第二号新興丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新興丸
基本情報
船種 貨物船
クラス 新京丸型貨物船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
日本
パナマ
所有者 大阪商船
東亜海運
関西汽船
佐野安商事
新興汽船
Golden Buffalo Shipping Corp.
Yuan Ta S.S.Corp.Ltd.
Chi Fa Shipping Co.S.A.
Lien Hsing Navigation Corp.S.A.
運用者 大阪商船
東亜海運
 大日本帝国海軍
第二復員省/復員庁
関西汽船
佐野安商事
新興汽船
Golden Buffalo Shipping Corp.
Yuan Ta S.S.Corp.Ltd.
Chi Fa Shipping Co.S.A.
Lien Hsing Navigation Corp.S.A.
建造所 浦賀船渠
母港 大阪港/大阪府
東京港/東京都
姉妹船 新京丸型貨物船基本型12隻
新京丸型貨物船船体延長仕様52隻
新京丸型貨物船砕氷仕様1隻(白海丸)[1]
信号符字 JPTM
IMO番号 5180934
45381(※船舶番号)
改名 新興丸→第二号新興丸→
新興丸→第二金丸→
Golden Buffalo→
Yuan Ta→Chi Fa→
Lien Hsing
建造期間 204日
経歴
起工 1938年8月16日
進水 1938年11月29日
竣工 1939年3月7日
除籍 1992年
要目
総トン数 2,577トン(1942年)
2,651トン(1961年)
純トン数 1,448トン(1942年)
載貨重量 4,117トン(1942年)
4,010トン(1961年)
排水量 5,886トン(1942年)
登録長 90.8m(1942年)
垂線間長 89.91m(1942年)
13.72m(1942年)
深さ 7.28m(1942年)
登録深さ 7.25m(1942年)
高さ 23m(水面からマスト最上端まで)
8m(水面から船橋最上端まで)
12m(水面から煙突最上端まで)
ボイラー 石炭専焼缶2基(1942年)
重油専焼缶2基(1956年)
主機関 低圧タービン付き複二連成レシプロ機関1基(1942年)
ディーゼル機関1基(1961年)
推進器 1軸
最大出力 1,870IHP(1942年)
2,700BHP(1961年)
定格出力 1,200IHP(1942年)
最大速力 13.6ノット(1942年)
14.6ノット(1961年)
航海速力 11.0ノット(1942年)
12.0ノット(1961年)
航続距離 11ノットで4,000∼6,000海里
旅客定員 一等:6名(1942年)
乗組員 51名
1941年9月5日徴用
出典は原則として『昭和十八年版 日本汽船名簿』[2]
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)
テンプレートを表示
第二号新興丸/新興丸
基本情報
艦種 特設砲艦(日本海軍)
特別輸送船(第二復員省/復員庁)
艦歴
就役 1941年9月20日(海軍籍に編入時。日本海軍)
大湊警備府部隊/横須賀鎮守府所管
1945年12月1日(第二復員省/復員庁)
横須賀地方復員局所管
除籍 1945年11月30日(日本海軍)
1946年8月15日(復員庁)
要目
兵装 最終時[4]
12cm単装砲2門
九六式25mm機銃連装4基
同単装6基
九三式13mm単装機銃1基1門
九二式7.7mm機銃2基2門
小銃5挺
爆雷投射機2基
爆雷投下台2基
二式爆雷20個
装甲 なし
搭載機 なし
レーダー 仮称2号電波探信儀2型改4 1組
ソナー 97式水中聴音機1組
仮称3式探信儀1組
その他 水中処分具1組
小掃海具1組
徴用に際し変更された要目のみ表記
テンプレートを表示

第二号新興丸(だい2ごうしんこうまる)は、日本海軍第二次世界大戦中に運用した特設砲艦兼敷設艦である。東亜海運が所有する貨物船「新興丸」を徴用したもので、同名の特設砲艦との区別のため艦名に第二号と番号を付された[7]。大戦終結時に樺太からの引揚民間人を輸送中、1945年8月22日にソ連海軍潜水艦の攻撃で損傷、多くの死傷者を出した(三船殉難事件)。

船歴[編集]

「新興丸」は浦賀船渠第441番船として1938年8月16日に起工。1938年11月29日に進水。1939年3月7日に竣工した。「新京丸」を1番船とする浦賀船渠設計の2000総トン級貨物船系列の1隻で、同系列でも船主ごとに細部の設計に差異が多いうち、「瑞興丸」と本船が回廊付きの船橋を有する完全な同型である[1]。細部の異なる同系列船は18隻あるほか、逓信省が定めた統一規格船(平時標準船)C型も基本的に同設計で、こちらは47隻が計画され、43隻が建造された[8]。船体中央に機関部と船橋を置き、その前後に2つずつの倉口と単脚型のマスト1本ずつを配置したシンプルな船型である。うち後部船倉は倉口が2つ開いているものの、内部は区切られていない。「新興丸」の搭載主機は当時一般的な三連成レシプロエンジンではなく、浦賀船渠が開発した新型エンジンを採用しており、低圧シリンダーを蒸気タービンに変更したタービン付複二連成機関と呼ばれる方式である[2]。三連成レシプロの新京丸と比べ200馬力以上も最高出力が向上した[1]。搭載主缶は石炭専焼缶を搭載した。

商船として竣工後、当初は大阪商船所有船だったが、1939年8月12日に東亜海運に移籍する。新船主の東亜海運は、1939年8月に海運各社の現物出資で設立された国策企業であった[9]。 日米関係の悪化で対米戦準備が始まると、1941年(昭和16年)9月5日付で新興丸は日本海軍に徴用され[10]、9月20日に特設砲艦兼敷設艦へ類別された。このとき、同じ特設砲艦に同名の「新興丸」(丸井汽船、934トン)がおり、区別のため海軍部内限りで「第二号新興丸」と改称した[11]。特設砲艦兼敷設艦の標準武装は12cm砲を片舷に3門指向可能というものであるところ、写真の分析によると本艦改装完了時の兵装は船首・船尾・中央構造物後端に12cm単装砲各1基が設置されている[1]。機雷関係の設備では後部甲板上に機雷移動用軌条が2列敷かれ、船尾楼を貫通して船尾から突き出し、そのまま海面へ連続投下可能となっている。後部船倉が機雷庫となり、定数で93式機雷120個を搭載した[1]。なお、新京丸型は特設砲艦へ改装するのに手頃な性能であり、5隻が特設砲艦・本船を含む7隻が特設砲艦兼敷設艦として徴用されたほか、特設掃海母艦と特設電纜敷設船としても1隻ずつ徴用されている[1]

「第二号新興丸」は大湊警備府部隊、一時はその隷下の千島方面特別根拠地隊に属し、大戦の全期間にわたって北海道・樺太・千島列島方面で行動した。船団護衛や哨戒に従事している。戦術の変化に対応し、対空兵器の強化やレーダーの装備も実施された(要目表参照)。1943年(昭和18年)8月8日に樺太東方のオホーツク海北緯46度50分 東経144度40分 / 北緯46.833度 東経144.667度 / 46.833; 144.667アメリカ海軍潜水艦サーモン」の雷撃を受けるが、被害を免れた[12]。木俣(1993年)は、1945年(昭和20年)6月末に日本海軍が行った宗谷海峡への対潜機雷堰構築に「第二号新興丸」も参加したとしている[13]。7月には空襲を受けた青森市の復旧・救護のための物資・食糧輸送を行い、終戦を迎えた。終戦時、平時C型を含む新京丸型系列船計61隻のうち残存していたのは「第二号新興丸」のみで、戦後浮揚された「金津丸」(平時C型)[14]、「第十八眞盛丸」(平時C型)[15]を含めても3隻だけだった。終戦後、GHQ日本商船管理局en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-S095の管理番号が付与された[16]

1945年8月11日に樺太の戦い (1945年)が始まった。当時日本領だった南樺太には40万人以上の民間人が居住しており、樺太庁は民間人の本土輸送を図った。日本の陸海軍も輸送に協力することとなり、「第二号新興丸」も他の14隻の艦船とともに大泊港からの緊急輸送を命じられた[17]。8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表後も8月23日にソ連軍が島外移動禁止を発令するまで輸送は継続され、船団を組む余裕も無く、各個に避難民を収容して北海道へ脱出した[17]。「第二号新興丸」も大泊で民間人約3600人を収容すると8月20-21日の夜に単独で出航、9ノットの速力で小樽港へ向かった。8月22日午前5時過ぎに留萌北西沖に差し掛かったところで、正体不明の艦船を発見した直後に魚雷攻撃を受け、回避を試みたが右舷2番船倉に1発が命中した[18]。これは留萌沖に派遣されていたソ連潜水艦「L-19」とみられ、続けて浮上砲撃を加えてきた[18][19]。この時点で日本海軍はすでに一切の戦闘を禁じていたが[20]、「第二新興丸」は便乗民間人の協力も得て12cm砲と25mm機銃による応戦を開始した[18]。1発を相手潜水艦に命中させたとの説もある[18]。その頃まで樺太では戦闘が続いており、ソ連のスターリンは北海道北部の占領作戦を8月24日に開始することを考え、その予定で「L-19」は全ての船舶を撃沈するように指示されていたとするソ連軍資料がロシア公文書館に残されている。18日スターリンの北海道北部の占領案は米のトルーマン大統領に拒否され、さらに22日樺太での日本軍との停戦協議の進捗とともに、留萌等の攻撃の名分を失ったスターリンは24日の北海道占領作戦開始の企図を棄て、軍事作戦を千島攻略主体に変更した。これにより、この後、留萌沖のソ連軍潜水艦には輸送船撃沈の禁止、ついで全船舶の攻撃禁止の指示が出されていった。[21]

この後「第二号新興丸」は飛行機の飛来を受けている。これについて、通報により飛来した日本軍の水上偵察機1機とも、当時日本機はプロペラ等を取り外され全て飛べない状態になっていたはずなのでソ連機であったとする説等がある。[要出典]いずれにせよ「第二号新興丸」は留萌港に辿り着くことに成功した。攻撃を受けた際、投げ出された人も多くいたが、船は救助しながら航行したとも、どうにもならず海上で救けを求める人を置いて進んだともいう[21]。犠牲者数は死者250人・行方不明100人とも[22]、遺体が確認できただけで298人とも言われる[18]。なお、同様に小樽へ向かっていた「小笠原丸」と「泰東丸」も本艦と前後して留萌沖でソ連潜水艦の攻撃を受けいずれも撃沈されている(三船殉難事件[23]。その後、「第二号新興丸」は修理された。11月30日、海軍省の廃止に伴い特設艦船籍から除かれた。

12月1日、第二復員省の開庁に伴い、横須賀地方復員局所管の特別輸送船に定められ、復員輸送に従事。1946年(昭和21年)8月15日には特別輸送船の定めを解かれ、8月20日付けで解傭となった「第二号新興丸」は8月24日に民間船を統制する船舶運営会へ引き渡され[24]、船名も元の「新興丸」に戻された。同年10月、GHQの命令により船主の東亜海運が解散され、閉鎖機関に指定される。樺太・千島地区からの日本人引き揚げがソ連によって許可されると、同年12月の第1次引揚に「新興丸」も投入されて再び樺太へ赴き、12月7日に第3船として函館港へ帰還した[25]。同年10月10日、船主を関西汽船に変更。第二復員局にチャーターされて特別輸送艦となり、小樽と樺太との間の復員輸送に従事する。1951年(昭和26年)1月20日、関西汽船に返還。1956年(昭和31年)5月、搭載主缶を重油専燃缶に交換した。1961年3月6日、「新興丸」は佐野安商事に売却され、「第二金丸」に船名を変更する。同年5月、主機をディーゼル機関に交換するなどの改装を受ける。1965年(昭和40年)4月30日、「第二金丸」は新興汽船に売却された。1966年(昭和41年)1月26日、「第二金丸」はパナマのゴールデン・バッファロー海運へ売却されて「ゴールデン・バッファロー」と改名した[23]1970年(昭和45年)、「ゴールデン・バッファロー」はユエン・タ汽船[26]に売却され、「ユエン・タ」と改名した。1972年(昭和47年)「ユエン・タ」はチ・ファ海運[26]。に売却され「チ・ファ」と改名した。1973年(昭和48年)、「チ・ファ」はリエン・シン・ナビゲーション・コーポレーション[26]に売却され、「リエン・シン」に改名した。1974年(昭和49年)に撮影された「リエン・シン」の写真では、船橋周辺が大幅に改装されていた。1975年(昭和50年)以降の詳細な行動はわかっていないが、昭和を超えた1992年(平成4年)に船籍が抹消された。

第二次世界大戦に参加した海軍特設艦船の最後の生き残りとしては、現存唯一の徴用船である「氷川丸」(日本郵船、11,622トン)があるが、現役の商船として使用されたのは本船が最後であった。なお、第二次世界大戦に参加した日本商船としては、改E型戦時標準タンカー第25南進丸(南方油槽船、834トン)が最後である[27][28]。なお、第二次世界大戦に参加した大日本帝国海軍艦艇で海軍艦船として使用されたのは「四阪」(中国人民解放軍海軍の練習艦として1990年退役)が最後で、特務艦艇としては「宗谷」(現海上保安庁巡視船)が唯一健在である。

砲艦長/艦長[編集]

  1. 谷井末吉 大佐:1941年9月20日[29] - 1942年2月20日[30]
  2. 糸川季忠 大佐:1942年2月20日[30] - 1943年8月5日[31]
  3. 伊藤皎 大佐:1943年8月5日[31] - 1944年12月4日[32]
  4. 萱場松次郎 大佐:1944年12月4日[32] - 1945年11月10日[33]
  5. 日下敏夫 中佐/第二復員官/第二復員事務官/復員事務官:1945年11月10日[33] - 船長 1945年12月1日 - 1946年8月15日[注 1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 昭和21年7月1日付 復二第67号の定めによる自動解職。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 岩重(2009年)p.40-41
  2. ^ a b 運輸通信省海運総局(編) 『昭和十八年版 日本汽船名簿(内地・朝鮮・台湾・関東州)』其の一(下)、運輸通信省海運総局、1943年、内地在籍船の部823頁、JACAR Ref.C08050084900、画像44枚目。
  3. ^ Ansyu_Maru_class
  4. ^ 「第二号新興丸兵器軍需品目録」『大湊警備府管下引渡目録』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08011186200
  5. ^ Cressman (1999) , p. 607.
  6. ^ 岩重(2009年)p.38。
  7. ^ 日本海軍の同時期の特設艦船で「新興丸」の名を持つ汽船は他に2隻ある。特設砲艦「第一号新興丸」は丸井汽船の貨物船「新興丸」(934総トン)を改装したもので[1]、1945年1月9日にボルネオ島沿岸でオランダ海軍の潜水艦「O19英語版」により撃沈された[5]。特設敷設艦「新興丸」は新興商船の貨物船「新興丸」(6479総トン)を改装したもので、1944年10月18日にルソン島沿岸で空襲により撃沈された[6]
  8. ^ 岩重(2011年)p.37には50隻建造とあるが、これは同一要目の新京丸型船体延長仕様5隻を含む。
  9. ^ 関係会社打って一丸 東亜海運会社設立―海運の総合力発揮へ」『大阪毎日新聞』1939年8月6日。
  10. ^ 海軍省兵備局 『昭和一八・六・一現在 徴傭船舶名簿』 JACAR Ref.C08050008000、画像17枚目。
  11. ^ 同様に、丸井汽船の「新興丸」も区別のため海軍部内限りで「第一号新興丸」と改称した。
  12. ^ Cressman (1999) , p. 371.
  13. ^ 木俣(1993年)、229-231頁。
  14. ^ 同船は1945年7月24日の呉軍港空襲により沈没した。1948年浮揚、1967年にパナマ企業に売却され1970年頃に解体された。
  15. ^ 同船は1944年3月30日のパラオ大空襲により沈没した。1957年浮揚、1967年にパナマ企業に売却され1969年に解体された。
  16. ^ 新興丸”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2023年10月20日閲覧。
  17. ^ a b 中山(2001年)、177-179頁。
  18. ^ a b c d e 木俣(1993年)、235-236頁。
  19. ^ Morozov(2010年)、p. 151-153
  20. ^ 軍令部は、当初は停戦交渉成立までの自衛戦闘を容認していたが(昭和20年大海令第48号)、その後、支那方面艦隊を除く海軍総隊に対して8月22日午前0時を基準時として一切の戦闘行為停止を命じている(昭和20年大海令第49号・第50号)。
  21. ^ a b [ミッドナイトジャーナル]樺太引き揚げ船 撃沈の真相”. NHK 戦争証言アーカイブス. NHK. 2023年2月2日閲覧。
  22. ^ 中山(2001年)、180頁。
  23. ^ a b 木俣(1993年)p.229,238
  24. ^ 佐世保地方復員部 『昭和二十一年八月十五日現在 引渡目録 新興丸』JACAR Ref.C08011329300
  25. ^ 函館市史編さん室(編) 「樺太・千島からの引揚げ状況」『函館市史』通説編第4巻、函館市、2002年、98-99頁。
  26. ^ a b c なつかしい日本の汽船ではいずれもパナマの船会社とされ、1974年撮影の「リエン・シン」の船尾にもパナマ国旗が掲げられているが、#慟哭の海p.171に「風の便りではマレーシアの船会社に売り渡され「ゴールデン・バッファロー号」と命名され、東南アジア航路でその生涯を終えたという」とあること、企業名が中国語のようなものであることから、パナマに売り渡された後、マレーシアの華僑、そしてパナマの華僑という順番に売り渡された可能性もある。
  27. ^ 第二十五南進丸
  28. ^ 1946年にシンガポールで連合軍に接収され、マレーシア船として2010年まで活動した。
  29. ^ 海軍辞令公報(部内限)第716号 昭和16年9月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100 
  30. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第815号 昭和17年2月21日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084300 
  31. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第1185号 昭和18年8月5日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092300 
  32. ^ a b 海軍辞令公報(甲)第1663号 昭和19年12月8日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102200 
  33. ^ a b 海軍辞令公報(甲)第1989号 昭和20年11月22日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072143600 

参考文献[編集]

  • 岩重多四郎『戦時輸送船ビジュアルガイド―日の丸船隊ギャラリー』大日本絵画、2009年。ISBN 978-4-499-22989-0 
  • 岩重多四郎『戦時輸送船ビジュアルガイド2‐日の丸船隊ギャラリー』大日本絵画、2011年。ISBN 978-4499230414 
  • 木俣滋郎『撃沈戦記 PART IV』朝日ソノラマ〈新戦史シリーズ〉、1993年。ISBN 4-257-17255-X 
  • 中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』中央公論新社〈中公文庫〉、2001年。ISBN 4-12-203858-8 
  • 北海道新聞社/編 編『慟哭の海 樺太引き揚げ三船遭難の記録』道新選書、1988年8月。ISBN 978-4893639295 
  • Cressman, Robert (1999). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. Annapolis MD: Naval Institute Press. http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron.html 
  • Morozov M. E., Kulagin K. L. (2010). Pervie podlodki SSSR. "Dekabristi" i "Lenintsi". Moscow: Yauza. Eksmo. ISBN 978-5-699-37235-5 

外部リンク[編集]