キャロル・ディアリング号

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発見されたキャロル・ディアリング号。撮影はアメリカ合衆国沿岸警備隊による

キャロル・ディアリング号: Carroll A. Deering)は商業スクーナー船である。この船は1921年にアメリカ合衆国、ノースカロライナ州のケープ・ハッテラス(Cape Hatteras)沖において座礁しているところを発見された。

発見当時、この船には乗員が一人も乗っていなかったため、航海史上の謎としてしばしば取り上げられる。このような状況となった原因として、バミューダトライアングルの犠牲となった、暴動が起こった、海賊による被害にあったなどの推測がなされている。また本船と同じような事件にはメアリー・セレスト号の事件がある。

キャロル・ディアリング号は、1919年にG.G.ディアリング社(G.G. Deering Company)により、メーン州バス(Bath)において商業用に建造された船である。会社のオーナーは自分の息子の名にちなんで船名を付けた。この船は貨物を運搬する計画に基づいて建造され、1年間使用された後に謎めいた最後の航海に出発した。この船はまもなくブラジルのリオ・デ・ジャネイロに行くはずであった。

最後の航海[編集]

1920年8月19日、ディアリング号は、ヴァージニア州ノーフォーク(Norfolk)からリオ・デ・ジャネイロまで石炭を載せて航海する準備を整えた。本船の船長はウィリアム H. メリット(William H. Merritt)であった。またメリットの息子スーワル(Sewall)は一等航海士であった。10人の乗組員はスカンディナヴィア人(大部分はデーン人)ばかりであった。

1920年8月22日、ディアリング号はニューポート・ニューズ(Newport News)を発った。8月後半にメリット船長は病気になり、デラウェア州ルイス(Lewes)の港で息子とともに下船しなければならなかった。ディアリング社は彼に代わる船長を急いでさがさねばならず、引退した66歳の古参船長であるW.B.ワーメル(W. B. Wormell)を雇用した。またチャールズ・B・マクレラン(Charles B. McLellan)が一等航海士として雇われた。

1920年9月8日、本船はリオをめざしてふたたび出航し、同地に着き、事故無く貨物を引き渡した。ワーメルは乗組員に休暇を与え、別の貨物船の船長をつとめる旧友であるグッドウィン船長にぐうぜん出会った。ワーメルは乗組員のことを軽蔑の念をこめて話したが、ただしハバート・ベーツ技師(Herbert Bates)に関しては信頼を置いていると主張した[1]

この後、ディアリング号は1920年12月2日にリオを発ち、補給のためにバルバドスに立ち寄った。このとき一等航海士マクレランは町で酔い、「スノー号」(Snow)のヒュー・ノートン(Hugh Norton)船長に対し、「自分はワーメルの妨害なしに乗組員の訓練ができない」と述べたほか、「ワーメルの弱い視力のために自分がすべての操縦をしなければならない」等の不平を述べている[2]。のち、ノートン船長と一等航海士、および別の船の船長がコンティネンタル・カフェ(Continental Café)に居たところ、マクレランが「おれはノーフォークに着く前に船長をやっつけてやるぜ」("I'll get the captain before we get to Norfolk, I will")と述べるのを聞いている[2]。マクレランは逮捕されたが、しかし1月9日、ワーメルは彼を許し、保釈して牢から彼を出し、ハンプトン・ローズ(Hampton Roads)に向けて出航した[3]

1921年1月28日、ディアリング号は次に、ノース・カロライナ州のケープ・ルックアウト(Cape Lookout)の灯台船によって目撃されている。灯台船の管理者である船長ジャコブソン(Jacobson)は、外国語なまりのある赤毛のやせた男が自分に、この船は錨を失ってしまったと語ったと報告した。ジャコブソンはこのことに留意したが、しかし無線機は故障していたため、彼はそのことを報告することができなかった。彼は乗組員が船の前甲板を「うろつき回っている」("milling around")ことに気づいたが、その区域は通例、彼らの立ち入りが許可されていなかった。

難破[編集]

1921年1月31日、ディアリング号はダイアモンド・ショールズ(Diamond Shoals)に座礁しているのが目撃されたが、そこはノース・カロライナ州ケープ・ハテラス(Cape Hatteras)の沖合で、長い間、難船の多い場所として有名であった。救助船団は悪天候のために船に近づくことができなかった。船に乗船したのは2月4日になってからであったし、船は完全に放棄されていたことが明らかになった。船の航行日誌と航海装備は失われており、そのほかに乗組員の所持品と船の救助艇2隻も失われていた。船の厨房には食品が残されており、この様子からは放棄した時の翌日の食事のために準備中であったことが推測された。沿岸警備隊の船マニング号(Manning)がディアリング号を救助しようと試みたが、しかし不可能であると判った。ディアリング号は他の船舶にとって危険な障害物にならないよう、3月4日、ダイナマイトを用いて穴を開けて沈められた。

探索[編集]

合衆国政府は、ディアリング号の乗組員の失踪について広範囲にわたる捜索に乗り出した。政府の5つの機関、商務省、財務省、司法省、海軍および国務省が事件を調査した。 当時商務長官であったハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover)は、さまざまな国籍の幾隻かの船が同様にほぼ同じ海域で行方不明になっていたという事実に好奇心をそそられた。中でも特に有名なのは硫黄貨物船ヒューイット号(Hewitt)である。 こうした船の大部分はのち、特に猛烈な一連のハリケーンの近くを航行中であったことが明らかになったが、ヒューイット号とディアリング号は当時、嵐の海域からは離れて航行していたことが判明した。

フーヴァーの補助者としてローレンス・リッチー(Lawrence Ritchey)が捜査を任された。リッチーは、ケープ・ルックアウトでの最後の目撃とダイアモンド・ショールズでの座礁とのあいだ、船に何が降りかかったのかを、これらの場所に配置された沿岸警備隊の灯台船の航海日誌を読むことによって図で示そうと努めた。

諸説[編集]

捜査中とその後に人気を博した説は多かった。最初は、外的な力が失踪の原因であるように思われた。

1921年4月11日、クリストファー・コロンブス・グレー(Christopher Columbus Gray)という男が、ノース・カロライナ州バクストン・ビーチ(Buxton Beach)の水面に浮いている瓶のなかに、伝言の書かれた紙片を見つけたと主張した。彼はそれをただちに当局に引き渡した。グレーはのち、自分が回収した手紙は偽造であったと認めた。伝言書の文面は次の通りであった:

ディアリング号は追跡者か何かのような重油燃焼船に捕えられた。すべてが取り上げられ、乗組員が手錠をかけられている。乗組員は船内全てに隠れており、逃げる機会はない。発見者はどうかディアリング本社に通知してください。

手紙の筆跡は、ワーメル船長の未亡人によって船の技師ベーツのそれと一致させられ、また瓶はブラジル製であることが判明した。これはディアリング号のすぐ後を追ってケープ・ルックアウト・ライトシップに到着した「謎めいた」("mysterious")汽船の目撃とともに、敵意を抱く人々が原因であることを示すように思われた。しかしこれがまた論争を引き起こした。「もしある乗組員がなんとかして紙、ペンおよび瓶を手に入れ、手紙を書いたならば、なぜ彼は、警察あるいは沿岸警備隊ではなく会社に通知するよう要求したのだろうか?」

以下の諸説が、捜索の過程で合衆国政府により考慮された。

  • ハリケーン:合衆国政府、特に気象局は、失踪の原因として大西洋で猛威を振るっている一連の猛烈なハリケーンを強く主張した。しかしながら上述のように、ディアリング号とヒューイット号の両船とも、蒸気推進でこれらの嵐の進路から遠ざかりつつあった。とにかく、ラリー・クッシュ(Larry Kusche)およびリチャード・ワイナー(Richard Winer)をふくむ幾人かの作家は、船の状態が恐慌を起こした避難というよりもむしろ、秩序正しい避難を示すことを指摘している。
  • 海賊行為:合衆国海洋船舶連盟(the United States Marine Shipping Board)のO.W.パーカー(O.W. Parker)船長は海賊行為が原因であると確信していた。彼は、自分の意見では、「海賊行為はフェニキア人の時代から疑いなくなおも存在している」と述べた。ワーメル船長の未亡人は、この説の特に強い擁護者であった。一団の海賊がさまざまな失踪の原因であると信じられていた。しかしながら、この説の物的証拠は現われなかったし、海賊の被疑者は捕えられなかった。
  • ロシアの/共産主義者の陰謀:ニュー・ヨーク・シティにあるロシア連合労働者党(United Russian Workers Party)(共産主義者の表向きの組織)の本部にたいする警察の強制捜査の間に、職員らは、組織の構成員にアメリカの船を差押え、ロシアまで航行させるように呼びかける文書を見つけた。これらの文書は、共産党の陰謀が企てられ、前年の幾隻かの船舶攻撃に状況的に結びついていることを示した。これは、当時ディアリング号に関して広く信じられており、また特に政府内の強硬路線の反共産主義者らによって信じられた。好奇心をそそる連想であるけれども、これらの活動のいずれかが実際に実行されたという決定的な証拠は表面化していない。
  • ラム酒密輸犯:上記のものと似た説は、バハマから活動している一団の酒類密輸犯が、ラム酒の密輸船として用いるために船を盗んだと推理するものである。この事件が発生した当時は禁酒法時代のことであった。リチャード・ワイナー(Richard Winer)の『Ghost Ships』によれば、ディアリング号は、船倉にざっと100万ドル相当の酒類を運ぶだけの大きさを有していた。しかし他方、このように目立って容易に区別できる比較的低速の船が、密輸犯の選ぶ標的になるかどうかは疑わしい。
  • 暴動:ワーメルと一等航海士との間に起き、認知されている衝突と、リオ・デ・ジャネイロでの乗組員に対する嘲笑的な評言は、船長と部下たちとのあいだで、航海中に何か不和が起こっていたかもしれないことを示唆する。ケープ・ルックアウトにおけるジャコブソン船長は、この船の様子がたしかにおかしいと考えていた。ジャコブソン船長の船に大声で呼びかけた男がワーメル船長で「なかった」ことは明確であるし、だれの話でも彼は幹部船員(officer)ではなかった。メーン州上院議員フレデリック・ヘール(Frederick Hale)はこの説を擁護し、これは「明白な暴動事件」("a plain case of mutiny")であったと述べた。船長にたいする不満はたしかに乗組員の暴動を引き起こしたということもあり得るが、しかし決定的なことは何も証明されていない。

不可避なことであるかもしれないが、事象から数十年もしないうちに、異様な型の説明が広まった。

  • 超常的説明:本船の乗組員の失踪は、異常現象と超自然的なものを扱う作家によって引証されてきた。チャールズ・フォートは、著書『Lo!』(1931年)において、この船について初めて「謎めいた」("mysterious")文脈で言及した。海の謎を描く、その後の多くの年代記作者らはそれに倣った。この船が、いわゆるバミューダトライアングルの一部であると一般に見なされる海域を航行したため、乗組員の失踪はしばしばこの事実と結びつけられてきた[4]。しかしながら、船の永眠の場(ダイアモンド・ショールズ)、およびその最後の目撃と交信の知られている最後の場所(ケープ・ルックアウト)は、一般にバミューダ・トライアングルと知られる海域からは数百マイル離れていることは注意されなければならない。

捜索の結末[編集]

捜査はおもに成果が無いままであったが、しかしクッシェ(Kusche)によれば、クリストファー・コロンブス・グレーが、自分が回収した手紙は偽造であったと認めたとき、それは興味深い展開を見せた。

「モン・サン・ミッシェル号」(Monte San Michele)の失踪にかんするイタリアの調査が、近くでほんとうに激しいハリケーンがあったことを明らかにしたとき、陰謀説の大半は捨てられたし、判じ物の答えとして暴動が一般に認められた。

1921年7月、ポルトガルの総領事館が、アウグスト・フレデリコ・マルティンス(Augusto Frederico Martins)という船員が行方不明の乗組員の一員ではないかとの嫌疑をかけられていることを報告したが、やがてのちに彼はポチュガル号(Portugal)の料理人であると判った。

行方不明のヒューイット号の乗組員の一員であるB.O.レーニー(B.O. Rainey)が別の船で働いていると判って、別の潜在的な手がかりが見つかった。しかしながら彼は、州政府職員の接触を受けたとき、自分はヒューイット号がテキサス州サビーン(Sabine)の港を発つまえに下船したと主張した。

捜査は1922年の後半、ディアリング号の運命について公式の裁定がないまま、最後には段階的に縮小した。

結論[編集]

キャロル・ディアリング号の乗組員の失踪の説明は、公式に立証されなかったけれども、本物の証拠のすべては暴動を示しているように思われる。それであるにもかかわらずこの事件は、超常現象の肯定論者とバミューダ・トライアングルの支持者のお気に入りであるし、また海の真に大きな謎のひとつとして、メアリー・セレスト号の後継としての名声を得ている。

脚注[編集]

  1. ^ Graveyard of the Atlantic page
  2. ^ a b Simpson, Bland (2005), Ghost Ship of Diamond Shoals: The Mystery of the Carroll A. Deering, UNC Press, pp. 55–7, ISBN 978-0-8078-5617-8, http://books.google.com/?id=9JuNcIrkjx8C&pg=PA56&dq=McLellan 
  3. ^ Bland (2005) p60
  4. ^ Eyers, Jonathan (2011). Don't Shoot the Albatross!: Nautical Myths and Superstitions. A&C Black, London, UK. ISBN 978-1-4081-3131-2.

参考文献[編集]

新聞
  • "Piracy Suspected In Disappearance Of 3 American Ships," New York Times, June 21, 1921.
  • "Bath Owners Skeptical," New York Times, June 22, 1921.
  • "Deering Skipper's Wife Caused Investigation," New York Times, June 22, 1921.
  • "More Ships Added To Mystery List," New York Times, June 22, 1921.
  • "Hunt On For Pirates," Washington Post, June 21, 1921
  • "Comb Seas For Ships," Washington Post, June 22, 1921.
  • "Port Of Missing Ships Claims 3000 Yearly," Washington Post, July 10, 1921.
書籍

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度15分45秒 西経75度29分30秒 / 北緯35.262440度 西経75.491695度 / 35.262440; -75.491695