ジョージ・ジャーメイン

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ジョージ・ジャーメイン卿 (1780年)

ジョージ・ジャーメイン(英:George Sackville, 1st Viscount Sackville、あるいはLord George Germain、1716年1月26日 - 1785年8月26日枢密顧問官、初代サックビル子爵)は、イギリスの軍人、政治家である。アメリカ独立戦争中はノース卿内閣のアメリカ植民地担当大臣を務めた。ジャーメインの執政はイギリスがアメリカ植民地を失ったことで大きな非難を受けた。ジャーメインの発した軍事関連の細かい指示は、彼が植民地の地理や植民地人の決意を理解できていなかったこととも相俟って、このような非難を呼ぶもとになったと考えられる。

ジャーメインは、アイルランド総督で初代ドーセット公爵ラオイネル・クランフィールド・サックビルの3男として生まれた。ジャーメインは1737年ダブリンにあるトリニティ・カレッジを卒業し軍隊に入った。ジャーメインの経歴は2つの流れがあった。軍隊での経歴では幾つかの功績を挙げたが、軍法会議で終わった。政界での経歴はノース内閣の大臣でアメリカ植民地の喪失とともに終わった。

軍歴[編集]

ジャーメインの軍歴は第7騎兵隊(後の第6竜騎衛兵隊)の大尉で始まった。1740年、ジャーメインはグロスターシャー歩兵連隊に中佐として転属した。この連隊はオーストリア継承戦争ドイツを転戦した。1743年に名誉昇進の大佐となり、1745年フォントノワの戦いではカンバーランド公ウィリアム・オーガスタスの歩兵隊を率いて参戦した。この時ジャーメインは捕虜となったが、負傷していたのでフランス軍は丁重に扱い釈放した。ジャーメインは帰国すると、第20ランカシャー擲弾兵連隊の大佐としてスコットランドに駐留した。

1747年1748年、ジャーメインは再びカンバーランド公部隊に加わり、第7アイルランド騎兵隊の大佐としてオランダで従軍した。戦争の合間に軍務を休み、ジャーメインの父の第1秘書官やアイルランド議会の議員を務めた。この期間のジャーメインはホモの評判も取ってしまった。

七年戦争の間、ジャーメインは軍務に復帰し、1755年には少将に昇進して規律を監督する職務に就いた。1758年、ジャーメインは第4連隊を指揮しマールボロ公チャールズ・スペンサーの部隊に中将として加わった。この部隊はドイツでブラウンシュヴァイク公子フェルディナントの同盟軍と合流した。マールボロ公が死ぬとジャーメインはイギリス軍の指揮官となった。

ミンデンの戦い[編集]

1759年8月1日ミンデンの戦いで、イギリス軍と同盟軍はフランス軍の中央に対し狂ったように勇敢な攻撃を仕掛け成功した。その攻撃部隊はフランス騎兵隊が迫り来る中で最後の瞬間まで溜め置かれ、10ヤード(9 m)もない至近距離からの一斉射撃で撃破した。フランス軍が撤退を始めると、フェルディナントは止めを刺そうとしてイギリス騎兵隊に突撃を要求したが、ジャーメインはその許可を出さなかった。フェルディナントは何度も要求を繰り返したが、ジャーメインは作戦指揮官のグランビー卿との仲が疎遠になっていたので、グランビー卿に「栄光の勝利」を得させるような許可を出せないままとなり、連合軍は決定的な勝利を得る機会を逃してしまった。その結果ジャーメインは免職され帰国させられた。

軍法会議[編集]

ジャーメインは命令不服従に対する責任を取ることを拒否した。イギリスに戻ったジャーメインは軍法会議を要求し、1760年にその要求が通った。しかし、軍法会議の結果は有罪となり、将軍職にある者に対してかつてない奇妙で重い判決となった。判決は、ジャーメインの除隊を追認し、ジャーメインは「イギリス軍の任務に適さない」とし、この判決文がイギリス軍のすべての連隊で読み上げられ記録されることとしていた。国王は枢密顧問から彼の名前を外した。

政歴[編集]

ジャーメインは1741年以来何度か議会議員を務めていた。ダブリンとウェストミンスター(ロンドン)の両方で何期かを務めており、同時ということもあったが、党派に偏ることは無かった。ジョージ3世が王座に就くと、政治の分野で名誉回復を始めた。

七年戦争の結果、ヨーロッパは模様見合いの様相であったが、否定的な要素は無かった。フランスに対する勝利によって植民地帝国となったイギリスは戦争で起こったことを忘れさせてしまうような気配だった。イギリスが戦争で負った負債の償還が難しく、不安定な内閣が続き、党派は離合集散を続けた。1763年、国王ジョージ3世は目立たないうちにジャーメインを枢密顧問に戻した。

ジャーメインは徐々にノース卿の支持に回り、1769年にはその立場を鮮明にした。1769年ジャーメインの妻エリザベスが亡くなり、相続人がいなかったのですべての遺産をジャーメインが相続した。このことはジャーメインの財政を改善したばかりでなく、名を上げる機会も与えることになった。1770年以降、ジョージ・ジャーメイン卿と呼ばれることになった。

1775年11月10日、ジャーメインはアメリカ植民地担当大臣大臣に指名された。この時、ノース内閣には3人の閣僚がいた。1人はヨーロッパを担当し、1人がアメリカ、もう1人がその他の地域だった。対外関係以外に、これらの閣僚は植民地の管理とその地域での軍事作戦の責任を持たされた。

このことは植民地における反乱を抑える主たる責任者ということであった。ジャーメインは将軍を昇進させたり解任したり、資金や物資の手当てをしたり、また戦争の戦略立案にも関わるようになっていった。ジャーメインの常の進め方は、「...暴徒は...政治的なことで思い煩うべきではなく、政治のことは理解していないのだ」と考え、「...植民地の田舎者が我々を鞭打てるはずがない」との考えに基づいていた。

ジャーメイン卿と首相のノース卿は直面する戦争について3つの仮定を作り上げた。1つはアメリカ軍はイギリス軍には勝てないということ。2つ目は、この戦争は過去にヨーロッパで戦い成功してきた戦争と似たようなものであるということ。3つ目は、イギリスの勝利によって植民地との同盟という目標に達することであった。この仮定はすべて覆されることになった。

1776年、ジャーメインはジョン・バーゴイン将軍と共に、サラトガ方面作戦の計画を立て、支援し、命令を発した。しかし、一方でウィリアム・ハウ将軍に出した命令が不明確であったことにより、作戦は失敗した。1781年には、チャールズ・コーンウォリス将軍とヘンリー・クリントン将軍に対する命令が錯綜し、ヨークタウンの喪失に繋がった。

独立戦争の後[編集]

1782年にノースが下野し、ジャーメインは閣僚ばかりでなく議席も諦めることになった。国王ジョージ3世はジャーメインを貴族に列し、サックビル子爵としたが、ジャーメインの採った独立戦争に対する政策が槍玉に挙げられた。ジャーメインが貴族院に列することに異を唱える者もいたが、ジャーメインの健康悪化がこの問題を沙汰止みにした。ジャーメインはサセックス州ストーンランド・ロッジの家に隠遁し1785年に死んだ。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Valentine, Alan. Lord George Germain. 1962.
議会
先代:
ホィスラー・ウェブスター卿
庶民院 イースト・グリンステッド選出
1761
次代:
トマス・ヘイルズ卿
先代:
チャールズ・ファーナビー卿
庶民院 イースト・グリンステッド選出
1767 - 1782
次代:
ヘンリー・アーサー・ハーバート
公職
先代:
エドワード・ウェストン
アイルランド担当長官
1750 - 1755
次代:
ヘンリー・シーモア・コンウェイ
先代:
ダートマス伯爵
貿易担当大臣
1775 - 1779
次代:
カーライル伯爵
先代:
ダートマス伯爵
植民地担当大臣
1776 - 1782
次代:
ウェルボア・エリス
軍職
先代:
ジョン・リゴニエ卿
陸軍中将
1757 - 1759
次代:
グランビー公爵ジョン・マナーズ
グレートブリテンの爵位
先代:
新設
サックビル子爵
1782 - 1785
次代:
チャールズ・サックビル