分が知り得なかった情報と出会う機会が提供されることは百科事典の長所の一つだと思います。ある事柄にのみ興味があるのであれば、それに関する節にのみ着目することも可能です。また、このような情報は商業性に乏しい事もあって普通にネット検索してもそのようなページを見つけることは困難ですし、そのようなテーマが書籍化されることも稀です。だからこそWikipediaの記事に記載されることの意義があると考えます。

注釈

  1. ^ 地理ジャンル
  2. ^ 地理ジャンル
  3. ^ 項目名と数値が一致していない例
  4. ^ この項目のその他節に関してはほぼ全域に渡って「宗教」「スポーツ」「統計」の範疇に収まりません
  5. ^ 地理ジャンル
  6. ^ 地理ジャンル
  7. ^ これに至ってはネットスラング
  8. ^ 数の項目に関する特筆性を主題にしたものではないため注釈に記述しますが、もう一つの基準にあたるWP:NOTDICDEF#2にある文言においても、紹介される順序として、「文化的あるいは数学的な意味」と、文化面を建制順として前に序列していることからも、文化的な記述と数学的な記述が優先順位として並列、ないしは文化的な記述に分がある可能性さえ伺え、文化的記述の記載を制限する名分はないことが分かります。

--月日に囚われた男会話2024年2月26日 (月) 03:27 (UTC)[返信]

  • 「127.5度だから127という記事に記載するのは適切でしょうか。128でもいいのでしょうか。」
    • 近代において韓国で標準時子午線として採用されていたのは、127.5度ですが、ソウルには127度も通ります。128度は通りません。ですので、127の項目に記載しました。標準時子午線として採用されていた点は、ソウルが文化的特筆性を有する韓国の重要都市であることの根拠の一つであり、標準時子午線そのものを記載しているわけではないことは私の本項目への加筆部分をご覧になってもお分かりいただけるかと思います。
  • 「そもそも127は数の記事であり、東経127度(線)は記事が別にあります。」
    • 他の記事で言及されているという理由は、ある記事から記述を除去する理由にならないはずです。また、再び言及しますが、WP:NOTDICDEF#2に基けば数の記事は数学的性質に記述を限定される必要はないはずです。
  • 「東経127度上にある全ての都市に特筆性があるか」
    • 全ての都市に特筆性があるとは考えていません。私がソウルの経度について加筆したのは、「首都である点」「かつて標準時子午線が通っていた点」「世宗が水時計を設置して当時の標準時子午線にあたる都市機能を有していた点」の三点からソウルが一般の都市以上の特筆性を持つ都市だと判断したからです。全ての都市の経度を記載すべきとは考えません。東経127度上に位置する都市のうち、これら3つを満たすのはソウルだけです。首都であるという1点のみから判断してもソウル以外に該当する都市はありません。
長文となりましたが、返信は以上となります。--月日に囚われた男会話2024年2月26日 (月) 03:39 (UTC)[返信]


まず、私は他の整数記事における既記載事項に対してどのように対処しているかは、今回の記述に関してとは別ですので例示されても意味がありません。それはたまたま私が注目していなかったからだけかもしれませんし、私が対処しなければならない義務も負いません。追々必要と感じれば対処するかもしれません。そういう姿勢です。しかし今回は「新たに書き加えられた事項」でしたので、各ルールに則り対処したということです。
再度申し上げますが、月日に囚われた男さんがおっしゃる「ソウル特別市は東経127度上にある」「ソウル特別市は首都である」という地理的事実をもってしても、既に述べたように本記事に記載するWikipediaにおける特筆性を有するとは考えられません。また過去に韓国で定められた標準子午線は127.5度であり127度ではありませんから、127.5と127を同一視することは「WP:NOT#OR」に当たりますので不適切です。つまり、子午線に本記事記載の特筆性を求めることはそもそも不適切であるといえます。それに加え「ソウルが文化的特筆性を有する韓国の重要都市であることの根拠」という評価も月日に囚われた男さん自身のお考えであれば不適切です(単なる名称などと異なりますからそのように評価している適切な出典が必要です)。よって、これらをまとめれば単に「首都の経度は整数記事に記述すべきか」であるといえ、私は認められないという考えです。
挙げていただいた例もいわば「WP:IINFO」「WP:SURPLUS」に含まれる内容であるのかもしれません。それらが今現在残置されているから、本件も許容されるということにはなりません。「経度のような地理情報を包摂主義的に含めていくことには実際のメリットがあります」に対しては「東/西経○○度」「北/南緯○○度」という記事がありますので、必要ならばそちらに記述するのが節度ある百科事典なのではないでしょうか。「「ハード島とマクドナルド諸島のJIS国名コード」は記載されて、「ソウルの経度」は記載すべきでないとする理由は無い」に関しても、国名コードは国際的に規定された標準規格(つまり単なる事実ではなく文化的な事項と見做せる)であり、ソウルの経度(地理的事実)と同列で考えることには無理があります(ただしコードを許容するかということとは別です)。つまり「○○は○○に規定されている」と「○○は○○にある」はそもそも記述対象の特筆性が異なるものであると思います。(例えば、東経127度上にあるからソウルを首都にした、ということであれば何らかの文化的あるいは社会意図的な経緯があったという意味で特筆性を有すると見做せるのかもしれませんが、そうであっても本記事ではなく東経127度線記事に記述すべきことでしょう)
「偶発的に自分が知り得なかった情報と出会う機会が提供されることは百科事典の長所の一つ」というお考えは否定するものではありません。しかし歯止めがなければ際限なく記述が増えていく可能性があり、そのためにWikipediaの方針や個別プロジェクト文書が存在してるという考えは既に述べた通りです。さらにこれは関連情報数の多寡には関係ありません。
またプロジェクト文書が議論途上である、一面的で未完の状態という認識にも問題があります。既に収束した議題に関しては、それが実効性のあるものとして判断するのが当然でしょう。その上で申し上げれば、今回の件に関し、都市の「経度」「緯度」について記載事項として許容するか否かを議題として提示し議論を経るということが必要なのかもしれません。少なくとも私は既に反対の立場を取っていますから敢えて提示することはありません。月日に囚われた男さんから提示するのがよいでしょう。プロジェクト参加を表明しているユーザーが1名だけであることは関係ありません。上位のプロジェクトには多数の参加表明者がいますし、参加表明されていない人でもプロジェクトの内容には(Wikipediaのルールに反しない限り)従うべきでしょう(WP:PROJ)。私は参加表明をしていませんが議論には必要に応じて参加したことがあります。なお「宗教」「スポーツ」「統計」の三例に関しては「プロジェクト:数学/数#文化的な事項を含める基準」節における例示であり、この3分野以外の記述は認めないということではないでしょう。あくまで基本は「文化的な事項」を記載する上での特筆性を吟味するとしている節冒頭の文章にあると考えるべきです。
以上、よろしくお願いします。--みそがい会話2024年2月27日 (火) 09:46 (UTC)[返信]
>まず、私は他の整数記事における既記載事項に対してどのように対処しているかは、今回の記述に関してとは別ですので例示されても意味がありません。
  • おっしゃる通り、みそがいさんの過去の編集履歴のみを以て、みそがいさんの掲載基準を確定的に論ずることは性急かと思いますが、しかし類推する材料とはなります。属人的な議論を脱して、何か掲載基準の客観的な手掛かりとなるものを導ければと考えて、例示させていただいたまでです。みそがいさんは今後対処される可能性を示されましたが、私の例示はみそがいさんご本人のみならず、数多くの利用者の目に触れてきました。そして、彼らの内的基準をくぐり抜けてその承認を受けてきた記述にあたります。ですので、仮にみそがいさんが、私の例示に対して除去意識をお持ちであったとしても、やはり私の例示した内容は、数の項目に掲載する基準としての一つの叩き台として目安にして問題ないのではと考えます。逆に、ここに同意していただけないとなると、数の項目に関する一つの基準が、みそがいさんと私の二人の極めて個人的で輪郭の無い意見のすり合わせの結果のみによって事例的に結論付けられてしまいかねません。そのような事態は避けたいと考えております。
>よって、これらをまとめれば単に「首都の経度は整数記事に記述すべきか」であるといえ、私は認められないという考えです。
  • 私としてもやはり、そこが最も重要な論点となってくると考えています。
>~必要ならばそちらに記述するのが節度ある百科事典なのではないでしょうか。
  • 個人的にはここの文面に青天の霹靂とも言えるようなかなり強い衝撃を受けました。私がこれまで信じてきた一般的な常識と照らし合わせた際、経度や緯度のような普遍的で客観的な地理情報を記載することが百科事典の節度を損なう事に繋がると指摘されるとは予想だにもしていませんでした。ある国の首都の経度や緯度などの情報が百科事典の節度を損なうことはありません。仮に、それが複数の項目に渡って記載されていたとしても、私は重要な情報や知識は、ある特定の項目に閉ざされる事なく広く横断的に記述されて然るべきだと思います。それが典型的な百科事典のごく普通の在り方だと思いますし、実際上のWikipediaの歴史でもありますし、内部リンクという機能も、ある概念や用語が項目を跨いで繰り返し記載されることを念頭に置いて用意された機能です。そうすることで多くの人が有意義な知識に触れる機会が増え、それらが周知され学習されるキッカケ作りにも繋がるはずです。
  • 私が論証するまでもありませんが、経度や緯度に基づくシステムはその確立に長い試行錯誤の歴史と、航海技術や測地学などの成果の結集とも言える労苦の末に、ようやく完成し、1884年以来ほとんど変更されることなく人類社会を力強く支えてきました。おそらくこれからも大幅な変更は今後数十年、あるいは数百年に渡ってないのではないかと思います。経度、緯度などあって当たり前のものだとふとその恩恵を忘れてしまいますが、漢籍に記された地理表記法の解釈の揺らぎ、あるいは不正確さによって、これだけ科学が進歩した現代においてさえも今も尚、国を二分するような邪馬台国の位置に関する議論に収束の兆しが見えないことを考えても、たった二つの数値から地球上のどの地点も指定可能な現在の経度、緯度からなる座標表記法がいかに画期的な叡知であるかはお分かりいただけるかと思います。現在でも、例えばグーグルマップでは現役で当然のように緯度、経度による座標指定法が採用されています。GPSがどれだけ発達しても、座標の表記法は現役のままということです。
  • つまり、経度や緯度に関する情報は、百科事典において欠かすことのできない有意義な知識であり、それらに関して無暗に制約をかける必要はないということです。ネットスラングや、あるいはGDPや人口などの短期間で変動するようなデータの類ならいざ知らず、百年以上に渡って用いられ続け、今後も用いられ続ける可能性が高く、またグローバルに地球上のどこでも普遍的に用いられている指標を記載することを拒む方針やガイドライン、プロジェクトルールはどこにもありません。
>月日に囚われた男さんから提示するのがよいでしょう。
  • ご提案に従って、考えがまとまり次第、時機を見て近いうちにプロジェクトページのノートに書き込みを行おうと思います。
  • 現時点では、経度や緯度に関する記述は「東経127度線は東アジア東部周辺を南北に結び、韓国の首都ソウルなどを通過する。西経127度線は北米西部周辺を南北に結ぶ」、あるいは単に「東経127度線は韓国の首都ソウルなどを通過する」と経度や緯度の個別ページへの内部リンクを貼って、興味に応じて遷移を促す形で表記することを一つのフォーマットとして考えております(あるいは記述フォーマットまではプロジェクトページで指定する必要はないかもしくは例示に留めた方が良いかもしれません)。記載都市の基準としては首都であること、あるいは標準時子午線の通る都市として象徴的に広まっていること(明石市のような)、あるいはニューヨークのように世界都市であることなど複数設けることを考えています。
以上となります。よろしくお願いいたします。--月日に囚われた男会話2024年2月28日 (水) 01:51 (UTC)[返信]


繰り返しになりますが、Wikipediaにおける各種方針やガイドライン、プロジェクト文書が記事掲載の基準でありWikipediaという百科事典の節度であると考えられます。私が独自に掲載基準を決めているわけではありませんし、輪郭の無い意見でもありません。既記載事項がこれらのルールに則っているかどうかは不特定多数の編集者が参加するWikipediaの特性上不確定であることは否定しません。注目されていなければ誰も対処しませんので野放しになります。周りがスピード違反をしているからスピード違反が許容されるのではなく、それは見逃されているだけです。しかし、ルールに抵触する記述が削除されてもルール上問題となりません。月日に囚われた男さんが例示した記述が他の編集者により問題ありと判断されれば削除されても、ルール上適切であれば致し方ないといえます。同様に、月日に囚われた男さんのお考えにより適切な理由を提示して削除されれば良いかと思います。
「経度や緯度のような普遍的で客観的な地理情報を記載することが百科事典の節度を損なう事に繋がると指摘」については、「整数記事」ではなく「経度」「緯度」の記事で行ってくださいという意味で述べていますから私のコメントの流れを再度確認して下さい。月日に囚われた男さんは「首都(あるいは著名な?都市)」との関係を強調していますが、それは既に経度の記事で記載されていますし、整数自体と都市の文化的関係でも名称に含んでいるものでもありません。また月日に囚われた男さんによる経度と都市の関係に文化的な意味があるといいう説明に対し私は否定しています。よって整数記事における当該記述はWikipediaの方針に則っていないと考えますし、今回の月日に囚われた男さんのコメントにも私が否定した論拠を覆す説明はありませんでした。
「経度や緯度に関する情報は、百科事典において欠かすことのできない有意義な知識」であることは私もそう思います。しかし上述の通り、それらの情報は既に経度/緯度の各記事にありますし、必要であれば適切な出典を提示してそれらの記事に補記すればよいと考えます。Wikipediaは編集自由度の高い百科事典プロジェクトではありますが、「それ(整数記事に都市の経度を記載すること)が典型的な百科事典のごく普通の在り方だ」とおっしゃるならば、その百科事典がどの出版社の何なのかを明らかにして下さい。同時に「経度/緯度というシステム自体の文化的意味」ではなくWikipediaが必要とする「整数記事と都市の経度の関係における文化的意味」を立証する根拠を出して下さい。私は各種の方針やガイドラインを読んだ上で、月日に囚われた男さんからいただいたコメントに対して対処方法を示しているつもりです。その上で、提案の際にはこれらの点に鑑みてなされるよう希望する次第です。
以上、よろしくお願いします。--みそがい会話2024年2月29日 (木) 15:34 (UTC)[返信]
>Wikipediaにおける各種方針やガイドライン、プロジェクト文書が記事掲載の基準でありWikipediaという百科事典の節度であると考えられます。
  • で、あれば具体的になんの文言に対してどう違反しているのか、その点に関して粘り強い論証の責任をみそがいさんは負う必要があると考えます。ただ結論としてポンと反対しますという立場を採って、「どう違反しているのか」に対して深く言及する負担を追わず、ただガイドラインやプロジェクト文書のURLを独り歩きさせるだけでは、建設的な議論が行われているとは言えず、進展の見込みがありません。違反していると考えるのであれば、あるいは数の項目に関してガイドラインやプロジェクト文書から読み取れるあるべき姿を捉えているのであれば、その認識をつまびらかに真摯に開陳することによって、私の方としても「ではそれに基づいて私はこのように記述しましょうか」と新たな提案や落としどころを見つけることができます。
  • ガイドラインやプロジェクト文書を参照することは決して間違った行為ではありませんが、それらに違反しているという主張はみそがいさん自身の、内在的な、また固有の主張なのですから、その点に関してはみそがいさん自身が責任を以てその裏付けを積極的に行ってください。もう既に、その点に関して説明を行っているとおっしゃられるかもしれませんが、現時点で結果は出ていないのですから、自分の主張(都市の経度や緯度に関する記述がガイドラインやプロジェクト文書に違反しているという主張)をより広範に、あるいは異なる角度から、改めて提示しなおしてください。でないと、「私はガイドラインやプロジェクト文書に違反しているとは全く思いません。むしろ除去行為こそが、ガイドラインやプロジェクト文書に符合する記述の隠滅にあたるのでは」と対応することしかできません。水掛け論になります。自身が「ある記述を除去した(またしようとしている)」という一つの立場を支持していることを素直にお認めになって、その行為の正当性の論証に対してオープンになってください。
>周りがスピード違反をしているからスピード違反が許容されるのではなく、それは見逃されているだけです。
  • Wikipediaの記事の基準に関する論議は、速度制限のように定量的かつ簡易に判断できる単純なものではありません。スピード違反の比喩そのものが、物事を極度に単純化しています。Wikipediaのルールにおいては、具体的な分かりやすい制限数値が設定されているわけでもありませんし、見やすく色分けされた視認性の高いLED式信号機もついていません。抽象的で多岐に解釈を行うことができるコンセプトが用意されているのみで、実際の運用はよりボトムアップ的で民主的に、利用者に委ねられているわけです。ですから、それがスピード違反だと訴えるのであれば、そこに関して当事者意識を持ってその点に関して自らの言葉で語る必要があるわけです。私としては「私の記述も私が例示した記述もいずれも、「個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます。(WP:NOTDICDEF)」によって肯定され、何に対しても違反しないと答えることができるのみです。あとはただ反対しているみそがいさんが一人ぽつんと残されているだけです。PJ:NUMに関しては沖縄県民の比喩によって説明される基準に対して、経度や緯度に関する知識がいかに時間的にも空間的にも普遍的であるかが適合要件になりますし、WP:NOTDICDEFに関しては述べた通りです。いずれにも、「他の記事で言及されている場合は数の項目に記述してはいけない」などとは一言も述べられておりません。つまりは、これは方針やガイドライン、プロジェクト文書に立脚しません。特に、文化事項に関してはただ消極的に「違反しない」というだけではなく「書き加えられる価値はあるでしょう」「許容されます」と積極的に認められているわけです。これを覆すにはそれなりの論拠が必要ですが、未だそれは確認できません。
>Wikipediaが必要とする「整数記事と都市の経度の関係における文化的意味」を立証する根拠を出して下さい。
  • そんなことはどこにも書かれていません。みそがいさんの論拠はほとんど一貫して方針やガイドライン、プロジェクト文書に基づくと考えていましたが、この点に関しては異なるのでしょうか。また「経度/緯度というシステム自体の文化的意味」と「整数記事と都市の経度の関係における文化的意味」の相違も不明瞭です。文書には「整数記事に関する記述は整数記事との関係において文化的意味を持つべし」などとトートロジー的とも言えるような文言は無いはずです。これらはシンプルな思い込み、あるいは個人的なドグマと言えるのではないですか。少なくともWikipediaを主語とした文にするには違和感を拭い去ることができません。
  • 今回の返信の結論的に、一つ私からの邪推と言いますか、懸念に基づいた念押しをさせていただきますが、数の項目というのは数学的性質の記述において独占的な項目では全くありません。数学的記述が主で、文化的記述が従であるわけですらないということはみそがいさん自身が提示されたWP:NOTDICDEFによって裏付けられます。ですので、文化的事項の記述は全く問題なく、むしろ歓迎されるはずで、圧迫される必要も規制される必要もありません。この点について再度確認しておきます。
以上となります。よろしくお願いします。--月日に囚われた男会話2024年3月1日 (金) 05:47 (UTC)[返信]

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「具体的になんの文言に対してどう違反しているのか」ということがお分かりいただけていないようなので、繰り返しになり申し訳ありませんが再度私の考えをまとめます。(個々のコメントに対してはとりあえずここではしません)

  • 記載しようとしている文章
    • 「韓国のソウル特別市は東経127度線が通過する」
  • Wikipediaの方針
    • WP:NOTDICDEF#2 -「個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます」

月日に囚われた男さんが記載しようとした文章において、上記の方針のうち「数学的な意味」は有しないといえます。したがって、文化的な意味を解説しているかという点について以下述べます。

  • 「韓国のソウル特別市」と「東経127度線が通過する」
    • 地理的な事実である
    • 両者間の文化的な意味の解説ではない
  • 月日に囚われた男さんが提示した「韓国の子午線が東経127度であった時期がある」という意味づけ
    • 一時期東経127.5度であったが127度ではない
    • 127.5を127と同一視することは独自研究である
    • 現在は韓国標準時の基準は東経135度である
    • よって文化的解説ではない
  • 「ソウル特別市は韓国の首都である」
    • 事実であるが、127という数値と韓国の首都であることには文化的な関係は無い
    • 東経127度線が通過することと首都であることに文化的な関係は無い
  • 「緯度/経度」による座標表示は普遍的である
    • それ自体に異論はありません
    • ただし「緯度/経度」(座標)とそれを用いる都市の場所の間に文化的な意味は無い
    • よって文化的な意味の解説ではない

これらのことから、記載しようとする文章は文化的意味を解説したものではありませんからWikipediaのルール(WP:NOTDICDEF#2)を満たしておらず許容されないと判断します。つまりルール上違反しているので拒絶されます。(ここでいう文化的意味とは、因果関係を有する事項のことを指していると考えています)

月日に囚われた男さんからは「ソウル特別市は韓国の首都である」「ソウル特別市は東経127度線が通過する」という事実以外に、この2つの関係が「文化的意味」を持っているという論が示されていません。必要なのはそれを示すことです。事実は必ずしも整数記事においては文化的な事項であると認識されるわけではありません。Wikipediaのルールに反する記述が既にあるから自分の記述も許容されるものでもありません。その点を理解して下さい。「それらに違反しているという主張はみそがいさん自身の、内在的な、また固有の主張」とおっしゃる前に「ルールに反していないという根拠」を具体的に示して下さい。

なお「文化的あるいは数学的な意味」という文の解釈において「文化的」が「数学的」よりも前にあるので「文化的」記述は同等あるいは優先されるというお考えは、数記事そのものの記述構造の根幹に関わるものです。つまり、整数記事において、まず文化的な事項を記述し、次に数値の数学的特徴を記すという大転換に繋がるとも言え、プロジェクト文書に示されている整数記事の構造を否定するものとも考えられます。そのような意図があるのであれば然るべき場所で議論の提示をして下さい。私は全くそう考えてはいません。

--みそがい会話2024年3月1日 (金) 16:20 (UTC)[返信]

今回の返信には正直、失望しました。みそがいさんが議論を前向きに進めることを正式に放棄したかのような、なにか決定的なものが顕わとなった返信だったと思います。個人的には投稿ブロック騒ぎに手をかけたな、と。
以下、問題を適示します。

>「具体的になんの文言に対してどう違反しているのか」ということがお分かりいただけていない
  • 事実誤認、捏造。
  • 事実確認が行えていない(私の返信を読んでいない、読めていない、読む気が無い)。あるいは読み取った上でそれを作為的にすり替えようと企てている。
  • あなたが説明責任を負う事は、Wikipedia:説明責任「利用者は自身の編集について他の利用者に対し、説明責任を果たすことが望まれています。」とあるように、差し戻しを行った以上、避けては通れぬ義務です。「違反している」という主張はあなたの中でのみ成立する事実であって、既成事実化して正当化を謀らないこと。

>繰り返しになり申し訳ありませんが
  • WP:DR#2「互いの意見の理解を積み重ね、和解に努め、(中略)合意することを目指してください。」とあります。私は合意形成のために、「認識をつまびらかに真摯に開陳すること」「自分の主張(中略)をより広範に、あるいは異なる角度から、改めて提示しなお」すことを求めたはずです。それは「私の方としても「ではそれに基づいて私はこのように記述しましょうか」と新たな提案や落としどころを見つけることができ」るからです。説明済みです。
  • 求められているのは議論を進めるための新たな論拠、全貌のはずです。この点を自覚的に無視して同じ主張を繰り返すのは、議論を進展させて合意形成を行う意志が弱いからでは。

>(個々のコメントに対してはとりあえずここではしません)
  • これは不味いです。対話拒否です。しっかりと返信してください。個々のコメントに対して直接的な反応を示さず、求められた回答に反する文面をとりあえず返すというのは議論から逃走していると見なされても仕方ないです。「時間が無い」は言い訳になりません。時間を工面してからちゃんと返信してください。拙速な返信は議論を崩壊させます。
  • Wikipedia:投稿ブロックの方針コミュニティを消耗させる利用者節に、ブロックが行われる理由として「対話拒否」が挙げられています。ご注意を。

さて、みそがいさんが羅列された肝心要の”論拠”ですが、(新規性が無いという点を除いても)個人的にはかなり味気無いというか、物足りないという印象を拭えません。
  • まず第一に、根本問題として、羅列された”論拠”は全てノートページでの私の主張に対する反論という形式で提示されています。しかし、差し戻しの論拠というのは差し戻しを行う際には既に本来用意されていたはずで、みそがいさんによる差し戻し後に行われたノートページの私の発言ありきの論拠というのは、前後関係において矛盾します。本来的な論拠を示してください。
  • 議論の成果が全て脱落している。「よって、これらをまとめれば単に「首都の経度は整数記事に記述すべきか」であるといえ」とはみそがいさんによる言葉です。私としてもやはり、そこが最も重要な論点となってくると考えています。と確かに同意しました。
  • つまり掘り下げるべくは、ある国の首都の経度情報が記述すべき文化事項にあたるか否かという論点であったはずで、これに対して「首都の経度情報は文化的意味を解説するものではない」とする真に驚嘆すべき大胆な主張の論証が本来であれば今回の返信で行われるはずでした。しかし、これに関する言及は以下のたった二行でした。
>事実であるが、127という数値と韓国の首都であることには文化的な関係は無い
>東経127度線が通過することと首都であることに文化的な関係は無い
「文化的意味を解説しているかどうか」という文書上の説明が、「(首都と数値や経度との)文化的な関係」にすり替えられています(このような手癖は控えていただきたい)。記述中の二要素に文化的な内部関係があるか否かではなく、記述そのものが文化的意味の解説になっているか否か、ここが焦点です。
  • WP:規則の悪用「方針が本来意図しない事を、勝手な解釈で押し付ける。また、コミュニティが通常その方針を適用するような基準とは異なる、自らの特異な見解を強要する。」
また、
>ただし「緯度/経度」(座標)とそれを用いる都市の場所の間に文化的な意味は無い
とありますが、やはりここに関しても議論を振り出しに戻すかのような主張が見られます。私はNCT127やグーグルマップの例示を行ったはずです。経度(緯度)と都市にまつわる文化的事例が足りないというのであれば、本初子午線(や赤道)に標が置かれ観光地化されている点や、標準時子午線の基準として経度が採用されている点(そして日本でも明石市に天文科学館があり、東経135度は公式情報でもいたるところで強調される)など枚挙に暇がありません。

>記載しようとする文章は文化的意味を解説したものではありませんからWikipediaのルール(WP:NOTDICDEF#2)を満たしておらず許容されないと判断します
  • 論証不成立です。致命的な点を指摘させていただきますが、該当文書は例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます。)」であり、許容される例が最小限二つ例示されただけでありそれに当てはまらない記述を排他的に全面禁止する文言ではありません。ですので仮に、二例に当てはまらなかったとしても、それは違反性の証明になりません。そもそもみそがいさんが一意に根拠とされてきた件の該当文書は、「ウィキペディアは辞書ではありません」という節の2つ目の「辞書の項目」に関する説明の例に過ぎず、数の項目に関する規定を定めた絶対的な不文律というわけでもありません。別の事項を分かりやすく説明するための例です。この点に関して誤解があるのではないですか。Wikipediaの記述に関する最も最優先されるべき基準は「特筆性」の有無だと思います。
--月日に囚われた男会話2024年3月3日 (日) 16:51 (UTC)[返信]
>この2つの関係が「文化的意味」を持っているという論が示されていません。
  • 前述の通りです。「関係」ってどこから出てきたんですか。

>「ルールに反していないという根拠」を具体的に示して下さい。
  • 意味不明です。差し戻したのはみそがいさんなので、みそがいさんが「ルールに反している根拠」を提示するのが筋のはず。それが提示できなければ差し戻しの正当性を欠く、というだけです。

私の立場から言うべくは、「首都(あるいはソウル)の経度情報には特筆性がある」という点のみだと思います(その特筆性に関しては本ノートページにおいて再三に渡って説明してきたので、言及するのであれば議論を振り出しに戻さず必ずそれらを踏まえて行ってください)。
以上となります。よろしくお願いします。--月日に囚われた男会話2024年3月3日 (日) 17:03 (UTC)[返信]


先ず、印象操作のようなコメントをされるのはおやめになった方がいいと思います。すでに本議論の当初に「WP:NPA」「WP:CIV」を示し、月日に囚われた男さんはその文書を確認したはずです。
  • 「議論を前向きに進めることを正式に放棄したかのような」「投稿ブロック騒ぎに手をかけたな」「方針が本来意図しない事を、勝手な解釈で押し付ける」「個々のコメントに対して直接的な反応を示さず、求められた回答に反する文面をとりあえず返す」「作為的にすり替えようと企てている」
    • という一方的な見解をもって私に対してコミュニティを消耗させるとか、対話拒否だとかいうコメントをされる前に、ご自身の発言を振り返ってみてはいかがでしょうか。あとで説明しますが「例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば」の解釈も随分なものです。私の2月10日のコメントからから2週間以上返信されなかった月日に囚われた男さんがご自身の行動を顧みず私が対話拒否していると評されるのは如何なものかと思います。また「それ(数値記事に都市の緯度経度を記述すること)が典型的な百科事典のごく普通の在り方」という月日に囚われた男さんの極めて重要な認識の発言に対する私の事実確認のコメントに返信されましたか。そのような状態にあって、私は月日に囚われた男さんに対して同様の発言をしたでしょうか。議論の相手にそのような言動をするのは冷静な態度とは全く思えません。
  • 「事実誤認、捏造」という認識は、私が記した前回の内容についてそれぞれどこが事実誤認なのか説明して下さい。「「ルールに反している根拠」を提示するのが筋のはず」と言われますが、既にそういう説明をしています。月日に囚われた男さんが示した主張に対する反論も含みますから、当初の削除理由である「特筆性が無い」に対しその詳細が当然追加されています。
  • 私は月日に囚われた男さんが本記事に加筆しようとした文章が不適切であることについて一貫して述べています。
  • 私に説明責任を求める前に、月日に囚われた男さんが自身の加筆内容に対して適切な説明をなさって下さい。これまでの議論において納得出来る内容が無いので私は問題点を明らかにしてWikipediaのルールに則っていないことを説明しています。「首都の経度は整数記事に記述すべきか」ということは特筆性を有するのかどうかを見極めることであり、「Wikipediaの記述に関する最も最優先されるべき基準は「特筆性」の有無」とおっしゃる通りで、つまりWP:NOTDICDEF#2(およびWP:NOTADVICEWP:IINFOなど)に示されていることを判断することです。これも当初から述べています。
  • 「記述中の二要素に文化的な内部関係があるか否かではなく、記述そのものが文化的意味の解説になっているか否か、ここが焦点です」
    • そもそも「ソウル特別市は東経127度線が通過する」という文章にどのような文化的な意味(特筆性)を読み取ればいいのでしょうか。
    • 月日に囚われた男さんが根拠としているGoogleマップで経度緯度が用いられているという点については、事実ではあるが用いられる対象に自動的に特筆性をもたらすものではありません(地球上の経度緯度情報全てが特筆性を有するという論ならば、それはWP:IINFOに当たるでしょう)。NCT127はグループ名に127という数値が含まれ本記事と一致するので特筆性の一端を有する場合があるといえるでしょう。ただし、それによってソウルの経度に特筆性が生じるとするのは独自研究(「何が除外されるか」節、「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」節)に該当し、個別の情報を合成して新しく特筆性(評価)を生じさせることに相当しますから不適切です。韓国の子午線に関しては過去の一時期127.5度であったものの127度ではないのですが、未だにこの2つの数値を同一視できる根拠が分かりません。子午線を文化的意味付けで用いることは不適切であると再三説明しています。
  • 数値自体と都市の間に直接的な関係が無く、都市の位置情報自体に特段の特筆性はありません。東経127度が韓国の子午線であるという文化的意味も否定しました。残るのは韓国の首都であるということだけです。韓国の首都に経度情報を付加すると文化的意味が発生するのでしょうか。緯度経度システム自体が歴史文化的意味を有することは否定しませんが、それを用いれば文化的意味が生じるということはありません。ソウルの経度情報は事実の提示だけです。二要素の関係も文章全体も文化的意味を見いだせませんからルールに鑑みれば整数記事に記述すべきではない、というのが私の考えです。根本的なことなので当然繰り返しの説明になります。先ずそれを認識してください。
  • 月日に囚われた男さんは「文化的意味がある」と繰り返し主張しますが、結局具体的に他者を納得させる意味付けも裏付けも明らかではありません。ご自身が私に要求している「広範に、あるいは異なる角度からの提示」もありません。
  • Wikipediaでは加筆する側に先ず加筆の根拠が求められます(WP:V)。加筆内容がそもそもルール上不適切なものについて削除するのは認められた行為ですし、その理由も述べています。
  • 他の記事で記述されているから本記事に記述できないのではなく、本記事における特筆性を満たしていないからです。東経127度線には地理的事実の記述は必要です。なぜなら地理に関する記事だからです。
  • 私の認識が間違っているというならば、文章から読み取れる「文化的意味」をはっきり提示して下さい。私が否定した緯度経度の特筆性やNCT127以外でです。なぜ「首都(あるいはソウル)の経度情報には特筆性がある」のかという理由です。
  • 「私の方としても・・・新たな提案や落としどころを見つける」という案に私は直接的に手助けしなければならない義務はありません。既に月日に囚われた男さんは「考えがまとまり次第、時機を見て近いうちにプロジェクトページのノートに書き込みを行おうと思います」と発言していますから、その考えについてはこの場で継続するものではないと考えています。
  • また「数字に関して、経度のような地理情報を包摂主義的に含めていくことには実際のメリットがあります」というお考えはWikipediaの方針・ガイドラインほかに規定されているものではありませんので、実施したいのであれば適した場所で提案してください。
補足
  • 「例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます」という方針文書の解釈については、私は「例えば「個々の数に関する記事」は」と一区切りになり、1つの例として「数に関する記事」を説明するための「例えば」であると考えます。(「例えばAの記事はBあるいはCの解説であれば許容され、Dの記事はEあるいはFの解説であれば許容される」と例を増やした文章にすれば明らかです。)
  • 月日に囚われた男さんの解釈のように「許容される例が最小限二つ例示されたのではない」とするならば、「個々の数に関する記事は、それが例えば文化的あるいは数学的な意味などを解説するならば」という含みを持たせた文章になるでしょう。このような理由から、「致命的な点(私の解釈の誤り)」という論は不適切な解釈であると言わざるを得ません。
--みそがい会話2024年3月6日 (水) 14:13 (UTC)[返信]
  • ☆前回の返信で対話拒否を指摘したにも関わらず、今回の返信でも「対話拒否を行う言い訳」しか確認できませんでした。
もう一度、指摘します。あなたは対話拒否を行っています。私の前々回の返信に対する建設的な回答を行ってください。
自身にとって不都合な返信は無視し、ひたすら相手に論拠を要求し、提出された論拠を改善案や妥協点も模索せず頑なに拒否し続けるという低カロリーな振る舞いはやはりコミュニティの消耗行為と言えます。ましてや、自分の方からは除去理由を説明しない。説明を要求されても対話拒否ではぐらかす。何か説明できない理由でもあるんですか?
私には、やはり相手にのみ根拠を要求し続け、出された根拠には首を振らず、自身からは根拠を提示せず、相手が一週間以上放置するという低カロリー戦術にテクニカルに持ち込もうと企てているとしか解釈できません。それくらい、除去理由を説明せず、合意に消極的であるということは罪深いことだと思います。そうではないと言い張るのであれば、せめて対話拒否を改め、都合の悪い意見でも心を開いて向き合ってください。対話拒否に関する指摘は二度目です。私の返信、特に前々回の返信に対する返信を行えないという態度を改めてください。

>ご自身の発言を振り返ってみてはいかがでしょうか
  • ☆典型的なお前だって論法に該当します。誤謬です。私にフォーカスを当てることで、自身に当てられたスポットライトから逃れようとする、またしても低カロリーモードに持ち込もうとしています。私の言動と、あなたのガイドライン違反は切り離して考えるべきですし、私の行為と自身の違反を相殺できると考えている時点で、ガイドラインを心の底で軽視していると言えます。確かに私はある段階で二週間ほど返信が遅れましたが、みそがいさんはこれを受けて返信を差し戻しましたし、私もそこに関してまだ留保しています。いわば一つの責任、ケジメを背負ったわけです。また、該当時点で私は謝罪をした上で、議論に復帰しています。みそがいさんもそれを受け入れたはずです。それは該当時点で、議論の再開に別状無いと考えたからでしょう。一方で、みそがいさんには未だに申し開きも反省の色も見られません。議論の手法自体に問題行動がみられるというのは、ただ返信が遅れるという事態とは全く異なる質的な課題が見られます。今後も、このような手法で、つまり議論が発生しても相手の都合の悪い質問を無視した上で議論が空転し時間ばかり費やすという事態を方々で招いて改善が見られないのであれば、やはりコミュニティに害があると結論せざるを得ません。
また今になって私の過去の言動を例示した時点で、やはり自分自身が対話拒否を行ったという自覚があるわけです。にも関わらず謝罪できない、反省できない、今後は行わないという言質を避けるというのはやはり返信スルーによる低カロリーなやり口で今後も自分の主張を腕づくで解決する選択肢を残そうとしているのではないかと思います。

>「それ(数値記事に都市の緯度経度を記述すること)が典型的な百科事典のごく普通の在り方」という月日に囚われた男さんの極めて重要な認識の発言に対する私の事実確認のコメントに返信されましたか。
  • その発言も私の中では引っかかっていた箇所です。みそがいさんの今回の返信にある「印象操作」そのものです。引用する際は、引用部にできる限り過不足なく原文を尊重した上で行うべきだと思います。みそがいさんの引用ではカッコ内に私が主張していない事実がでっち上げられていました。また、Wikipedia外の一般的な事典の在り方を問うことは私の主論ではなく、傍証であったため、言い間違いなど本題に影響ない些末なことは無視し、要点に集中して意見するに基づいて議論の脱線を防ぐ上で、本題を尊重する形で省きました。ですので、そこに対する回答が必要だということであれば、「数値記事に都市の緯度経度を記述すること」を普通の在り方だとは発言していない、となります。

今回の返信においても、やはり「(肝心要であるにも関わらず)不都合な指摘は避ける(あるいは短文ではぐらかす)」という傾向が確認できます。このまま議論を進めると議論が空転するために、今一度指摘させていただきます。

  • 「文化的意味を解説しているかどうか」という文書上の説明が、「(首都と数値や経度との)文化的な関係」にすり替えられています」に対する回答が不十分
  • ☆これに対する回答はどこにあるんでしょうか。私の返信を「個々のコメントに対してはとりあえずここではしません」と宣言してまで無視して書いた返信の核心部分にあった記述ではないでしょうか。WP:NOTADVICEはみそがいさんが再三に渡って自身の論拠として持ち出している文書のはずです。その解釈、誤解、もしくはWikipedia:規則の悪用をめぐる避けては通れない論点だったはずです。木を隠すなら森の中、ではないですが、とりあえず長文を書くことによって自身に対する決定的な弱点のスルーを相手が忘れてくれることを画策しているのではないですか。今回の返信では「文化的な関係」という前回みそがいさんがさりげなく新出させたワードが消え去っています。これは私の指摘を容れたということでしょうか。でしたら何か反応が欲しいです。

>Wikipediaでは加筆する側に先ず加筆の根拠が求められます(WP:V)
  • ☆またも規則の悪用..。リンク先には「出典を示す義務」に関するルールは記載されていても、加筆の根拠に関する前後関係は述べられていません。根拠はWikipedia:常に要約欄に記入するに基づき、双方とも行うことが推奨されるはずです。規則を捏造してまで、除去理由の説明から逃走を図るというのは、やはり低カロリー戦法に持ち込むための詭弁か。根拠や論証を行ったら負けだとか、あるいはそこから逃れ続けたら勝算があるとか、そのように打算しているなら甘いかと。

>「事実誤認、捏造」という認識は、私が記した前回の内容についてそれぞれどこが事実誤認なのか説明して下さい。
  • 前回の私の返信から汲み取れるはずです。「私の方としても」で検索してください。思考が停止したフリして相手に手間を取らせないこと。分からない分からないの一点張りではなくまず探す、考える。
>私は月日に囚われた男さんが本記事に加筆しようとした文章が不適切であることについて一貫して述べています。
  • 論拠が無ければ何も言っていないのと同じ。ただ騒いでいるだけで、腕づくの解決に訴えているだけです。繰り返しますが、論拠を。除去の論拠、(前述の「意味、関係誤認」が無い形での)私側の論拠に反対する論拠。これらが無ければ現時点で、私の提示した特筆性に腕づくで挑みかかっているだけだ、となります。
>私に説明責任を求める前に、月日に囚われた男さんが自身の加筆内容に対して適切な説明をなさって下さい。
  • 経度の重要性、意義については再三述べてきました。邪馬台国の例やGPSの例、兵庫県明石市の例などを出しました。一度、こちらが例示したことを無視して、こちら側が何も述べていないかのように、再び例示や説明を求め続けることは、コミュニティの消耗行為として一点挙げさせていただきます。読んでください。忘れないでください。議論が振り出しに戻ります。
>そもそも「ソウル特別市は東経127度線が通過する」という文章にどのような文化的な意味(特筆性)を読み取ればいいのでしょうか。
  • 自然界には経度は存在しません。人間が作り上げたものです。ソウルという都市を人間が作り上げ、その文明の所産に、更に位置情報として別の分野の経度という情報が当てられました。この事実関係は文化に基づいており、またその事実において数々の利便と副次的文化が成立しました。また都市の新たなシンボルとしても認知されました。これが文化的意味です。
>事実ではあるが用いられる対象に自動的に特筆性をもたらすものではありません
  • ☆あなたは、「特筆性は無い」の立場なので、相手の傍証が十分条件ではないことの証明に心血を注ぐのではなく、「特筆性が無い」ことの論証に向き合ってください。
>地球上の経度緯度情報全てが特筆性を有するという論ならば、それはWP:IINFOに当たるでしょう
  • 「首都である」という条件によって特筆性の線引きを行うべきかどうかという点を何度も確認しているのに、またこの言いぐさですか。「議論を振り出しに戻す」このような消耗行為は控えること。
>独自研究(「何が除外されるか」節、「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」節)に該当し、
  • ☆独自研究は記述面に関するルールで、特筆性の解釈におけるルールではない規則の悪用
>というのが私の考えです。
  • であれば、論証を。根拠が無ければ何も言っていないことと同じ。また「特筆性」が「文化的意味」に狭くすり替えられています。
>結局具体的に他者を納得させる意味付けも裏付けも明らかではありません。
  • 二人しかおらず答えがでないのであればそれはお互い様では。みそがいさんも誰かが納得する除去理由を説明できていません。そもそも理由の説明から逃げていて議論を進める姿勢が見えない。
>他の記事で記述されているから本記事に記述できないのではなく、本記事における特筆性を満たしていないからです。
  • そう訴えるのであれば、「そもそも127は数の記事であり、東経127度(線)は記事が別にあります。」という主張は不要だったのでは。特筆性を満たしていないというのは主観なので認められません。
>私は直接的に手助けしなければならない義務はありません。
>また「数字に関して、経度のような地理情報を包摂主義的に含めていくことには実際のメリットがあります」というお考え
  • まさに該当の議論の最中のノートページが適した場所ではないというならどこが適しているんでしょうか。特筆性を巡る重要な論点です。

みそがいさんがまた議論から逃げ出すことによって対話拒否を行わないように、返信を求める点には☆を付けました。ここが論点です。「対話拒否」「議論を振り出しに戻す」「規則の悪用」「合意形成に対する消極性」これらは避けること。--月日に囚われた男会話2024年3月8日 (金) 10:04 (UTC)[返信]
>補足
  • ☆これに関しては英文「Articles about the cultural or mathematical significance of individual numbers are also acceptable」に尽きるでしょう。これが原文です。原文には"also"とあり、それ以外に関しても含まれる含意があります。ガイドラインは英語版に準拠すべきと考えます。原文には限定性や排他性はありません。つまり「文化的意味について」の記述であれば許容されるわけです。経度情報は時間的にも空間的にも普遍的であり、GDPや人口のように増減することも通例ありません。副次的文化を生んでいることは本初子午線の例、兵庫県明石市の例、ソウルの例からも判明します。あらゆる実例が首都の経度情報の記述の特筆性を支持します。
--月日に囚われた男会話2024年3月8日 (金) 10:12 (UTC)[返信]
「文化、数学的意味」に限定されているわけでもなければましてや「文化的関係性」などどこにも書かれていないことがお分かりですかね。
さて、補足ですが、次のみそがいさんの返信で合意形成の見込みが見られなければ、ひとまず私の方からコメント依頼を行わせていただきます。
私としては、
・数の項目は数学的性質に独占的な項目ではなく、文化的意味に対しても開かれている
・「首都の経度情報」は特筆性を有しており、ソウルもその例である
この二点に関しては、少なくとも述べさせていただきます。
みそがいさんも、私の主張ありきの主張、ではなく除去を行った時点でそこにあったはずの私の記述の特筆性を否定する論拠をまとめておいてください。--月日に囚われた男会話2024年3月8日 (金) 10:24 (UTC)[返信]
みそがいさんの最初の要約によれば「トリビア的」というのがその理由だったはずです。私としてはこれに基づいて、論説を膨らませていただきたいところです。首都の経度情報がトリビア的だったのかマリオに関する情報がトリビア的だったのかは定かではないですが、トリビア的といういかようにも定義可能な不確かな言葉では除去理由として不十分だと思います。
以上です。よろしくお願いします。--月日に囚われた男会話2024年3月8日 (金) 10:32 (UTC)[返信]


WP:DR#2」に示されているレベル6~4に基づき、繰り返しの部分が多々ありますがあらためて私の見解を示します。
月日に囚われた男さんの記載根拠は、
(1)「数の項目は数学的性質に独占的な項目ではなく、文化的意味に対しても開かれている」
(2)「「首都の経度情報」は特筆性を有しており、ソウルもその例である」
です。
私は(1)は方針の意図する所ですから問題にしていません。(2)の「首都の経度情報の特筆性」を否定しています。数の記事において、特にこの場合、特筆性はWP:NOTDICDEF#2「文化的あるいは数学的な意味を解説するもの」とされ、その適否判断になります。これが議題の中心です。私は「文化的な意味を解説するもの」ではないと判断します。当初から、都市の経度情報に特筆性は無い、という立場でその理由を説明してきました。
  • 「韓国のソウル特別市は東経127度線が通過する」において、今回は特筆性の根拠として経度を記載する意義を、邪馬台国、GPS、明石市の例であげていますが、明石市は日本の標準時を決める子午線として文化的な意味を持つものの、他の2つは例示する意味がありません。ソウル特別市の経度が、その都市のどのような文化的意味を解説しているのか明示されていません。経度を用いることそのものが特筆性(文化的意味の解説)を与えるものではないと私は説明しました。なぜなら先のコメントの通り「地球上の経度緯度情報全てが特筆性を有するという論ならば、それはWP:IINFOに当たる」からです。著名な都市だけでなく、山岳や建造物の位置、国の領地や島の位置など、要するに地球上全ての場所に経度緯度が存在するからです。東経127度上にあることがソウル特別市を首都たらしめているのでしょうか。あるいは、ソウル特別市が東経127度上にあることで経度緯度で示される他の場所に比べて何か文化的なものが生まれるのでしょうか。そこを問うています。ソウル特別市に特筆性が無いということではありません。副次的文化を生んでいる、というのも何を意味しているのか分かりません。今回も韓国の子午線を引き合いに出していますが、私がそれを否定していることに対して反論なく再び持ち出しているのも不可解です。
  • 経度緯度とその文化的意味の解説であれば、例えば、38における(北緯)38度線があります。第2次世界大戦、朝鮮戦争の結果もたらされた2国間の国境(軍事境界線)ですから単なる緯度情報ではなく「文化的意味」のある記述です。関連記述として十分な特筆性を有していますし単独記事も存在します。誰もが納得する「文化的な意味を解説する」とはこういうものを指すと考えますがいかがでしょうか。
  • 月日に囚われた男さんの言われる「特筆性」とは「ソウル特別市の位置」を「経度で表すこと」だけです。例えば「ソウル特別市は東経127度線が通過する。これは具体的には○○○という文化的な意味がある」と2文で補足説明するとどうなりますか。韓国の子午線は過去においても現在においても東経127度ではありませんから、それ以外の理由があげられるはずです。○○○には経度緯度システムの普遍性の説明も入りません。
(なお、韓国の子午線が東経127.5度ではなく東経127度である/あった、という主張であれば、適切な出典をもって韓国標準時平壌時間の修正を行うのが先でしょう)
以下、一応☆の付いたコメントに対して簡単に述べます。
☆1 - 前々回の返信に対して
  • 加筆しようとした文章の削除理由は繰り返し説明しています。月日に囚われた男さんはご自分の主張に沿わない意見に向き合って下さい。私の説明に対して「自分の方からは除去理由を説明しない」と言われる理由が全く分かりません。スピード違反の論理はもちろん物事を単純化するための比喩です。方針・ガイドラインに則った記述かどうかは、それに「合致している/いない」の2つに分けられます。「書き加えられる価値はあるでしょう」と認められているのはそれらのルールに則った場合のみです。
  • 「整数記事と都市の経度の関係における文化的意味」は整数記事に記述するために必要なことは、数値と都市の経度の関係に文化的意味があるということです。議論相手の言葉をつつくようなことではなく、方針に示された文化的意味を説明して下さい。
☆2 - お前だって論法に対して
  • 意味不明です。私は月日に囚われた男さんの「WP:NPA」「WP:CIV」に抵触する言動に懸念を示しました。私が同様の言動をしているならまだしも、していないことに対してそう表現する根拠が分かりません。新たに「低カロリーモード(戦法)」という言動を追加されたのでさらにその懸念を強くしました。
☆3 - 「(首都と数値や経度との)文化的な関係」
  • 「文化的意味の解説」ですから、「AはBである」という文章にA、B間に何らかの文化的関係が無ければ文章に生じる文化的意味もありません。「ソウルの経度は東経127度である」ことに事実以外のどのような文化的な関係があるのか、それがどのような文化的な意味を解説しているのか納得出来る説明はありません。38度線の例を参考にしてください。
☆4 - WP:Vは規則の悪用
  • 「「出典を示す義務」に関するルールは記載されていても、加筆の根拠に関する前後関係は述べられていません」の意味が不明です。加筆の根拠に関する前後関係とは何でしょうか。加筆に対して根拠となる出典を示すことはWikipediaの方針です。単独で吟味するのではなくWP:NORWP:NPOVとともに相互に補完し、編集者が守らなければならないことはそれぞれの文書に示されています。またWP:Vには「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」とあります。ソウル特別市が韓国の首都であること、東経127度線上にあることは事実ですが、それらが組み合わされた場合にどのような文化的意味があるのか、それぞれのリンク先記事には解説がありません。したがって出典も不明ですから除去は妥当な編集です。WP:Vの内容に異議があるのであればそのノートで行ってください。
☆5 - 「「特筆性が無い」ことの論証に向き合ってください」
  • 既にしています。「特筆性がある」ことの論証は月日に囚われた男さんがしなければなりません。「自然界には経度は存在しない(ので人間が作った経度には特筆性がある)」「都市は人間が作った(から特筆性がある)」「都市の新たなシンボルとして認知された(から特筆性がある)」これらは月日に囚われた男さんが考えた理由付けです。個々の理由を合成して新たな特筆性を生じさせることは独自研究です。Wikipediaが要求するのは、いわば、それらが個別に論じられていることではなく、最終的な文章の出典を示すことです。私は特筆性が無いことに出典を示すことはできません。特筆性を示すことは加筆者に要求され、特筆性が無いという主張を否定するためにも適切な出典が求められます。
☆6 - 「独自研究は記述面に関するルールで、特筆性の解釈におけるルールではない規則の悪用」
  • ☆4のコメントでも述べましたが、各方針は単独ではなく相互に補完するものです。独自研究を排除するために検証可能な出典が要求されますし、それによって特筆性の立証にもなります。
☆7 - 「合意形成に後ろ向きでひたすら議論を振り出しに戻しながら反対し続ける事」
  • 月日に囚われた男さんの考える合意形成とは何でしょうか。当該文章を記述するということであれば現時点で合意できる観点はありません。私から見れば、記載しない/できないという合意に後ろ向きであることの裏返しでしかありません。私の削除理由の説明に対し「説明が無い」「根拠を示さない」という一方的な発言を続けていることもそれを裏付けていると言えるでしょう。
☆8 - 英語版方針の解釈について
  • ここは日本語版ですから、日本語版の方針文書に従います。方針文書の文面を変更するのであれば日本語版方針文書のノートで提案してください。副次的文化が何なのか不明ですが、いずれにしろ内容は明石市以外既に否定しています。
「除去を行った時点でそこにあったはずの私の記述の特筆性を否定する論拠」「最初の要約によれば「トリビア的」というのがその理由だったはず」
  • この編集[6]の要約欄を見ていただければ「特筆性無し」が理由と分かるはずです。そして特筆性が無いことについてはその後ノートにてその詳細説明を続けています。
繰り返しになりますが、特筆性(文化的意味の解説であること)の立証は月日に囚われた男さんしかできません。
--みそがい会話2024年3月9日 (土) 15:37 (UTC)[返信]
(追記)
「該当の議論の最中のノートページが適した場所ではないというならどこが適しているんでしょうか」
コメント依頼を行うので、経緯を簡単にまとめます。
  • 私が記述した「韓国のソウル特別市は東経127度線が通過する」という内容[7]を、みそがいさんが「少なくとも特筆性の無い内容、トリビア的内容を除去。」という理由で差し戻した[8]、これが論争の発端です。
その後、私の方から繰り返し特筆性に関する説明を行ってきたのですが、みそがいさんによる「文化的な関係性が見られない」とのやや一辺倒な反対により、現在に至ります。
本題に入る前に、まず本ノートページの議論を難航させてきたみそがいさんによる根本的な誤解を改めて解く必要があるかと存じます。
  • みそがいさんはプロジェクト文書WP:NOTDICDEF#2に記載されている「例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます」という文書を「文化的あるいは数学的な意味を解説するものでなければ許容されない」と独自解釈を行った上で引用し、それを金科玉条の如く扱う事で議論に参加してきました。無論、方針とガイドラインを尊重することは大切な心掛けです。しかし、その解釈において客観性を欠き、方針やガイドラインの本意から逸脱していた場合、それは規則の悪用となり返って方針とガイドラインに違反する結果となります。
  • 確かに、該当記述は「解説するものであれば、許容されます」の「であれば」の解釈次第によっては、文化と数学の意味の解説に記述を排他的に限定し、それ以外の記述を全面的に禁止しているとも取れないとは言い切れません(みそがいさん解釈)。しかしその一方で、「例えば個々の数に関する記事は、(少なくとも)それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます」と許容範囲のうち二例を挙げて規範を示したとも取れます(私の解釈)。つまり解釈において両義性を持つ余地が十分にあると言えます。
  • そのような場合、どうすべきでしょうか。私は、他言語版をあたることにしました。該当文書には123の言語ページがあり、プロジェクト文書の多くは英語版からの翻訳です。英語版には「Articles about the cultural or mathematical significance of individual numbers are also acceptable」と書かれていました。"also"とはっきり書かれており、これは後者の、つまり「文化と数学の意味に関する記述もまた(他の例と共に)認められる」という解釈を裏付けます。
  • また、編集履歴を辿ると、該当記述は、[9]の版から記載されており、要約欄には、「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか/改定案0906252009年7月2日 (木) 10:29(UTC)より転記」と書かれています。該当改定案を巡る議論は、[10]にあり、その中で、該当記述を行った利用者:Web comicさん自身の言葉で英語版の翻訳であることが明言されています。翻訳であれば、記述の本意は英語版のプロジェクト文書にあるのですから、そこにあたってみましょう。
  • また、該当記述を文脈と共に読んでみましょう。該当記述は「ウィキペディアは辞書ではありません」という節の中の、「ウィキペディアは辞書、用例集、業界用語集ではありません。ウィキペディアの記事は以下のものではありません。」という記述に続く形で存在する「2.辞書の項目」の中にあります。「2.辞書の項目」は主に「ウィキペディアは辞書ではない」ことを強調する内容であり、その中で「例えば、~であれば、許容されます」とする形で該当記述が登場します。これは、辞書的な執筆を否定した上で、それに対する模範例として、文化と数学の意味の解説という執筆例を挙げたと解釈することが普通でしょう。方針とガイドラインのページで、突然、直接的な関係の無い文脈上で、特定の記事の記述方針を排他的に制約するような強力な文言を盛り込むことがあるでしょうか。私としては、ウィキペディアの記述の適否判断は一意に「特筆性」に帰すると考えています。
  • 対するみそがいさんの返答が「ここは日本語版ですから」です。英語版のプロジェクト文書は既に適示しております。素直に謝罪することも改めることもできず頑迷にいつまでも納得しないみそがいさんの態度が浮き彫りになっています。真にプロジェクト文書に関心があるのであれば、新たな情報に基づいて再解釈を検討するなり、過去のノートページでの議論を遡って記述経緯を確認するなりやれることはあったのではないか。ただ法律家ごっこをして、自分の主張を押し通すために文書を利用しているだけなのではないかと疑います。
  • 日本語版の文書を尊重することはもちろん当然ですが、みそがいさんが現在提示し、立脚しているのは文書そのものではなく、文書に対する我流、ともすればまさしく独自研究とも言えるみそがいさん自身の勝手な解釈です。AだBだとアルファベットを賑やかに並べていましたが、これらは正統な解釈ではありませんし的を得ません。日本語版の文書の意味が具体的な形で判然としなければ、独自解釈を押し通すのではなく文脈を読み解いたり翻訳元となった英語版の記事に照らし合わせて本意を真摯に紐解きましょう。
  • みそがいさんの独自解釈については「文書の解釈については、」でこのノートページで検索すると出てきますが、ご覧になればいかに根拠に欠ける言説かお分かりになるかと思います。「例えば」の範囲が仮に、みそがいさんのおっしゃる通りであったとしても、特に排他性や限定性を意味するとはなりません。論証が不十分です。
  • この長大化、煩雑化した議論の原因とも言え、本人も「議題の中心」と豪語する、みそがいさんにとっては肝要なはずの重要論拠が僅か10行にも満たない補足欄の簡素な記述に基づいているのみであるというのが信じがたいですが事実です。
  • またそこから更にみそがいさんは「文化的な意味の解説」を飛躍させ「文化的な意味の関係」に意味をすり替えた上で繰り返し論拠として利用しました。こういった細かい解釈や表記のすり替えは議論を混迷に導きます。自身の主張としてではなく、具体的な文書を引用し立脚して反論を行う場合は、原文を忠実に引用することが望ましいです。
以上の理由から私としては、「文化的あるいは数学的な意味を解説するもの」というのは、例示された許容最小範囲であるという立場に立ちます。特筆性を説明しろと、みそがいさんはまたおっしゃるかもしれませんが、議論を建設的に進めるためには、こういった認識の共有が不可欠です。「月日に囚われた男さんの考える合意形成とは何でしょうか」とおっしゃっていますが、合意形成というのはこういった細やかな認識の確認の積み重ねです。「当該文章を記述するということであれば」「記載しない/できない」などと一方に偏った性急な結論を想定して喧嘩腰で臨んでいる時点で、議論において合意形成を模索してきた形跡が嘆かわしいことに到底見えないのです。(続きます)--月日に囚われた男会話2024年3月12日 (火) 20:02 (UTC)[返信]
改めて、私の方から、再三に渡って繰り返し説明を行ってきた特筆性に関して引用しつつ記述します。
  • 経度、緯度の普遍性と実用性
    • 経度や緯度による座標指定法は1884年に成立しました。それ以来、現在に至るまで、人類社会を下支えしてきました。漢籍の地理表記の揺らぎ、誤記によって邪馬台国の位置に関する議論が収束する目を見ない事を鑑みれば、これがいかに実利的であり測地学上の画期だったか実感できるはずです。
    • 現在、経度と緯度が利用されている例としてはGPSがあります。GPSにおける地点情報は経度、緯度の値に基本的に基づきます。また、Googleマップにおいても活用されており、マップに表示される何気ない座標数値も経度と緯度に基づいています。座標から直接位置指定を行うサービスも採用されており、我々の生活に密接に結びついている。
    • 上記のように、経度と緯度は普遍的かつ実用的です。ある都市の人口やGDPは毎年増減しますが、経度と緯度は変わりません。
  • どこまでも客観的であり検証可能であり議論の余地が無い
    • また経度や緯度は、時間軸のみならず空間軸においても普遍的です。世界中のどこに行ってもソウルに東経127度線が通るという事実に対して異論や異説が挙がる隙はありません。このような地理情報は非常に稀です。仮にソウルを憎悪する人が、世界のどこかに住んでいたとして、その人物はソウルの総人口や域内総生産に関して異議を唱えるかもしれませんが、そのような人物であってもソウルに東経127度線が通るという事実に対しては完璧になんのためらいもなく同意するでしょう。あるいは、ある都市が海抜何メートルか表記した場合、メートル法を使わない国の人はこの表記を理解することができませんが、経度と緯度による座標表記は世界共通であり、例外を探しがたい単位です。このように世界中のどこであっても共有することができる貴重な知識であり、取りこぼしがたいです。
  • 100年以上変わらず今なおハイテク産業で活用され、世界中で議論の余地無く通用し、今後も変わる可能性が低い不朽の地理システム。極めて百科事典的だと思います。普遍的というのはただウィキペディアの情報を更新する手間が省けるという事ではなく、ウィキペディアを通じて得た頭の中の知識が一生モノとしていつまでも正しく有用なものとして残り続けるということです。
  • 経度、緯度の派生文化
    • 座標情報はただ無機質に割り当てられた数字というだけではなく、都市や地点にあらたなシンボル性や意味合いを与え、副次的な文化を生んできました。
    • 例えば、イギリスの本初子午線にはこのように実際に地表に線が刻まれて観光地化されています。日本でも標準時子午線の通る明石市には東経135度が具体的な数値と共に認知され街中で明示的に掲げられています[11]。韓国のソウルの例で言えば、NCT127というアイドルグループの127は韓国ソウルの東経に由来します[12]。経度の数値が位置を表す数値以上に愛され、親しまれていることが分かります。
      • 標準時システム自体が経度に準拠している点も見逃せません。
  • 包摂主義の観点から
    • 私は過去に、都市の座標情報を掲載することについて、「また数字に関して、経度のような地理情報を包摂主義的に含めていくことには実際のメリットがあります。数字の項目を閲覧するのは、なにもその数の数学的性質を確認する目的とは限りません。ある人は、小説の登場人物の愛称やプロフィールなどを設定する上でなにかヒントを得ようと数の項目を読んでいるかもしれませんし、またある人は自分の部屋番号が何に関連しているか調べるために素朴な好奇心から数の項目を検索するかもしれません。そのように偶発的に自分が知り得なかった情報と出会う機会が提供されることは百科事典の長所の一つだと思います。」と書きました。
    • この気持ちは今でも変わっていません。身の回りの何気ない数字から外国の都市に興味を持って、知識や関心の幅が広れば、それが海外旅行や移住のキッカケとなったり、本来であれば接点が無かったはずの外国人と親しくなるための話の種になって国際交流に一助するかもしれない。
議論上で行った全ての論拠を網羅したものではありませんが、これらが首都とその経度、緯度情報などを記載する特筆性に関するまとめとなります。--月日に囚われた男会話2024年3月12日 (火) 21:37 (UTC)[返信]
みそがいさんの前回の返信に対して、再返信したい内容もありますが、コメント依頼を行うという観点から、可読性のために今回は控えます。必要であれば、行います。以上となります。よろしくお願いします。--月日に囚われた男会話2024年3月12日 (火) 21:39 (UTC)[返信]

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まず、これまでの議論における、月日に囚われた男さんによる方針WP:NOTDICDEF#2 の解釈についてコメントします。

当初、月日に囚われた男さんは「ある国の首都の経度情報が記述すべき文化事項にあたるか否かという論点であったはず」と述べられ、これは方針の「文化的意味を解説しているかどうか」を特筆性議論の核心としていたと私は認識し、私も丁寧に議論をしてきたつもりでした。しかし、途中から「文化的あるいは数学的意味を解説するもの”以外”」も許容されるべきという風に方針文書を解釈せよと変化しました。そのため言外の意味を付加、あるいは英語版に遡れと言われています。

要するに、記載しようとした文章「韓国のソウル特別市は東経127度線が通過する」は「文化的意味も数学的意味もない」ので「それ以外の記述も許容する」ならば記載可能であるから、言外の解釈をする必要がある、英語版の方針文書が正しいから日本語版の方針文書は参照するな、ということなのでしょう。 これは「文化的意味を解説することができない」ことを実は自ら認めており、方針文書をその通り解釈することができない状態であるからと考えざるを得ません。月日に囚われた男さんが記述しようとした文章が文化的意味を解説するのならば、このような議論の根幹を変化させる必要が無いからです。私の解釈を否定し、隅つつくような方針解釈を行い、結果としてハシゴを外すような議論は非常に残念に思います。何のためにコメント依頼をされたのか、呼びかけられた方々も戸惑われると思います。

日本語版の方針・ガイドライン文書はほぼ翻訳されたものでしょう。しかし、全ての文書がそのまま方針・ガイドラインとして制定されているわけではありません。例えば、WP:IGNOREは英語版ではガイドラインですが日本語版ではそうではありません。日本語版は日本語版独自の制定文書構造によって現在運用されています。現状の各文書が日本語版に参加する上で問題があって再訳や改訂の必要があるならば、それぞれ適した場所で提案してコミュニティの合意を得てください。解釈についての話はそれからです。

次に、改めて月日に囚われた男さんの今回のコメント内容について私の考え方を述べます。

「経度、緯度の普遍性と実用性」「どこまでも客観的であり検証可能であり議論の余地が無い」

  • 緯度経度を用いて地球上の場所を表すこと自体については異議はありません。
  • しかし緯度経度を用いることによって、それだけで対象となる場所に特筆性を付与できるという考え方は明らかに不適切です。既に説明しましたが、地球上全ての場所は緯度経度で指定でき、その指定により全ての場所は特筆性を有するという論になります。全ての場所が等しく特筆性を有するということは、逆に言えば特筆性は消失することになります。整数記事において、特筆性が生じるのはそれが「文化的意味」を有するときであり、方針文書の意図する所であるという認識です。

「経度、緯度の派生文化」

  • 子午線の例をあげられましたが、経度/緯度の数値に特筆性が有るのではなく、子午線だから特筆性があり、その子午線経度と都市が直接的に関係しているから特筆性があるのです。当然観光地化もされるでしょう。韓国の子午線は過去の一時的に東経127.5度でしたが東経127度であったことはありません(なお現在は日本と同じ東経135度)。この指摘に対し一向に是も非も言及されないのは意図的なものがあるのでしょうか。
  • 結局、残されるのはNCT127というアイドルグループ(のサブユニット)が実在するということだけです。それがソウルの経度127に由来するからソウルの経度にも文化的特筆性があるとするのは、特筆性評価を新たに作り出すことであり独自研究に当たります。事実であることと特筆性があることは同じではありません。これも既に説明しました。
  • そもそも整数記事において文化的意味や数学的な意味の解説以外に、特筆性を説明/証明できる事項とは何なのでしょうか。

「包摂主義の観点から」

  • それはご自分の心の中に仕舞っておいてくださいとしか言えません。
  • WP:NOTEVERYTHINGの最初の部分を読んで下さい(「ある情報が事実である、または有用であるとしても、それだけではウィキペディアという百科事典に掲載すべきだという根拠にはなりません」)。月日に囚われた男さんが言われるような「包摂主義」は否定されています。

方針を満たすような特筆性が無い事項を記事に記載することに合意はできません。出典文献の解釈をどのような説明文章にするかといった推敲のような内容ではないからです。

--みそがい会話) 2024年3月13日 (水) 16:18 (UTC) (1文字修正 --みそがい会話2024年3月13日 (水) 16:36 (UTC)[返信]

言いたいことは言い終えたようなので、コメント依頼募集中につき、第三者からの意見をしばらく待ちます。
こちら側の特筆性を否定できるだけの主張は行われなかった、それが私の概観であることは述べておきます。--月日に囚われた男会話2024年3月13日 (水) 19:19 (UTC)[返信]
第三者の意見がという事なのでコメントします。おおよそみそがいさんのおっしゃる通りかと思います。個人的な考えで少し話すとこの記事は「127」という数字の記事ですが、議論になっているのは「東経127.5度が通るソウル特別市」についての記述です。127→東経127度→東経127.5度→ソウル特別市と連想ゲームのように関連から引っ張って何でも記述するのは違うのではないかと感じます。ソウル特別市に127度も通るとのことですが、視点が逆かと思います。ソウル特別市の子午線が東経127.5度にあった→ソウル特別市には東経127度も通っているはソウル特別市からの視点であり、仮に東経127度から見ても子午線でもなく、経度上にある数ある国、都市の1つでしかないでしょう。--ぷにを会話2024年3月14日 (木) 03:21 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。私が該当記述の特筆性として挙げた例に関しては2024年3月12日 (火) 21:37 (UTC)に記述しております。議論になっていることが、また私の論拠として「東経127.5度が通るソウル特別市」が挙げられていないことをご確認ください。--月日に囚われた男会話2024年3月16日 (土) 13:20 (UTC)[返信]
返信いただきましたが、東経127度と127は別物であると考えます。横たわる猫さんの挙げて下さっている東経127度線で十分だと考えます。WP:過剰な内容の整理#別の記事に転記するが近いと感じます。--ぷにを会話2024年3月18日 (月) 00:18 (UTC)[返信]
ぷにをさんは自身が挙げたWikipedia:過剰な内容の整理を自分の目で実際にご一読なされましたか?

記事の内容に、一部項目のみに偏って過剰な記述が見られたら、削ってバランスを取るべきです。

加筆内容ではなく、記事全体のバランスです。

ウィキペディアは百科事典であり、項目について出典を明記しつつ、社会的背景や影響などもふまえた幅広い視点の記事にしていくことは大いに歓迎されます。

また、記事内容の”幅広さ”は推奨要項です。私の加筆内容は、偏りとは正反対に記事の幅を広げます。

中立的な観点はウィキペディアの基本原則の一つであり、(中略)「検証可能性」および「独自研究は載せない」とともにウィキペディアの内容に関する三大方針としても位置づけられています。ウィキペディアでは、これらの方針を合わせて、記事に書き記すことが許される情報の種類と品質を決定しています。

念押ししますが、以上がWikipedia:中立的な観点に明記されている基準です。私の記述内容は三大方針をいずれも満たしています。これを除去するには相応の理由が要求されます。
東経127度と127が別物であるか、そんなこと議論したって答えは出ません。解釈次第、定義次第でプロジェクト文書の裏付けがあるわけでもありません。つまり、削除要件と親和的ではなく、理由として不十分です。--月日に囚われた男会話2024年3月19日 (火) 22:40 (UTC)[返信]
「東経127度と127が別物であるか、そんなこと議論したって答えは出ません。」と考える方と意見が合うことはない気がしてなりません。私の意見はソウル特別市と関係あるのはあくまで東経127度線であり、ソウル特別市と127が関係あるとは言えないという立場です。月日に囚われた男さんも説明の多くを東経127度が通っていることを主軸に話しをされていると思います。三大方針の中立的な観点を挙げておられますが、Aという記事にAに関する内容での記載に関してであれば中立的な観点を持ち出すのは正しいのかもしれませんが、Aという記事にBの内容を記載するというのであれば三大方針の前の問題かと思います。私が挙げたのはWP:過剰な内容の整理#別の記事に転記するです。ざっくりその中身を言うと「記事と別の話しは適切な転記先に記載して記事と直接関係ない物は除去する」です。私は127とソウル特別市が直接関係すると思っていませんし、127と直接関係する点を説明されたと思っていません。なので反対しています。現状の参加者で関係していると考えているのが月日に囚われた男さんなのも含めてもう一度127がソウル特別市と直接関係しているかどうか考えてみてください。--ぷにを会話2024年3月20日 (水) 01:19 (UTC)[返信]

単語や句自体が百科事典的な主題となり得る場合もありますが、用語の複数の異なる定義や語法を解説するような百科事典の記事はまれです。例えば個々のに関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます。

とガイドラインにあります。Aという記事には、Aについての定義のみが許容されるのではなく、Aと関連したBについての記述も受け入れられます。--月日に囚われた男会話2024年3月27日 (水) 01:55 (UTC)[返信]
「127도」は「127」とは違う語句なのでWP:NOTDICDEFの2で許容される対象には当てはまりません。記事での重み付けは「その話題に関して信頼できる情報源における表現に応じ」(Wikipedia:中立的な観点)ることになっています。このノートに出された資料で「127」という数が話題になっているのは、NCT 127の解説の中だけです。よって許容できるのは、”K-POPのアイドルユニットのNCT 127の「127」はソウルの経度である東経127度を指す。”ぐらいの記述だと思います。--2019jul07会話2024年3月27日 (水) 10:09 (UTC)[返信]
コメント依頼からきました。自分もみそがいさん(およびぷにをさん)に賛成です。
ある整数値経度がある都市を通過することは無数に発生している事象であり(例えば東経131度は下関市を通過、東経18度はストックホルムを通過など)、それ自体が特筆性につながるような事ではないからというのが一つ、もう一つは東経127度線といった記事で整数値経度を通る都市や地域はすでにまとめられており、整数記事の側に改めて記述する必要性を感じないからです。--横たわる猫会話2024年3月16日 (土) 08:15 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。特筆性に関し、意見が一致しないようで残念です。しかしながら、ウィキペディアにおいて特筆性は「独立記事作成の目安」であって「記事に書くべき内容の目安」ではありません。これはウィキペディア利用者にありがちな誤解です。私も最近改めて調べるまで存じませんでした。
Wikipedia:検証可能性には、「検証可能性は、ウィキペディアの内容に関する三大方針の一つです。あとの二つは、「中立的な観点」と、「独自研究は載せない」です。ウィキペディアではこれらの方針を併せて標準名前空間、つまり記事に書くことができる情報の種類と質を決定しています。」とあります。
つまり、ウィキペディアの本文における記載基準としては「検証可能であり、中立的であり、独自研究ではない」という点が記事内容における根本基準です。
それに準ずる基準として、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかがありますが、これに反していない点に関しては、2024年3月12日 (火) 20:02 (UTC)で述べました。ご関心がありましたら、ぜひご確認ください。--月日に囚われた男会話2024年3月16日 (土) 14:04 (UTC)[返信]
返信いただきましたが、先のコメントで触れた「特筆性」と「別の記事に記載がある」という2点のうち後者にはまったく触れておらず、この時点で「東経127度線に記載がある以上こちらに記載する必要はない」という考えは変わりません。
また、「特筆性」について、「記事本文の記載には関係がない」と、これまでの議論を無意味にするほどに論を転換されていますが、私に返信する数十分前にこれまで通り「特筆性」を主題にした返信をぷにをさんに送り、それを放置しているのはあまり良い姿勢とは思えません。これでは何を主題として議論すればよいのかわからなくなります。--横たわる猫会話2024年3月18日 (月) 16:55 (UTC)[返信]
触れるまでもないと考えたのでスルーしました。「他の記事にあるから」という理由は除去理由になりません。それだけです。

>これまでの議論を無意味にするほどに論を転換されていますが、
議論の内容がアップデートされている良い傾向です。

>私に返信する数十分前にこれまで通り「特筆性」を主題にした返信をぷにをさんに送り、
たった数十分で議論のレベルが各段に向上したのですからこれは素晴らしい進歩です。

>それを放置しているのはあまり良い姿勢とは思えません。
ええ、より良い姿勢を取りたいものです。

>これでは何を主題として議論すればよいのかわからなくなります。
三大方針を議論の中心に据えましょう。その上で、みそがいさんの削除理由が正当であるか、ここが肝です。
彼は、2024年3月9日 (土) 15:37 (UTC)にて、

「特筆性無し」が理由

と勇気あるカミングアウトを行いました。当然、今後の主題はこれでしょう。--月日に囚われた男会話2024年3月19日 (火) 23:00 (UTC)[返信]


私の他、お二人から特筆性が無いとする判断が表明されています。
また、月日に囚われた男さんからは「特筆性がある」が議論の主題であると再度表明されました。
お二人のコメントに対しWikipediaの三大方針(WP:VWP:NORWP:NPOV)については触れられていますが、WP:!に関しては私が否定した月日に囚われた男さんの過去発言を参照せよで済ましています。その部分はいわば「WP:NOTDICDEF#2」の記述を拡大解釈し「文化的あるいは数学的な意味を解説するもの以外」も許容せよ、という内容です。私の反論に応答しないのはいかがな理由があるのでしょうか。
私はそのような方針文書の解釈は採りませんし、逆に、素直な解釈における特筆性は月日に囚われた男さんが自ら否定されたと認識しています。解釈の妥当性はともかくとして、月日に囚われた男さんはその拡大解釈における特筆性を立証する必要があります。
  • 「ウィキペディアは百科事典であり、項目について出典を明記しつつ、社会的背景や影響などもふまえた幅広い視点の記事にしていくことは大いに歓迎されます」
この文章のあるWP:SURPLUSには、
  • 「例えばウィキペディアは何ではないかに反するような偏った記述や、無差別に情報を収集してそれを全部記述したりして結果的にファンサイトやまとめサイト的に仕上げてしまう記事、また個々の専門分野のプロジェクトの規定に反した内容で肥大化する記事もあり、そうした「過剰な内容」の記事は抑制・整理されるべきであるとウィキペディアでは考えられています」
とも書かれています。つまり、方針であるWP:!を守る、ということです。この部分に対してはご意見はないのでしょうか。WP:NOTEVERYTHINGの冒頭文書も再度確認してください。
三大方針を満たすことは特筆性があることの証明にはなりませんし、記事に記載するために必要となる最低限の条件でしかありません。月日に囚われた男さんの言われるとおり特筆性の有無が記載判断の非常に重要な要素です。
そこで、私から再び月日に囚われた男さんに対し、加筆しようとした文章の特筆性に対するお考えを尋ねます。
既に特筆性を否定した緯度経度による位置の指定、NCT127、一時期存在した韓国の子午線127.5度以外の内容で、文化的・数学的な意味以外に特筆性を有する何があるのか明らかにしてください。整数記事における特筆性の無い単なる地理的事実ではなく、他者が納得できる「文章が意味する特筆性」を説明することが月日に囚われた男さんに求められているのです。現時点で月日に囚われた男さんの説明に納得しているのはご自身以外にはいません。
--みそがい会話) 2024年3月20日 (水) 01:54 (UTC) (1文字削除 --みそがい会話2024年3月20日 (水) 07:17 (UTC)[返信]
(追記)
月日に囚われた男さんは私に対して「勇気あるカミングアウト」という表現をされましたが、カミングアウトの意味をご存じでしょうか。ご存じでもそうでなくても議論相手に対し非常に失礼な言動であることは明らかです。既に月日に囚われた男さんの発言には複数回「WP:NPA」「WP:CIV」を指摘しています。撤回を要求するとともに、再びこのような言動が行われた際には然るべき場所に報告することを予告しておきます。
--みそがい会話2024年3月20日 (水) 07:17 (UTC)[返信]
>また、月日に囚われた男さんからは「特筆性がある」が議論の主題であると再度表明されました。
していません。

特筆性はガイドライン上、除去理由にならないも関わらず、

「特筆性無し」が理由

という理由にならない理由で除去が強行されて久しい状態にある。
これが主題であり、この記事が現在抱える致命的な課題です。

2024年3月16日 (土) 14:04 (UTC)
2024年3月19日 (火) 23:00 (UTC)
経緯を参照のこと。
このような正当性の無い腕づくの除去を到底認めるわけにはいかないので、筋の通った説明が確認されない限り、前バージョンへ戻します。--月日に囚われた男会話2024年3月27日 (水) 01:38 (UTC)[返信]
>ご存じでもそうでなくても議論相手に対し非常に失礼

公表すること。特に、性自認や性的指向、出自など、人に知られたくないと考えていたことを公表すること。

goo国語辞典より
この場合、特に~のケースではないことは明らかなので「公表すること」です。「非常に失礼」にはあたりません。「失礼」にもかすりません。議論上の態度に関して、みそがいさんは2024年3月3日 (日) 16:51 (UTC)において複数件、指摘されている状態です。自身に対する「失礼さ」にフォーカスする前に、やるべきことに目を向けてください。--月日に囚われた男会話2024年3月27日 (水) 02:09 (UTC)[返信]


まず、特筆性に関してです。
月日に囚われた男さんは、Wikipediaの三大方針(WP:VWP:NORWP:NPOV)を満たすので、記載しようとした文章は特筆性の有無については関係無いという立場でよろしいですか。
私が再三にわたり議論に載せているウィキペディアは何ではないかもこれらの方針と同レベルのWikipediaの方針ですが、今回敢えて言及していないのは、この方針は満たしていないという立場でよろしいですか。あるいは、以前に特筆性を満たしていると発言した内容を否定されたことに対する反論は無いという立場でよろしいですか。
今回議論の冒頭に「特筆性に関するWP:N上の基準」についてコメントされていますが、WP:Nはガイドラインであり、その中で「記事の内容に関しては、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:存命人物の伝記Wikipedia:過剰な内容の整理などをご覧ください」と明記されています。「過剰な内容の整理」以外はガイドラインではなく方針です。つまり、記事の内容に関しては記事立項のガイドラインよりも厳しい制限が課されていると判断するのが妥当です。これらの方針・ガイドラインからすれば、特筆性が認められなければ削除は妥当である、という当然の結論にしかなりません。
方針は全ての編集者が遵守すべき内容です。当然、三大方針だけでなく各方針もそうですし、それらは単独で存在しているのではなく、互いに互いを補完していると見るべきでしょう。したがって、三大方針を満たしていることだけを声高に訴えても、それだけで記載できると考えるのは不適切であると言わざるを得ません。今一度各文書を熟読されることをおすすめします。
その上で、引き続き月日に囚われた男さんによるこのような論調の議論を行うのであれば、月日に囚われた男さん以外のコメントはより否定的な内容になるのは当然のことであると考えます。
そもそも月日に囚われた男さんは「特筆性はある」という前提で議論してきたはずです。「数の項目は数学的性質に独占的な項目ではなく、文化的意味に対しても開かれている」「「首都の経度情報」は特筆性を有しており、ソウルもその例である」と月日に囚われた男さんは 2024年3月8日 (金) 10:32 (UTC)で発言しておりWikipedia:ウィキペディアは何ではないかWP:NOTDICDEF#2を満たすかどうかを議論してきたのです。私は都市と経度の間に特筆性があるのならば、その根拠となる理由を明らかにするよう求めました。しかし納得出来る根拠は提示されず、特筆性があるという主張は独自研究に当たると指摘し、この時点で三大方針の一つは満たしていないことになります。(特筆性を満たす例として私は、38における38度線を挙げています)
その後「(「特筆性がある」が議論の主題であると)していません」(月日に囚われた男さん 2024年3月27日 (水) 02:09 (UTC)の発言)と主張を変更されました。最早議論が成り立ちません。
あるいは、三大方針を満たすことのみを根拠とする議論に移すならば他の方針を無視することになります。それを「議論のアップデート」などと発言するのは編集者としての基本姿勢が疑われることに繋がります。都市の経度という地理的事実のみに関して言えば三大方針を満たすのかもしれませんが、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを満たす特筆性を立証したことにはなりません。
「やるべきことに目を向けてください」という言葉はご自身に向けられていることを認識して下さい。月日に囚われた男さんが何をすべきか、私は既に何度も示しています。
次に、私に対するWP:NPA」「WP:CIV」に抵触する言動についてです。
月日に囚われた男さんは「「性自認や性的指向、出自など、人に知られたくないと考えていたことを公表すること」のケースではないことは明らかなので」と弁解していますが、現在一般的な意味ではまさにこういう意味で使われる言葉です。知っていて使った/知らないで使った、どちらであっても今回のコメントで辞書の一部を引き合いに出して都合の良い自己弁護をなさるという態度はいただけません。相手がどのような意味で受け取るかは、言葉の一般的な解釈が優先されて当然です。全く失礼な発言です。(追記)もし「公表すること」という意味として使ったのであれば「勇気ある~」と前置きを付ける必要はありません。意図的な発言であることは明らかであると判断します。
再度伺いますが、当該発言の撤回はなされませんか?
--みそがい会話) 2024年3月28日 (木) 13:59 (UTC) (下線部コメント追記 --みそがい会話2024年3月29日 (金) 14:12 (UTC)[返信]
  • 特筆性に関して
つまり、みそがいさんの除去理由は「特筆性が無い」から何も変わっていないと。
「記事の内容に関しては、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:存命人物の伝記Wikipedia:過剰な内容の整理などをご覧ください」という表記が、WP:Nにあることは事実ですが、案内に従って各記事を参照しても記事の内容の存廃判断に特筆性が用いられるという記述はありません。「三大方針以外の文書も尊重されるべき」という主張はその通りですが、それを除去理由として用いるのであれば、何かしら違反している点を挙げる必要があります。「特筆性の欠如」と「文書に対する違反」は全く別物のはずなのに、特筆性の欠如による除去行為の説明にプロジェクト文書を持ち出すことは矛盾があります。
  • 意見の更新について
議論を通じて意見が更新されることが真に生産的な議論だと思います。「意見が変わった」のであれば、更新されたより新しい方の意見を尊重してください。
  • 三大方針に偏重しているという主張について
私の記述は「三大方針に準拠しており、更にその他の方針とガイドラインに適合しています」。三大方針に適合しているという主張を、それ以外の方針を軽視していると曲解して批判することには無理があると思います。
  • 表現を巡る新たな論議について
私としては前述の表現は複数の定義のうち「公表すること」である、と明記したはずです。みそがいさんがネガティブに受け取ったとしたら、そのような可能性について私の方から否定させていただきます。誤解を与えた点については謝罪します。--月日に囚われた男会話2024年3月30日 (土) 09:07 (UTC)[返信]


私は一貫して「特筆性は無い」という立場です。
しかし、月日に囚われた男さんは「三大方針に準拠しており、更にその他の方針とガイドラインに適合しています」と述べられました。では具体的にWikipedia:ウィキペディアは何ではないかにおけるWP:NOTDICDEF#2に対してどう適合されているのですか?私を含めて複数の編集者が月日に囚われた男さんの説明には納得しておらず、それに反しているという判断をしています。そして月日に囚われた男さんはそれらの判断に対しWP:NOTDICDEF#2に適合しているという根拠を全く示されておりません。月日に囚われた男さんは他者が納得出来る説明をされていないことを自覚して下さい。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかも方針であり、「尊重されるべき」ではなく「三大方針と同様に遵守する」ルールです。「三大方針を議論の中心に据えましょう」と発言すること自体がこの議論においては見当違いです。前にも述べましたが、三大方針は記載において最低限必要なレベルのことだからです。
「特筆性ではなく三大方針によって記事に書くことができる内容と質が判断される」という発言からもWikipedia:ウィキペディアは何ではないかを軽視している姿勢が表れているといえます。事実は三大方針を満たすことはあっても、それだけではWikipediaでは記述できないことがあります。それがWikipedia:ウィキペディアは何ではないかに書かれているルールなのですから。多数決云々を言われる前に、説明すべきことを説明して下さい。それができないのであればいつまでも議論を続ける意味がありません。
私に対するWP:NPAWP:CIVに抵触する言動について、月日に囚われた男さんの説明には全く納得出来るものはありません。ただし形だけでも「謝罪」という言葉がありましたのでひとまず不問にします。ただし、次はありません。ご承知おき下さい。
--みそがい会話2024年3月30日 (土) 16:23 (UTC)[返信]


通りすがりです。あくまでも個人の意見ですが、いくつかのワードにコメントします。

「文化的あるいは数学的な意味を解説するもの以外」
私の考えとしてはプロジェクトの「文化的」は「数学的事項以外のすべて」と考えていますのでそのような概念は存在しません。
「特筆性がある」が議論の主題である
最大の争点は「記載に値する特筆性の有無」であり、これが主題であることは間違っていないと思います。
韓国の子午線127.5度
特筆性云々以前に127に記載する事項ではないようです。上で「129の記事で129.3についても扱われている」とある通り、端数がある数を丸めた数の項目で扱うことはあります(例:33には33+1/3の節が存在する。)。ただし、129の記事には128+4/7に関する記述もあることから「端数は四捨五入」であると考えます。
「別の記事に記載がある」
別の記事にあっても重要なことであれば記載しても構わないと思います。
「「首都の経度情報」は特筆性を有しており、ソウルもその例である」
世界には約200の首都があるはずですがすべて記載すべきであるということでしょうか。個人的にはそうとは思えませんし、首都よりも優先されるべき都市(日本なら明石市や高知市)もあると考えます。

個人的には「ソウルの経度は不要」という結論になりそうです。--PuzzleBachelor会話2024年3月24日 (日) 04:51 (UTC)[返信]

通りすがりだろうと、口を挟むのであれば、せめて直近の議論くらい追うのが礼儀だと思います。いずれも、藁人形論法的というか、私の立場と乖離したワードに対する反応で相手にするのが馬鹿馬鹿しくなります。
2024年3月16日 (土) 14:04 (UTC)
2024年3月19日 (火) 23:00 (UTC)
の流れを参照しましょう。記事内容に関しては特筆性ではなく三大方針が適用され、私の加筆はそれを完全に満たしており、除去理由にならない特筆性を以て除去が実行された。このような事態に際して、どう対処すべきか明白ですよね。--月日に囚われた男会話2024年3月27日 (水) 01:49 (UTC)[返信]
だいぶ時間が経っていますがいまだに記載を是とする考えなのは月日に囚われた男さんのみです。賛同を得られなかったとして諦めませんか?このまま続くとWP:IDIDNTHEARTHATと判断され、不利益を受けるのは月日に囚われた男さんだと思われます。また、みそがいさんに対する「勇気あるカミングアウト」についてgoo国語辞典を出して返答されていますが的を外しています。特にをご覧ください。特別にそういう意味を持った公表に「カミングアウト」という単語を使うことがお分かりになるかと思います。--ぷにを会話2024年3月28日 (木) 02:28 (UTC)[返信]
PuzzleBachelorさんのコメントに対し「通りすがりだろうと、口を挟むのであれば」「藁人形論法的」「相手にするのが馬鹿馬鹿しくなる」と発言しています。非常に失礼な発言です。月日に囚われた男さんは合意形成のためのコメントを呼びかけたのですから、寄せられたコメントに対しては真摯に受け止めるべきであり、意に沿わないコメントに対してこのような反応をするのは正常な議論に利する態度ではありません。
--みそがい会話2024年3月28日 (木) 13:59 (UTC)[返信]
そもそも我々は「三大方針を満たしていれば記載してよい」という月日に囚われた男さんの現在の論拠自体に対して反対しています。議論の流れを理解していないから見当違いな発言をしているわけではありません。--横たわる猫会話2024年3月28日 (木) 15:02 (UTC)[返信]
相手に敬意を以て接する事は重要ですが、自分が反論しやすい架空の主張をさも相手が発言したかのように見立てて、それに対して言及することで相手がそのような発言を行ったかのようにミスリードする藁人形論法は看過することができませんし、それ自体が何よりも失礼な態度です。
私は、2024年3月16日 (土) 14:04 (UTC)の中で特筆性によって記事内容が判断されるというのは誤解であり、特筆性ではなく三大方針によって記事に書くことができる内容と質が判断されると説明した上で、2024年3月19日 (火) 23:00 (UTC)の中で「三大方針を議論の中心に据えましょう。」と述べ、みそがいさんの「「特筆性無し」が理由」という方針やガイドラインに基づかない理由が正当かどうか、ここを巡る議論が主題だと述べたわけです。そのような経緯は、返信先の 2024年3月18日 (月) 16:55 (UTC)を読んでも掴めたはずです。
それを踏まえれば、私の指摘が妥当であることは分かります。
しかし、PuzzleBachelorさんに事実誤認があったのも無理はありません。なぜならPuzzleBachelorさんはおそらくみそがいさんの2024年3月20日 (水) 07:17 (UTC))を読んでコメントを行ったからです。みそがいさんは、該当投稿で「また、月日に囚われた男さんからは「特筆性がある」が議論の主題であると再度表明されました。」と事実ではない主張を行いました。みそがいさんがこのように、相手の主張を捻じ曲げて引用したり反論する事、つまり藁人形論法を行った事は一度や二度ではありません。コメント依頼を行ったことで、まさに恐れていた事態が起きました。つまり、今回の行き違いの責任はみそがいさんにあります。
にも関わらず、2024年3月27日 (水) 01:38 (UTC)での私の指摘を頭から無視して、いつものように何事も無かったかのように、藁人形論法を行ったことは伏せて新たな会話に切り替えようと返信を行います。これまでの同様の過誤と違って今回は他の利用者をミスリードしたという点で罪は重いです。また指摘が行われたにも関わらず、謝罪も撤回も行う素振りが無く、改善の見込みは見られません。このような常習的な藁人形論法は、コミュニティを消耗させます。藁人形論法を行うだけでなく、それを指摘しても違う点に関して新たに反論を行うことで藁人形論法を行った経緯に関する事実確認を流してしまうのですから、コミュニティの消耗度という点において始末が負えません。故意によるものなのか、誤解なのか、どちらでしょうか。--月日に囚われた男会話2024年3月30日 (土) 13:53 (UTC)[返信]
ええ、確かに反対意見が複数寄せられている事は事実ですし、私もそれを確認しています。しかし、Wikipedia:投票は議論の代用とはならないにある通り、Wikipediaは多数決主義を採りません。これまで提出された「特筆性の欠如」は方針やガイドラインの誤解に基づく理由であり、他の利用者に反対されたからとその理由を受け入れる事は避けたいです。また現状で、私は除去の差し戻しを行っていませんし、今も私の記載内容は記事内容に反映されていません。--月日に囚われた男会話2024年3月30日 (土) 09:19 (UTC)[返信]
  • コメント コメント依頼より。プロジェクト:数学/数#記載不要な事項では、記載しないものとして《郵便番号、小惑星等の天体番号、証券コード、金融機関コード、山や峠の高さ、公道等の番号》が例示されています。これの意味するところは、イチから順次存在するもののN番目のものは記載しないことです。このルールはWikipedia:ウィキペディアは何ではないかにて《ある情報が事実である、または有用であるとしても》あるいは《たとえ検証可能であったとしても、百科事典に収録するのに相応しい内容であるとは限りません》のように許容されています。おそらくみそがいさんのおっしゃる「特筆性」とは特筆すべきかどうかみそがいさんの除去理由にある「特筆性なし」とは特筆すべきでない、つまりWP:IINFOでしょう。◆問題となっている経度は0から180までありますので、その内の東経127度線(が通過する都市)というのは記載しない例に当てはまります。ただし「東経127度線」の記事は関連項目として記載に値するかもしれません。--メリース会話) 2024年3月28日 (木) 15:41 (UTC)(訂正--メリース会話2024年3月28日 (木) 15:54 (UTC)[返信]
メリースさん、コメントありがとうございます。ご指摘の通り、本議論の当初において「私が削除した記述はWP:!(特にWP:NOTDICDEFWP:NOTADVICEWP:IINFO)によります[13]」と説明しました。より直接的にはWP:NOTDICDEF#2が理由としてマッチしていますので、以後私ははこれを議論の軸としています。もちろんWP:IINFOの文面通り、真実なら無条件で情報を載せてもいいことにはならないという方針にも合致していると考えています。--みそがい会話2024年3月30日 (土) 05:04 (UTC)[返信]
既に議論は尽くされたと思います。次の段階へ行くべきではないかと思慮します。--ぷにを会話2024年3月30日 (土) 09:12 (UTC)[返信]
参考として、受け止めさせていただきます。コメントありがとうございます。--月日に囚われた男会話2024年3月30日 (土) 13:55 (UTC)[返信]
  • コメント ウィキペディアで使われる「特筆性」という語は、①「方針文言にある特筆性」(WP:N)と、②「情報の取捨選択である特筆性」(WP:IINFO)の2種類の使い方をされます。本議論のきっかけとなった要約欄の「特筆性なし」は当初、それだけではどちらを意味するのか曖昧な状態でした。しかし、みそがいさんは本議論の最初の発言で『私が削除した記述はWP:!(特にWP:NOTDICDEF、WP:NOTADVICE、WP:IINFO)によります』と説明なさいました(上記②の特筆性)。一方で、月日に囚われた男さんは『「特筆性の欠如」は方針やガイドラインの誤解に基づく理由』とおっしゃっています(上記①の特筆性)。お二人の「特筆性」が異なる意味で用いられているために、本議論はまるで噛み合っていません。それを藁人形論法と言うなら、かれこれ2か月もの長期にわたり、その原因に気づいていないか、気づいていても相手方に指摘しなかったことで、礼儀を忘れない、いつまでも納得しないなどと、議論の本筋からずれた言葉が飛び交っているのは、みそがいさんと月日に囚われた男さんの責任です。◆ところで、私は上のコメントでも『みそがいさんの除去理由にある「特筆性なし」とは(中略)WP:IINFO』と指摘したのですが、月日に囚われた男さんは参考にしたとおっしゃりつつ未だ誤解なさったままです。下線で強調されてはいるのですが、それより前の内容が月日に囚われた男さんの意見と異なっているため続きを読む気を失わせてしまったのではないかと、私の文章構成力の至らなさを感じています。--メリース会話2024年3月30日 (土) 19:05 (UTC)[返信]
この議論で私は上記の②の意味(情報の取捨選択である特筆性)で特筆性という語を使っているのはその通りですが、WP:IINFOだけではなくWP:!にあげられているWP:NOTEVERYTHING以下にある項目全体であるという認識です。WP:Nの「百科事典の記事として言及するにふさわしい価値が必要です。ウィキペディアでは、この価値を特筆性 (notability) と表現します」とWP:NOTEVERYTHINGの冒頭説明文(および以下の代表的な事例)が対応し、双方をもって記事において言及するにふさわしい価値(特筆性)の判断がなされると考えています。
当初、月日に囚われた男さんはそれを理解していたはずで、加筆しようとした文章の特筆性を議論されていましたから、その時点で齟齬があったとは思えません。しかしそこから議論を転換されたことについては私は理由が分かりません。ただ、メリースさんのおっしゃる通り、特筆性の議論ですから、あらかじめしっかりと語の共通認識を確認しておくべきだったと今更ながら反省する次第です。--みそがい会話2024年3月31日 (日) 00:11 (UTC)[返信]
メリースさんが論点を整理してくださったので、それに基づいて返信します。
みそがいさんは、②の意味で特筆性を使っているのはその通りと冒頭で認めながら、次の行ではWP:Nにも準拠しているかのような主張が見られます。真意はどっちにあるのでしょうか。WP:NWP:NOTEVERYTHINGの双方が対応していると解釈しているのであれば①の意味は棄却されないのではないですか。WP:Nに関しては、やはりどう読んでも記事の中身ではなく立項についての記述なので、内容の存廃の根拠にはならないという立場です。
「加筆しようとした文章の特筆性を議論されていましたから」についてですが、今でも変わらず、私自身は私の加筆点に関して特筆性は十分と考えています。理由は2024年3月12日 (火) 20:02 (UTC)で述べたとおりです。しかし、何気なく使っていた特筆性について主要に記述されたWP:Nを改めて読み込むと、特筆性は記事の内容を対象としておりません。これでは特筆性について議論すること自体が無意味です。なので、そのことを述べました。
みそがいさんが特筆性という言葉をそこまで具体的な意味としてではなく、「WP:NOTDICDEFWP:NOTADVICEWP:IINFOなどの基準を満たしていない」という程度を意味する一般名詞寄りの意味で使っているのだとしたら、それはそれで意味としては伝わりますが、今回の返信でもWP:Nにも準拠しているかのような表現が用いられ、混乱させられます。
便宜的に、WP:Nの事を忘れて、②の意味だけで捉えた場合、論点となるのは、WP:NOTDICDEFの#2と、WP:IINFOの二つに集約できると思います(WP:NOTADVICEは私の記述への適用ではなかったはずです)。
 その場合、2024年3月12日 (火) 21:39 (UTC)で述べた通り、WP:NOTDICDEFの#2は翻訳元となった「Articles about the cultural or mathematical significance of individual numbers are also acceptable」からも分かる通り、「文化的な意味の解説をしていたら少なくとも認められる」という容認例を二つ挙げて手本を示した文言であり、除去理由として不適だと考えます。
 WP:IINFOに関しては、「あらすじ」「歌詞」「統計」「変更履歴」の例示には当てはまらないと思いますが、「単に真実であるだけでは、たとえ検証可能であったとしても、百科事典に収録するのに相応しい内容であるとは限りません。」という部分は確かに無視できない重要な文言です。ここに関して「このような内容であれば収録しても良い」という目安があれば、助かるのですが、ありません。かといって、逆に「このような内容であったら収録してはいけない」と示された四例に当てはまっていないから収録しても良いのだ、と開き直るつもりもありません。結局のところ、ここでは「真実で検証可能であるだけでは足りない」と述べられているだけで、最終判断は利用者に委ねられています。その判断材料こそが「特筆性」だと、そのような事は明記されていませんが、メリースさんやみそがいさんはそのようにお考えなのですね?私としては、WP:NPOVに、「これらの(三大)方針を合わせて、記事に書き記すことが許される情報の種類と品質を決定しています。」とある通り、私の記述は真実であり検証可能性があることに加えて「中立的である(非中立的になりようがない)」「独自研究ではない」という二点が加味されて情報の質は高いと考えています。これに加えて更なる2024年3月12日 (火) 20:02 (UTC)の要素も付加的価値として追加されます。WP:IINFOに客観的基準が無い以上、ここまで要素を丁寧に列挙してもまだ「不十分だ」と、そう主張することは止められません。最終的には利用者の判断です。

このまま議論を進めたところで主観の相違にしか繋がらない可能性が高いので、ぷにをさんの提案通り、そろそろWP:DRのステップ4を視野に入れます。私としても、コメント依頼を募った以上、コメント参加者の方々の意見を受け止めます。残念な事ですが、反対意見が多かった場合、その場合は投票結果に基づいて行動します。--月日に囚われた男会話2024年3月31日 (日) 02:48 (UTC)[返信]


  • 「今でも変わらず、私自身は私の加筆点に関して特筆性は十分と考えています。理由は2024年3月12日 (火) 20:02 (UTC)で述べたとおりです」
とのことですが、その内容(理由)はWP:NOTDICDEF#2自体の解釈であり、月日に囚われた男さんはこの議論における「特筆性」とは「WP:NOTDICDEF#2」を満たすことであると見なしています。議論当初からその認識であったはずです。月日に囚われた男さんは、記事の内容における「特筆性」は方針文書に明記されていないとしながらも、記事の内容における「特筆性」の根拠は方針である「ウィキペディアは何ではないか」にあると既に認識していることになります。
  • 「まずもって特筆性の定義とその出典についておさらいして再確認する」(月日に囚われた男さん 2024年3月31日 (日) 03:10 (UTC) のコメント)
と月日に囚われた男さんはコメントしていますが、上記の通り自らの認識を明らかにされています。この議論における「特筆性」とは「ウィキペディアは何ではないか」に示されている内容であり(その方針文書のどの部分かは別として)、私を含め、コメントを寄せられた方々の共通認識であると思います。
さて、その中のWP:NOTDICDEF#2を文章通りに解釈するか拡大解釈するかはともかく、度々コメントしている通り、月日に囚われた男さんはどのような理由でその方針に則った加筆内容であるのかを説明する必要があります。既にそのような説明はしていると言われるかもしれませんが、それに納得、同意している本議論の参加者は現時点ではおりません。納得できる特筆性が説明できないならば、削除は妥当です。
WP:IINFOに関しては、節冒頭文書にあるように「この方針の冒頭でも説明したように、単に真実であるだけでは、たとえ検証可能であったとしても、百科事典に収録するのに相応しい内容であるとは限りません。ウィキペディアの記事は以下のようなものであってはなりません」とあります。加筆しようとした文章は事実ですが、当然ながらWP:IINFOWP:SURPLUSに照らして適切かどうかを判断する必要があります。また、「以下のようなものではあってはなりません」であって「以下のものであってはなりません」と限定していませんから、4つの例示以外のものでも構わないと解釈することもでき、いずれにしろ、節名でもある情報の無差別な収集と見なせます。
方針の解釈ではなく、加筆内容がどのように方針に則っているかを他者に理解できるように説明することが求められており、現時点ではそれに至っていないとしか言えません。私やコメントを寄せられた方々に対して、特筆性という語がこの議論において共通認識ではないという立場であるならばそれはそれで構いません。それならば私は「特筆性」と呼んでいる概念を「ウィキペディアは何ではないかに該当するか否か」と言い換えるだけです。月日に囚われた男さんは、他の議論参加者がすべて否定的見解である状況を今一度考える必要があると思いますがいかがでしょうか。
一般的に、事実は三大方針を満たすでしょう。しかし、三大方針を満たせばウィキペディアは何ではないかを自動的に満たすことにはなりません。別の方針文書であり、かつ同時に遵守しなければならないものだからです。一方を満たすから他方は満たさなくても良いということにはなりません。三大方針を満たすだけでは記載根拠にならないことを理解して下さい。要するに「特筆性ではなく三大方針によって記事に書くことができる内容と質が判断される」というお考えは妥当ではありません。本議論では特筆性こそが議論の中心です。三大方針に議論を誘導することは、加筆文章の特筆性が立証できないことの裏返しなのではありませんか。
--みそがい会話) 2024年4月6日 (土) 14:47 (UTC) (コメント引用元の明確化 --みそがい会話2024年4月10日 (水) 15:35 (UTC)[返信]
私用が立て込んでおり返信が遅くなって申し訳ございません。時間が確保できたので、返信させていただきます。
  • 月日に囚われた男さんはこの議論における「特筆性」とは「WP:NOTDICDEF#2」を満たすことであると見なしています。
見なしているとおっしゃいますが、みそがいさんが引用されたコメントの中にそのように読み取れる箇所はありましたか?コメント内においてWP:NOTDICDEF#2に関する言及は行いましたが、それはみそがいさんが持ち出した削除要件に対してであり、本議論中の”特筆性”がWP:NOTDICDEFによって規定されていることを示したものではありません。

  • その中のWP:NOTDICDEF#2を文章通りに解釈するか拡大解釈するかはともかく、度々コメントしている通り、月日に囚われた男さんはどのような理由でその方針に則った加筆内容であるのかを説明する必要があります。
個人的には違反していない事よりも違反している事を証明する方が簡単なので、そちらを主軸に議論を進めた方が良いとおもうのですが、説明する必要があるとの事なので、そのようにさせていただきます。
WP:NOTDICDEF#2の主旨は、「Wikipediaは辞書ではなく事典である」点を再確認するものです。
一文目において

「記事は人物、人間集団、概念、場所、出来事、物事などに関して解説するものです。」

と事典としてのWikipediaのあり方が説明されます。
二文目において、

「単語や句自体が百科事典的な主題となり得る場合もありますが、用語の複数の異なる定義や語法を解説するような百科事典の記事はまれです。」

とWikipediaを辞書のように扱う利用者に対して、Wikipediaが辞書ではない事を強調しています。
一文目と二文目には双方とも共通項として「解説」という単語が登場します。この部分に着目して整理すると「人物、人間集団、概念、場所、出来事、物事などに関して解説」するものが事典としてのWikipediaであり、「用語の複数の異なる定義や語法を解説」するものはレアケースを除いて辞書的ではあるが事典的ではないためWikipediaにおいては適合的ではないという事が読み取れます[1]
つまり、解説の対象が言葉の定義や語法に留まっているのか、それ以外の言葉の範疇を超えた幅広い事物に対する解説にまで広がっているのかという点が重要なのではないでしょうか。
私が加筆した「韓国ソウル特別市東経127度線が通過する」という一文は、一文目に照らし合わせた場合、「物事に関する解説」に該当するでしょう。二文目の「用語の複数の異なる定義や語法」に該当するかという事ですが、127という項目に対して、127という数字に関連した複数の物事に関する記述の一つという事で、ついガイドライン中の「複数の」に目がいってこれはガイドライン違反だという発想が思わず浮上してしまうかもしれませんが、「複数の定義や語法に関する解説がなされていること」と「解説が複数に及んでいること」は別です。二文目は複数の解説を行うことを抑止しているのではなく、辞書のように定義や語法に記事の焦点が当てられるべきではないと書かれていると読むのが妥当だと思います。一文目に示されたような「人物、人間集団、概念、場所、出来事、物事などに関する解説」が複数記載されるのは百科事典として見てもウィキペディアとして見ても普通の事でしょう。例えばりんごという物事に対して、生物としてのりんごの解説とニュートンやアップル社などに関する文化面からの解説が一つの記事で複数解説されます。私の加筆部分の見出しにも「その他127に関連すること」とあり、一文目の「物事に関する解説」として自然に馴染む文言だと思います。「韓国ソウル特別市東経127度線が通過する」という情報が、127という用語の定義や語法を解説したものではなく、127という数字を一つ事柄として見た時の解説である以上、「ウィキペディアは辞書ではありません」というガイドラインに関しては問題無いと言えます。

例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます。

に関しては、過去に解釈が分かれたように、確かに厳密な意味を読み取りづらい部分ではありますが、該当部分が翻訳によって成立した点と、翻訳元の文に、

Articles about the cultural or mathematical significance of individual numbers are also acceptable

とある点を考えても、「文化的あるいは数学的な意味を解説していないものは禁止する」との意味をこの一文に付け加えるのは拡大解釈だと思います。文化や数学に関する解説が推奨されている事は読み取れますが、それ以外が禁止されているとまで考えるのは踏み込みすぎでしょう。そもそもこの項目の中で原則として示されているのは、「人物、人間集団、概念、場所、出来事、物事などに関する解説」ですから、文化や数学の解説というのは辞書ではないという意味でのそれらの具体的な事例であり、本義は文化や数学の解説かどうか、ではなく辞書のようであるかどうか、に置かれていると考えるべきでしょう。
そもそも、前にも述べましたが、「韓国ソウル特別市東経127度線が通過する」というのは「文化的な解説」です。このように書くと「加筆部分が文化的な解説かどうかの話をしていたのに、文化や数学以外の解説が禁止されているかのガイドラインの解釈を巡る方向に議題を変えるのは自信が無いからだ」とおっしゃるかもしれませんが、私としてはどちらでも良いのです。まず文化的な解説という条件を満たしている上で、更に文化的な条件を必ずしも満たしていなければいけないというわけでもない。そのような状態で、どちらを議題にするのも勝手なのですから、「そもそもこの議論自体する必要はないのですか」とガイドラインを改めて確認することは順当だと思います。また、文化とは何かという抽象的な議論よりも成文化されたガイドラインを巡る議論の方が建設的に答えを導びきやすいでしょう。
  • 三大方針に議論を誘導することは、加筆文章の特筆性が立証できないことの裏返しなのではありませんか。
に関しても同様の事が言えます。どちらで論じても構わないのですが、より手間を省いて答えを出しやすい議題を選択しているだけです。また、そもそも議論のテーマ選びに関する動機を詮索すること自体、適切な議論の運びと言えるのでしょうか?「不利だから議題を逸らしたのでは」と言われても、「不利だから議題が変わることに反対しているのではないか」とも言えるわけです。水掛け論にしかなりません。私としては、より本質的で根本的な方向に議題を据えているつもりです。

今回の返信は以上となります。よろしくお願いします。
  1. ^ 細かい指摘になりますが、みそがいさんは以前ガイドラインは「尊重」するものではなく「遵守」しなければならないとおっしゃっていましたが、WP:5の五つ目には他の四つの原則以外に確固としたルールが存在しない事が示されており、みそがいさんが度々紹介なされているウィキペディアは何ではないかの中においてもウィキペディアは規則主義ではありませんとあります。また、WP:IARにおいては「あるルールのせいでウィキペディアを改善または維持することができないのであれば、そのルールを無視してください。」とまで記載されています。尊重か遵守かという言葉の表現に関する議論事態が主論からの逸脱を招くと考えて、言及はしませんでしたが、今回の返信の「適合的ではない」という部分に関して「適合的ではなく○○だ」と返信なされる可能性を考えてあえてご説明させていただきました。個人的には尊重か遵守か、適合的かあるいはそれ以外かといったような言葉選びに関する議論は重要度が高いと思えないので、よほどの理由がなければこの点に関する返信は不要です。

--月日に囚われた男会話2024年4月22日 (月) 08:32 (UTC)[返信]


まず、月日に囚われた男さんの議論姿勢に対して述べます。
  • 「文化とは何かという抽象的な議論よりも成文化されたガイドラインを巡る議論の方が建設的に答えを導びきやすいでしょう」
    • ガイドラインではなく方針文書です。そしてWP:NOTDICDEF#2は容易に意味のとれる方針文書であることは論を待ちません。「文化とは何かという抽象的な議論」と言われるならば、そもそも「文化的な解説」が何かを把握されていないのでしょうか。当該加筆文章の文化的な解説が抽象的議論であり説明できないのであれば本議論を続ける必要は全くありません。さらに「私としてはどちらでも良いのです」「どちらを議題にするのも勝手」とは、何のためのコメント依頼であるのか、私を含め議論に参加する皆さんに対して甚だ失礼な発言ではありませんか。
    • 単純にいえば、月日に囚われた男さんの当該加筆文章に対し適切な、つまり、誰もが納得出来る(文化的)特筆性の説明ができるのであれば何の問題もありませんし削除もされません。方針文書(WP:!WP:NOTDICDEF#2)に沿う内容だからです。それが本議論、本コメント依頼の主題ではないのですか。説明できないのであればそれで本議論は終わります。方針文書を再解釈するまでもない話です。
    • それをせず、いたずらに方針文書の解釈に誘導したり、特筆性よりも三大方針などという議論の主題を変転させる姿勢、しかも「どちらでも良い」との発言を加味すれば、既に指摘されているWP:IDIDNTHEARTHATは当然当てはまることになるでしょう。月日に囚われた男さん以外の議論参加者はすべて特筆性を否定しており記載に値しないとしています。ただ一人それを納得していないご自身の姿勢を見直すとともに、本議論を収束するにはどうすれば良いのかを考える必要があると思いますが如何でしょうか。
次に、個別のコメントに対して述べます。
  • 「本議論中の”特筆性”がWP:NOTDICDEFによって規定されていることを示したものではありません」
  • 「(WP:NOTDICDEF#2で)記事は人物、人間集団、概念、場所、出来事、物事などに関して解説するものです。」
  • 「「韓国のソウル特別市は東経127度線が通過する」という情報が、127という用語の定義や語法を解説したものではなく、127という数字を一つ事柄として見た時の解説」
  • 「「韓国のソウル特別市は東経127度線が通過する」というのは「文化的な解説」です」
    • この期に及んで本議論における特筆性の根拠を否定されるということは、月日に囚われた男さんにとって、事実であれば記事に何でも記載できるというお考えであるということでしょう。本議論で再三にわたり月日に囚われた男さんが当該加筆文章は「特筆性がある」と言われていたのは一体どういう意味だったのでしょうか。
    • WP:NOTDICDEF#2で「記事は人物・・・」とあるのは、当然全ての記事を包含しているものです。「127」は数値であって人物、人間集団、場所、出来事等ではありません。したがって、「例えば個々の数に関する記事は・・・」とさらに例示して数値記事の内容を限定的に明らかにしていると考えるべきです。
    • そして、月日に囚われた男さんは当該加筆文章を「文化的な解説」と他者が納得する理由なく繰り返すだけで、一向にその根拠は示されません。「記事は人物、人間集団、概念、場所、出来事、物事などに関して解説するもの」であることは規定されていますが、大前提として「ある情報が事実である、または有用であるとしても、それだけではウィキペディアという百科事典に掲載すべきだという根拠にはなりません(WP:NOTEVERYTHING)」を判断する必要があります。したがってWP:NOTDICDEF#2に照らして「何が文化的なのか」「なぜ文化的なのか」理由を示すことが必要であり、方針の解釈以前の問題です。
  • 「(WP:NOTDICDEFの)該当部分が翻訳によって成立した点と、翻訳元の文に・・・」
    • 前にも述べましたが、ここは日本語版ですから日本語版の方針文書を元に議論して下さい。その上で日本語版方針文書の文言に疑義がある等により変更する必要があるならば、方針文書の改訂議論を立ち上げて下さい。
    • 「例えば個々の数に関する記事は、それが文化的あるいは数学的な意味を解説するものであれば、許容されます」を単純に解釈すれば「数の記事が許容するのは、文化的あるいは数学的な意味の解説するもの」です。「許容される」の逆は「許容されない」のであり「記述することはできない」、つまり禁止されているのです。これは拡大解釈ではありません。月日に囚われた男さんの「文化的あるいは数学的意味の解説するもの”以外”も許容される」という解釈こそが拡大解釈でしょう。
  • 「みそがいさんは以前ガイドラインは「尊重」するものではなく「遵守」しなければならないとおっしゃっていましたが、WP:5の五つ目には他の四つの原則以外に確固としたルールが存在しない事が示されており・・・」
    • 私は「方針を遵守する」と発言しています。ガイドラインについてはそう発言していないと思いますので正確にお願いします。
    • WP:5は基本原則を示したものです。文書の形式上方針・ガイドラインではありませんが、その具体的な内容はWikipedia:方針とガイドライン以下の文章およびリンク先にあります。その上で「規則主義ではない」「確固としたルールが存在しない」とおっしゃるならば、月日に囚われた男さんにとってWikipediaはルール無用で何でもアリのプロジェクトであるという認識なのですか。そうではないと思いたいのですが。
    • 方針は「多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきものと考えられている基準です」と明記されています。尊重ではなく遵守するものです。三大方針もWP:!も方針です。なおWP:IARに言及されていますが、これは日本語版では方針でもガイドラインでもありませんから実質的な効力は不明確です。いずれにせよ議論においてコミュニティの合意を得ることが最優先されます。
さて、本議論において当該加筆文章が「127」に記載できるという合意はとれる状態でしょうか。コメント依頼では、その議論内容がコメント依頼者が望むものにならないことも受け止める段階にあると思います。
--みそがい会話2024年4月27日 (土) 14:05 (UTC)[返信]


メリースさん、私こそ誤解を与えてすいません。私は「みそがいさんの除去理由にある「特筆性なし」とは特筆すべきでない、つまりWP:IINFOでしょう」という記述を読みましたが、WP:IINFOに特筆性に関する記述は無く、みそがいさんもそうであると明言していないので留保しただけです。メリースさんの文章校正力のせいなわけがありませんし、私自身、その点についてきっちり読んでいます。
藁人形論法についてですが、私が指摘時点で主題として述べたのは、「特筆性の有無は除去理由になるか」という点についてです。「特筆性の有無」と「特筆性の有無が除去理由になるか」は別物だと思います。それが「また、月日に囚われた男さんからは「特筆性がある」が議論の主題であると再度表明されました。」の一言で、議論が強引に「特筆性の有無」に誘導され、未だに2024年3月30日 (土) 13:53 (UTC)に対する返事もありません。
特筆性の有無について論じる前に、まずもって特筆性の定義とその出典についておさらいして再確認する。議論を進める以上、欠かすことが無い点だと思い、議題にあげました。--月日に囚われた男会話2024年3月31日 (日) 03:10 (UTC)[返信]