藤原真夏

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藤原 真夏
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 宝亀5年(774年
死没 天長7年11月10日830年11月28日
官位 従三位参議
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原内麻呂、母:百済永継
兄弟 真夏冬嗣秋継桜麻呂福当麻呂長岡、率、愛発大津、収、平○○、恵須子、緒夏嵯峨天皇夫人)、紀有常
異父同母弟:良岑安世
三国真人、橘清友の娘、伊勢老人の娘
越雄濱雄関雄平雄竹雄吉備雄是雄多雄、恒雄、松雄栢雄輔房藤原高房室、藤原愛発室、藤原近岑室、藤原三成
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藤原 真夏(ふじわら の まなつ、宝亀5年〈774年〉 - 天長7年〈830年〉)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族右大臣藤原内麻呂の長男。官位従三位参議

経歴[編集]

延暦22年(803年従五位下中衛権少将に叙任されると、同年7月に春宮権亮、翌延暦23年(804年)春宮亮を兼ねて、桓武朝末に同い年である皇太子・安殿親王に側近として仕えた。大同元年(806年)安殿親王が即位平城天皇)すると、同年従五位下から一挙に従四位下まで昇叙されて近衛中将に任官するなど、急速な昇進を果たす。平城朝では近衛中将のほか内蔵頭中務大輔などの要職を兼帯し、天皇の側近として近侍した。

大同4年(809年)4月に嵯峨天皇が即位すると山陰道観察使として公卿に加わる。一方で、同年11月には左馬頭藤原真雄左少弁田口息継、左近衛少将・藤原貞本らとともに平城京に建設する宮殿の敷地占定を行い[1]、大同5年(810年)正月には造平城宮使に任ぜられるなど、他の平城上皇の腹心とともに上皇が平城京に移るための業務を担当した。同年、正四位下参議(観察使制度廃止による)に叙任される。

同年9月に発生した薬子の変では当初平城宮にいたが、事件が明るみに出ると文室綿麻呂とともに平安京に召喚される[2]。これは、嵯峨天皇側による平城上皇側の状況の確認および嵯峨側への寝返りを促すことが目的であったとみられ[3]、綿麻呂は坂上田村麻呂からの申し出もあって平城追討軍として出陣した。しかし、真夏は翻意せず平城への忠誠心を保持し続けたらしく、東国に向かう平城らと行動を共にしなかったものの、事件に連座して参議を解官の上、伊豆権守のち備中権守左遷された。

弘仁3年(812年)罪を赦されて本官(備中権守)に復帰する。その後、帰京を許された時期は明らかでないが、弘仁11年(820年)平城上皇の使者として正倉院御物の出納を注文した記録が残っていることから[4]、それまでに帰京し平城上皇に近侍していたものと考えられる[5]。しかし、嵯峨天皇の近臣である弟・冬嗣の急速な昇進を横目に真夏の昇進は遅滞し、弘仁12年(821年)冬嗣が右大臣に昇ると、翌弘仁13年(822年)真夏は12年振りに昇叙されて従三位となりようやく公卿の座に復した。のち、平城上皇が居住する大和国国司を務めたほか、弘仁14年(823年)4月に平城上皇が平城宮の諸司を停止し、少数残っていた平城宮の官人朝廷に返却した際、諸司停止の書状を朝廷に届ける使いを[6]、あるいは同年5月に平城上皇が太上天皇尊号を除く事を請う書状を淳和天皇に提出した際も同様に使者を務める等[7]、平城上皇の最晩年までその近臣として上皇と朝廷との間を取り持つ役割を担った。

左大臣に昇った同母弟冬嗣より長命を保つが、最終官位散位従三位に止まる。天長7年(830年)11月10日薨去享年57。

なお、藤原北家の嫡流は弟である冬嗣の子孫に譲ったが、真夏の子孫からは日野家を初めとして、広橋家柳原家烏丸家竹屋家日野西家勘解由小路家裏松家外山家豊岡家三室戸家北小路家の計12家の堂上家が成立し、後世真夏流と呼ばれる。

人物[編集]

言葉を巧みに飾る性格で、時宜に合わせた処世ができた。音楽の才能にも非常に恵まれており、大同年間の初めに大嘗会所を務めた際、華美な標を作って八佾はちいつの舞を華やかに演出した。これ以降、大嘗会に莫大な費用をかけるようになったという[8]

官歴[編集]

注記のないものは『日本後紀』による。

系譜[編集]

尊卑分脈』による。

脚注[編集]

  1. ^ 日本後紀』大同4年11月5日条
  2. ^ 『日本後紀』大同5年9月11日条
  3. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 88.
  4. ^ 正倉院文書』第8巻、3299頁。
  5. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 115.
  6. ^ 『日本後紀』弘仁14年4月22日条
  7. ^ 『日本後紀』弘仁14年5月11日条
  8. ^ 『日本後紀』天長7年11月10日条
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m 公卿補任
  10. ^ 『近衛府補任』による。『公卿補任』の兼阿波守は誤りか。
  11. ^ a b 『近衛府補任』
  12. ^ 『公卿補任』では21日。
  13. ^ 日本逸史

参考文献[編集]

  • 瀧浪貞子『藤原良房・基経 : 藤氏のはじめて摂政・関白したまう』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2017年。ISBN 978-4-623-07940-7 
  • 森田悌『日本後紀 全現代語訳』上中下、講談社講談社学術文庫〉、2006-2007年。
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『公卿補任 第一篇』吉川弘文館新訂増補国史大系〉、1982年。
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1987年。