カール11世 (スウェーデン王)

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カール11世

カール11世(Karl XI, 1655年11月24日 - 1697年4月5日)は、プファルツ朝第2代のスウェーデン王(在位:1660年 - 1697年)。カール10世ホルシュタイン=ゴットルプ公女ヘートヴィヒ・エレオノーラの唯一の子。

生涯[編集]

1655年、カール10世のポーランド遠征中に生誕した。父は北方戦争の最中であったため、カールと会ったのは1658年の事である。しかし父は再びデンマークと戦争を再開したために1660年の父の病死によって再会は叶わなかった。

父の死によってカール11世として即位したが、4歳と幼いため摂政制が敷かれた。この摂政政府時代にスウェーデンは北方戦争が終わり平和の時代が訪れ、1662年ドロットニングホルム宮殿の建設が始まり、1686年に完成している。1666年ルンド大学が設立されているが、同年には摂政団と母の王太后ヘトヴィヒ・エレオノーラによって遺跡の保護の布告を出している。1668年にはスウェーデン国立銀行が開設された。

この時代のスウェーデンの外交方針は基本的に中立ではあったが、ヨーロッパの安全保障に絡み、主にフランスとの友好が図られた。1661年にはフランスと同盟が結ばれているが、ネーデルラント継承戦争では勢力均衡と新教国の立場からオランダイングランド三国同盟を結んでフランスに圧力をかけ、アーヘンの和約を結ばせている。しかし、財政問題を解消できなかったことから、1672年に資金援助を目的に再びフランスとの同盟(仏瑞同盟)を余儀なくされ、オランダ侵略戦争において、周辺国から挟撃されることとなった。結果としてスウェーデンの弱体化が露呈し、大国としての地位は不安定なものとなった。これは後に摂政政府の失政とされ、カール11世の親政に大きく影響を残すこととなった。

1672年、17歳となったカール11世はウプサラで戴冠し、親政を開始する。親政当初のカール11世は財政問題に忙殺された。また、1675年から始まるスウェーデン・ブランデンブルク戦争スコーネ戦争の2つの戦争によって露呈した軍事力の弱体化も、解決すべき問題であった。カール11世は、スコーネ戦争においては自らスコーネへ親征するなどして有能な君主として評価もされたが、結果としてドイツ神聖ローマ帝国)での影響力を失い、ブランデンブルク=プロイセンの台頭を許すこととなった。これらの戦争はスウェーデンの実質的な敗戦ではあったが、スコーネ戦争におけるカール11世の指導力は国内で高く評価された。相次ぐ苦戦は大貴族の失策と捉えられ、カール11世の絶対王政容認へと至ることとなり、外交でも同盟国フランスの主導で戦争に引きずられたり講和が成立したことは大きな問題であり、政府は反省からフランスと手を切りデンマークとの関係修復に取り組み、1680年にカール11世とデンマーク王女ウルリカ・エレオノーラが結婚している(ルンド条約[1]

1682年、カール11世は元老院の支持の元、身分制議会の勢力を抑えて主権を国王に集中し、スウェーデンを絶対君主制へと移行させた(カール朝絶対主義と呼ばれる)。しかし絶対君主制の確立や、1680年から1682年までの大規模な国政改革は、寵臣ユーハン・ユレンシェーナの協力なしにはあり得なかった。1680年にユレンシェーナが急死するというアクシデントはあったが、同年に開かれた議会で大貴族の土地を王領地に変更して貴族の勢力を大幅に削減、宰相マグヌス・デ・ラ・ガーディエを始めとする摂政団の責任追及と賠償金請求で貴族の権威も失墜、王は神に対してだけ責任を負うとする決議が採択され、中小貴族と市民の支持による絶対君主制の成立に繋がった。1682年に土地回収政策を実行して収入を増加させ、それを元に徴兵制で兵士を集め常備軍を有する軍事国家に生まれ変わらせたほか、1693年の議会で王の絶対性が宣言され権利の合法性も認められた[2]

カール11世(1685年

1689年には、デンマークによってシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を追放され、亡命中のホルシュタイン=ゴットルプ公クリスティアン・アルブレヒトがスウェーデンと組んで対デンマーク戦争を仕掛けるなど緊張状態が生じたが、カール11世や神聖ローマ皇帝レオポルト1世の抗議でデンマーク王クリスチャン5世がクリスティアン・アルブレヒトに領国を返還した事により戦争の危険は回避された。カール11世はホルシュタイン=ゴットルプ家との同盟関係を強化したがデンマークやホルシュタイン=ゴットルプ家との関係はより複雑なものとなった。カール11世の晩年のスウェーデン・デンマーク関係は比較的良好ではあったものの、シュレースヴィヒ公国内のゴットルプ公領の相続を巡るデンマークとホルシュタイン=ゴットルプ公の紛争に対して、カール11世が調停に当たったが病に伏し果たすことが出来なかった。

また1686年には、プファルツ選帝侯の相続を巡るフランスの介入に対し、アウクスブルク同盟に参加し大同盟戦争へと雪崩込んだ。これには前年の1685年にフランスで発令されたナントの勅令廃止(フォンテーヌブローの勅令)への不快、1681年に相続したプファルツ=ツヴァイブリュッケン公領の奪回、さらには帝国諸侯としてのレーエン関係の修復などが契機として挙げられる。とはいえ、1679年にデンマークと締結したルンド条約以後、スウェーデンとその属領は戦場とならなかったため、スウェーデン及び北方の安定した平和の時代であるとも評された。

カール11世は大同盟戦争の終結を見ずに1697年4月に没し、息子のカール12世が僅か15歳で王位を継承した。講和条約(レイスウェイク条約)はその年の9月に結ばれ、スウェーデンは大同盟戦争には直接参戦はしていなかったが、アウクスブルク同盟国として対仏同盟側を支援した。そして講和条約締結に関わったことで、スウェーデンはその保障として帝国の領邦であるプファルツ=ツヴァイブリュッケン公領を獲得した。さらにザクセン=ラウエンブルク公領の相続人に名乗りを上げたが、公領を領有していたリューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルム1693年にクリスチャン5世とハンブルクの和議を結んだため、リューネブルク侯とその相続人であるハノーファー選帝侯家によって継承されることとなった。

人物[編集]

カール11世は読み書きが得意ではなく、スウェーデン語以外にはドイツ語しか解さなかったために、有能ではないと見なされていた反面良き聞き手でもあり、特に聖書は彼の重要な教育書であった。また、内政においては土地改革や商業の促進などを行い、バルト海に繁栄をもたらし、スウェーデン本国に関しても鉄鉱業を促進させるなど財政問題に対処した。さらにカール11世は、貴族から領地を取り上げて王領地を増やしたり、自作農民を増加させたことで「農民王」の異名を得た。一面では気性が荒く、行動の人物であり、軍事に関しても先の両戦争を反省し、軍事改革に邁進した「軍人王」でもあった。乗馬や狩り、騎馬訓練が趣味であったことにそうした性格が示されている。また、治世中はスウェーデンで魔女狩りが頂点に達した時代でもあったが、魔女とされた人間は精神障害者が該当していたとも言われている。

カール11世は現在もスウェーデン・クローナ紙幣の500クローナに肖像が用いられるほどの著名な人物であるが、必ずしも理想的な君主ではなかった。バルト海を支配する君主として時には冷淡でもあり、反逆する者に対しては容赦せず、財政を立て直すために重税も課した。特にフィンランドに対するスウェーデン同化政策は圧政に等しく、カール11世の死没前後にはフィン人による反乱も起きている。カール11世は「ヨーロッパ大陸で起きる戦争には関与するべきではない」という遺言を残したが、反撃の機会を狙っていた周辺諸国にとってカール11世の急死は好機であり、その死は北方の平和の時代の終焉であった。カール11世の王位を継いだ若きカール12世は、望むと望まないにかかわらず、戦乱の世の幕開けを迎えることになった[3]

家族[編集]

1680年、ルンド条約によりデンマーク・ノルウェー王フレデリク3世の王女ウルリカ・エレオノーラと結婚した。ウルリカ・エレオノーラとの間には7人の子供が生まれたが、4人は夭折し3人が成人した。

文化財保護[編集]

カール11世の摂政政府時代の1666年11月14日、摂政団と王太后によって遺跡物の保護を目的とした「我が祖先と全王国の名誉をたかめうるような記念物」、「父祖の地でこれまで生活した人びとを想起させる古代記念物」の保護を布告した。これは、ヨーロッパで国家が文化財保護に乗り出した最初の事例である。

脚注[編集]

  1. ^ 入江、P70 - P77、P90。
  2. ^ 入江、P98 - P125、P136 - P146。
  3. ^ 武田、P68 - P72。

参考文献[編集]

  • 武田龍夫『物語 スウェーデン史 -バルト大国を彩った国王、女王たち-新評論、2003年。
  • 入江幸二『スウェーデン絶対王政研究 -財政・軍事・バルト海帝国-知泉書館、2005年。

関連項目[編集]

先代:
カール10世
スウェーデン王
1660年 - 1697年
次代:
カール12世
先代:
フリードリヒ・ルートヴィヒ
プファルツ=ツヴァイブリュッケン公
1681年 - 1697年
次代:
カール2世