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鮫川橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鮫川橋(さめがわばし)は、福島県いわき市にある二級水系鮫川を渡る道路橋であり、同名の橋梁が複数存在する。

常磐自動車道

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E6

概要

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沼部町字樋向、字古川から山田町字上新切に至る。常磐自動車道いわき勿来インターチェンジ - いわき湯本インターチェンジ間に位置する。完成当時より上下片側2車線にて供用されている。

沿革

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周辺

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福島県道56号常磐勿来線

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福島県道56号標識

概要

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植田町字下川原から錦町字大島に至り、車道2車線で供用されている。すぐ上流側にはJR常磐線鮫川橋梁が並行してかかり、また北側にはループ状に交差する福島県道20号いわき上三坂小野線を跨ぐ植田跨道橋(別名鮫川2号橋)と接続する。

沿革

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  • 江戸時代 - 当地には陸前浜街道が通っていたが鮫川に架橋はなく、両岸の大島宿と植田宿との間は渡し船で往来が行われていた[4]
  • 1881年(明治14年)12月 - 船10隻を鉄線で結び、その上に板を渡した舟橋が架けられる。当時は十船橋(とふねばし)と呼ばれていた[4]
  • 1902年(明治35年)3月 - 木橋の鮫川橋へと架け替えられる[4]
  • 1913年(大正2年) - すぐ西側に1897年(明治30年)2月に開通したJR常磐線(当時は日本鉄道磐城線)鉄橋の橋脚により発生する水流により度々破損したことから、水害復旧事業として築堤を建設した上で再び木橋として架け替えられる[4]
  • 1936年(昭和11年) - その後も度々損傷したことから永久橋を求める声が高まり、国道6号の舗装改良工事の一環として従来の木橋から100m上流側に建設が始まる[5]
  • 1939年(昭和14年)7月24日 - 全長400 m、幅員7.5 mの19径間鉄筋コンクリートゲルバー橋として開通する[5]
    • 総工費は当時の価格で36万5000円。当時の石城郡内ではの平神橋に次いで2例目のコンクリート橋であり、以後20年間東北地方で最も長いコンクリート橋でもあった。従来から存在した木橋は大倉橋と以後呼ばれるようになり、当時の錦村民が対岸に向かう生活道路として利用された[4]
  • 1971年(昭和46年)3月 - 戦後、モータリゼーションが進行し国道6号の交通量増加により歩行者の往来に危険があったため、幅員2.5 mの人道橋が設置される[5]。。
  • 1973年(昭和48年) - 約700 mほど下流側に掛けられた鮫川大橋を含む常磐バイパスの開通により国道6号から福島県道56号常磐勿来線として当区間が福島県へ移管される。
  • 1982年(昭和57年)9月 - 台風により大倉橋が流出する。前述の人道橋設置のために掛け直されることはなかった[4]。。
  • 2002年度(平成14年度) - 建設から半世紀以上を経て老朽化が進んだことから、取付道路を含む900mを下流側に隣接した場所に新設することとなり、鮫川橋工区として着工される[5]
  • 2011年(平成23年)2月18日 - 現在の鮫川橋が開通する[5]
    • それまでの道路敷地はポケットパークとして整備され、1961年(昭和36年)11月に建立された、歴代の鮫川橋建設に尽力した福島県議会議員安島重三郎、貴族院議員金成通(錦町に現在の呉羽化学の工場を誘致した人物である)、植田町長古川傳一を顕彰する鮫川晩照の碑、浜街道と白河道(現在の福島県道20号いわき上三坂小野線の一部)を示す道標、吉田松陰来歴の碑、植田町道路元標、錦村道路元標、地域の歴史を記した標板などが両岸に設置されている[5]

周辺

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脚注

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  1. ^ a b c d 道路台帳(高速自動車国道) 常磐自動車道・東京外環自動車道 - 国土交通省
  2. ^ a b c 橋梁年鑑 鮫川橋詳細 - 日本橋梁建設協会
  3. ^ a b c d e f 福島県の橋梁 平成23年度版 - 福島県
  4. ^ a b c d e f いわきの今むがし 『「鮫川橋」と「十三枚橋」』 - いわき市
  5. ^ a b c d e f いわきの今むがし 『鮫川橋』 - いわき市