「石井正敏」の版間の差分

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『遣唐使研究と史料』『善隣国宝記』などの共同校訂・訳注、『対外関係史総合年表』『対外関係史辞典』の編集に対外関係史研究の泰斗である[[田中健夫]]の指揮のもとで従事するなどの実績も残した<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=86}}</ref>。
『遣唐使研究と史料』『善隣国宝記』などの共同校訂・訳注、『対外関係史総合年表』『対外関係史辞典』の編集に対外関係史研究の泰斗である[[田中健夫]]の指揮のもとで従事するなどの実績も残した<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=86}}</ref>。


=== 評価 ===
== 評価 ==
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==== 『日本渤海関係史の研究』への評価 ====
=== 『日本渤海関係史の研究』への評価 ===
学界では、複数の研究者から[[第二次世界大戦後]]の日本における[[渤海国|渤海]]研究の第一人者と目されている。
学界では、複数の研究者から[[第二次世界大戦後]]の日本における[[渤海国|渤海]]研究の第一人者と目されている。
* [[浜田久美子]]は「実証的、科学的な渤海史研究を切り開いたのが一九七〇年代に登場する石井と[[酒寄雅志]]である。2人は今日に至るまで渤海史研究をリードし、二〇〇一年にはその業績が、石井正敏『日本渤海関係史の研究』([[吉川弘文館]])、酒寄雅志『渤海と古代の日本』([[校倉書房]])の両著書にまとめられた。両著書は戦後歴史学における渤海史研究の集大成といっても過言ではなく、日本における渤海史研究のひとつの到達点が示されたことになる<ref>{{Cite book|和書|author=[[浜田久美子]]|authorlink=|date=2003-02|title=研究動向 渤海史研究の歩み--石井正敏氏、酒寄雅志氏の業績を中心に|series=歴史評論|publisher=[[校倉書房]]|isbn=|page=74}}</ref>」「石井・酒寄両氏の著書刊行により、渤海史研究は一つの節目を迎え、この刊行を機に新たな展開をみせていくことであろう<ref>{{Cite book|和書|author=[[浜田久美子]]|authorlink=|date=2003-02|title=研究動向 渤海史研究の歩み--石井正敏氏、酒寄雅志氏の業績を中心に|series=歴史評論|publisher=[[校倉書房]]|isbn=|page=82}}</ref>」と評している。
* [[浜田久美子]]は「実証的、科学的な渤海史研究を切り開いたのが一九七〇年代に登場する石井と[[酒寄雅志]]である。2人は今日に至るまで渤海史研究をリードし、二〇〇一年にはその業績が、石井正敏『日本渤海関係史の研究』([[吉川弘文館]])、酒寄雅志『渤海と古代の日本』([[校倉書房]])の両著書にまとめられた。両著書は戦後歴史学における渤海史研究の集大成といっても過言ではなく、日本における渤海史研究のひとつの到達点が示されたことになる<ref>{{Cite book|和書|author=[[浜田久美子]]|authorlink=|date=2003-02|title=研究動向 渤海史研究の歩み--石井正敏氏、酒寄雅志氏の業績を中心に|series=歴史評論|publisher=[[校倉書房]]|isbn=|page=74}}</ref>」「石井・酒寄両氏の著書刊行により、渤海史研究は一つの節目を迎え、この刊行を機に新たな展開をみせていくことであろう<ref>{{Cite book|和書|author=[[浜田久美子]]|authorlink=|date=2003-02|title=研究動向 渤海史研究の歩み--石井正敏氏、酒寄雅志氏の業績を中心に|series=歴史評論|publisher=[[校倉書房]]|isbn=|page=82}}</ref>」と評している。
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*[[鈴木靖民]]は石井の研究を、史料の細かな見直しから問題点をみつけだして新たな史実を改めて概念化することにより、歴史像を構築していくスタイルであると評している<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=82}}</ref>。また、「石井正敏が日本古代史、特に対外関係史の研究分野で歴史学界に登場したのは一九七〇年のことであり、それ以来、病気のために没する二〇一五年までおよそ四十五年、次々に対外関係史の様々な分野、テーマにわたって研究成果を公にし続けた。今日の日本における日本史および対外関係史の代表的研究者として学界内外に影響を与えてきた<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=78}}</ref>」「今日の対外関係史研究を代表する石井<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=80}}</ref>」「石井の主著と称してよい、精緻な実証性に富んだ巨冊、『日本渤海関係史の研究』<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=81}}</ref>」「石井が日本古代史の研究を対外関係の視点で積極的に推し進めてきたことは、その全業績をみれば一目瞭然である。今日のこの分野の学界が共有すべき通説を形成する研究の陣営に石井が加わり、その基礎となる成果の数々を担ってきたことは十分評価すべきであろう。石井の重厚な研究の一々を知って展望するなら、その学界に占めた高い位置をなんびとも否めない<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=81}}</ref>」「(朝鮮史上の歴史家及び思想家の渤海に対する認識を体系化した研究により)渤海の歴史が中国史の一部か、朝鮮史か、果たしてどちらに属するのかという中国・韓国・北朝鮮の間で交わされる国際的な論争の先駆的業績となるのであり、日本の学界における独自の着実な実証研究として忘れがたい<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=82}}</ref>」「渤海王の系譜の復元は諸国で錯綜する先学の案を検討し、史料を整合的に解釈し直したもので、渤海国史の解明に大いに寄与<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=83}}</ref>」「石井は日本の渤海との外交、次いで新羅との外交の両方を把握し直し、その性格をめぐって学界の普遍的な理解に対して異議申し立てをした<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=85}}</ref>」「(石井の渤海研究は)どれも従来の学説を研究史・学説史の丹念な追跡によって捉え直すか、あるいは独自に見つけた新史料により新たな史実を紹介し、析出して先鞭をつけるなどして、後々まで自身の学説をケアし、『更新』を続けてこだわった研究<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=83}}</ref>」と述べている。
*[[鈴木靖民]]は石井の研究を、史料の細かな見直しから問題点をみつけだして新たな史実を改めて概念化することにより、歴史像を構築していくスタイルであると評している<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=82}}</ref>。また、「石井正敏が日本古代史、特に対外関係史の研究分野で歴史学界に登場したのは一九七〇年のことであり、それ以来、病気のために没する二〇一五年までおよそ四十五年、次々に対外関係史の様々な分野、テーマにわたって研究成果を公にし続けた。今日の日本における日本史および対外関係史の代表的研究者として学界内外に影響を与えてきた<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=78}}</ref>」「今日の対外関係史研究を代表する石井<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=80}}</ref>」「石井の主著と称してよい、精緻な実証性に富んだ巨冊、『日本渤海関係史の研究』<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=81}}</ref>」「石井が日本古代史の研究を対外関係の視点で積極的に推し進めてきたことは、その全業績をみれば一目瞭然である。今日のこの分野の学界が共有すべき通説を形成する研究の陣営に石井が加わり、その基礎となる成果の数々を担ってきたことは十分評価すべきであろう。石井の重厚な研究の一々を知って展望するなら、その学界に占めた高い位置をなんびとも否めない<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=81}}</ref>」「(朝鮮史上の歴史家及び思想家の渤海に対する認識を体系化した研究により)渤海の歴史が中国史の一部か、朝鮮史か、果たしてどちらに属するのかという中国・韓国・北朝鮮の間で交わされる国際的な論争の先駆的業績となるのであり、日本の学界における独自の着実な実証研究として忘れがたい<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=82}}</ref>」「渤海王の系譜の復元は諸国で錯綜する先学の案を検討し、史料を整合的に解釈し直したもので、渤海国史の解明に大いに寄与<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=83}}</ref>」「石井は日本の渤海との外交、次いで新羅との外交の両方を把握し直し、その性格をめぐって学界の普遍的な理解に対して異議申し立てをした<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=85}}</ref>」「(石井の渤海研究は)どれも従来の学説を研究史・学説史の丹念な追跡によって捉え直すか、あるいは独自に見つけた新史料により新たな史実を紹介し、析出して先鞭をつけるなどして、後々まで自身の学説をケアし、『更新』を続けてこだわった研究<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=83}}</ref>」と述べている。


==== その他の評価 ====
=== その他の評価 ===
*[[村井章介]]は「石井の学問は、日本古代対外関係史、なかんずく渤海との関係史に機軸をおきつつも、日本史、東洋史という地域の枠、古代、中世、近世という時代の枠をのりこえて、貴重な遺産を史学界にのこした。この超域性を支えたものは、歴史情報の源泉としての史料へのあくなき執着であり、史料をして十全かつ公平に過去を語らせるという究極の目標を前にしたとき、地域や時代の枠づけなど、ときには來雑物でしかなかった」「あの地味きわまる石井の研究が、その学問的ポテンシャルゆえに、私の浅薄な視野をこえて大きな反響をよんでいることを、あらためて認識した」「石井の歴史学の特徴を、史料の一字一句に徹底的にこだわりつつ、他方で史料に跨って地域・時代を軽々と超える、という点」「第一は、遣唐使廃絶問題における『[[日本紀略]]』の「'''其'''日」、[[刀伊の入寇]]における『[[小右記]]』の「'''下'''懸檝」、平氏の日宋貿易介入における『[[長秋記]]』の「神崎御庄'''領'''」といった、たった一字-それも史料上あまりにもありふれた-を見すごさず、研究史を丹念にたどり史料を写本に遡って読みこむという研究手法である。その結論が研究史を大きく塗り替えてしまうことの凄みには、戦慄さえおぼえる。第二は、修士在籍中に書かれた処女論文における『国書開封権』という提起が、学界で長きにわたって重要な論点であり続けたり、就職後最初の論文で紹介された[[三別抄]]の日本請援史料が国際的な反響をよび、教科書叙述にまで反映されたりといった、あきれるほどの早熟さである。しかも晩年にいたるまでさまざまな反響に誠実に対応し続けたのだった。第三は、人物史研究に臨んで『一見のための百聞』、すなわち人物理解の前提となるあらゆる情報の蒐集をなおざりにしない態度」と評している<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=5-8}}</ref>。
*[[村井章介]]は「石井の学問は、日本古代対外関係史、なかんずく渤海との関係史に機軸をおきつつも、日本史、東洋史という地域の枠、古代、中世、近世という時代の枠をのりこえて、貴重な遺産を史学界にのこした。この超域性を支えたものは、歴史情報の源泉としての史料へのあくなき執着であり、史料をして十全かつ公平に過去を語らせるという究極の目標を前にしたとき、地域や時代の枠づけなど、ときには來雑物でしかなかった」「あの地味きわまる石井の研究が、その学問的ポテンシャルゆえに、私の浅薄な視野をこえて大きな反響をよんでいることを、あらためて認識した」「石井の歴史学の特徴を、史料の一字一句に徹底的にこだわりつつ、他方で史料に跨って地域・時代を軽々と超える、という点」「第一は、遣唐使廃絶問題における『[[日本紀略]]』の「'''其'''日」、[[刀伊の入寇]]における『[[小右記]]』の「'''下'''懸檝」、平氏の日宋貿易介入における『[[長秋記]]』の「神崎御庄'''領'''」といった、たった一字-それも史料上あまりにもありふれた-を見すごさず、研究史を丹念にたどり史料を写本に遡って読みこむという研究手法である。その結論が研究史を大きく塗り替えてしまうことの凄みには、戦慄さえおぼえる。第二は、修士在籍中に書かれた処女論文における『国書開封権』という提起が、学界で長きにわたって重要な論点であり続けたり、就職後最初の論文で紹介された[[三別抄]]の日本請援史料が国際的な反響をよび、教科書叙述にまで反映されたりといった、あきれるほどの早熟さである。しかも晩年にいたるまでさまざまな反響に誠実に対応し続けたのだった。第三は、人物史研究に臨んで『一見のための百聞』、すなわち人物理解の前提となるあらゆる情報の蒐集をなおざりにしない態度」と評している<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=5-8}}</ref>。
*[[榎本渉]]は、「石井の講義で示されたのは、安易な結論を出す前に写本の異同や文字の用例への最新の目配りを行うなど、妥協のない緻密な考証を重ねる研究スタイルであった。私はこれに実に感心し、憧れたものである(当時ある同級生は、『あの先生、鮮やかだね』と言っていた)<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=10}}</ref>」「石井は関心対象の広大さとともに、研究手法としては一文字をゆるがせにしない緻密な考証を得意としていた。つまり石井の研究は、一つは空間的広がり、一つは時間的広がり、一つは緻密な考証を特徴としている<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=12}}</ref>」と評している。
*[[榎本渉]]は、「石井の講義で示されたのは、安易な結論を出す前に写本の異同や文字の用例への最新の目配りを行うなど、妥協のない緻密な考証を重ねる研究スタイルであった。私はこれに実に感心し、憧れたものである(当時ある同級生は、『あの先生、鮮やかだね』と言っていた)<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=10}}</ref>」「石井は関心対象の広大さとともに、研究手法としては一文字をゆるがせにしない緻密な考証を得意としていた。つまり石井の研究は、一つは空間的広がり、一つは時間的広がり、一つは緻密な考証を特徴としている<ref>{{Harvnb|前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学|2017|p=12}}</ref>」と評している。

2018年10月10日 (水) 19:11時点における版

石井 正敏(いしい まさとし、1947年[1]2月8日[要出典] - 2015年7月6日[要出典])は、日本歴史学者。専門は日本古代史、対外関係史[2]中央大学文学部教授[3]

概要

神奈川県横浜市出身[1]。1969年法政大学文学部史学科卒[1][3]、1971年中央大学大学院文学研究科国文学専攻修士課程修了[3]、1975年、中央大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程単位取得退学[3]。法政大学では丸山忠綱、中央大学大学院では森克己に学び、大学院の研究会では飯田瑞穂に学ぶ[4]。2002年國學院大學博士 (歴史学)

中央大学文学部兼任講師[3]を経て、1976年、東京大学史料編纂所職員[3]、同年まもなく東京大学史料編纂所助手として着任[3]。1987年、東京大学史料編纂所助教授[3]、1988年に中央大学文学部助教授に転任し[3]、1990年から教授[3]。2009年から中央大学人文科学研究所長[3]

このほか、東洋大学文学部(1983年 - 1995年)[3]、東京大学文学部(1996年 - 1998年)[3]、慶應義塾大学文学部(1998年 - 2000年)[3]、東京大学大学院文学研究科(2003年 - 2004年)[3][5]早稲田大学大学院文学研究科(2004年 - 2005年)[3][5]九州大学大学院人文科学府(2004年 - 2005年)[3][5]で非常勤講師を務めた[3]。他にもフランス国立高等研究院で非常勤講師を務めた[6]

没後に中央大学から名誉教授の称号を贈られた[7]日本古文書学会理事、國學院大學博士 (歴史学)。論文の題は「日本渤海関係史の研究」[8]

村井章介とは東京大学史料編纂所以来の前近代対外関係史を志す盟友同士で共編著も多く、村井は石井が生みの親として関わった「前近代対外関係史研究会」を母体に実行委員会を組織し、「石井正敏さんを偲ぶ会」を2015年12月20日に東京大学史料編纂所大会議室で催した[9]

研究

第1期日韓歴史共同研究に委員会研究委員(第1科古代)として参加し、「5世紀の日韓関係-倭の五王高句麗百済-」を発表している[10]

遣唐使の停止について、菅原道真の建議による従来の廃止説を、寛平6年(894年)の遣唐使計画を詳細に研究した結果、宇多天皇の主導で56年ぶりに遣唐使再開が計画されたが、道真の遣唐大使や副使などの地位は保ったまま、この遣唐使計画を建議で一時停止で引き延ばしているうちに、唐自体の滅亡で消滅したと検証した。鈴木靖民は「石井は史料の用語の吟味から始め、また後には時の外交と内政を関連させて解き明かす視座を示」し、「石井による日唐関係のポイントになる事実を疑い、描き直そうとするいくつもの成果が公にされて、奈良・平安時代の遣唐使を軸にして展開した唐との関係史の理解が塗り替えられ、歴史像の再構築が期待される状況に近づいた」と評している[11]

渤海から日本へ贈られた第一回国書の分析を通して渤海王の自称「高麗国王」が日本の要求に迎合したものであることを明らかにした。赤羽目匡由は「緻密な論証をともない説得力のある議論にまで引きあげたのが石井正敏氏である[12]」「渤海王の『高麗国王』自称について、現在問題となるのは、それが自発的なものであるか、そうではなく日本に迎合したものに過ぎないかという点になろう。ただこうした問題点は現在、日本ではほとんど議論の対象とされない。それは先述の石井説がきわめて説得力に富むために定説となっているからである[13]」と述べている。古畑徹は「渤海使の史料を見ると、八世紀後半に、日本が渤海を『高麗』と呼び、渤海王も『高麗国王』を自称する時期がある。日本は、第一次渤海使がもたらした国書で渤海が高句麗の後継を自認していることを知るが、そこでイメージした高句麗像は、かつて臣属朝貢していた高句麗であった。そのため、日本は渤海を朝貢国とみなして『高麗』と称することを要求し、渤海も円滑な外交関係を最優先し、第四次渤海使から『高麗国王』を自称する。『高麗国王』自称は高句麗継承の強い自己認識の表れとする異論もあるが、石井正敏の丁寧な考証によるこの理解は揺るがない」と述べている[14]

753年の唐の朝賀の儀式において、日本より新羅の方が上位であったことに大伴古麻呂呉懐実に抗議して席を変更させたことをめぐり、この事件を『続日本紀』の虚構である、遣唐使の復命の差異の虚偽であるという極論があったが、石井は唐の史書に呉懐実を探し出し、実在と職務を立証し、2007年に西安で呉懐実の墓誌がみつかり、そこに刻まれる閲歴により石井の主張したとおりに将軍の職位にあり、皇帝にも近い宦官であることが証明され、鈴木靖民は「石井による推論の正しさが証明されたことにほかならず、その彗眼は驚嘆に値するとして褒め過ぎではない」と述べている[15]

1990年代以降は成尋やその行記である『参天台五台山記』及び奝然の行状を研究し、日宋関係の業績も次々に挙げた[16]

『遣唐使研究と史料』『善隣国宝記』などの共同校訂・訳注、『対外関係史総合年表』『対外関係史辞典』の編集に対外関係史研究の泰斗である田中健夫の指揮のもとで従事するなどの実績も残した[17]

評価

『日本渤海関係史の研究』への評価

学界では、複数の研究者から第二次世界大戦後の日本における渤海研究の第一人者と目されている。

  • 浜田久美子は「実証的、科学的な渤海史研究を切り開いたのが一九七〇年代に登場する石井と酒寄雅志である。2人は今日に至るまで渤海史研究をリードし、二〇〇一年にはその業績が、石井正敏『日本渤海関係史の研究』(吉川弘文館)、酒寄雅志『渤海と古代の日本』(校倉書房)の両著書にまとめられた。両著書は戦後歴史学における渤海史研究の集大成といっても過言ではなく、日本における渤海史研究のひとつの到達点が示されたことになる[18]」「石井・酒寄両氏の著書刊行により、渤海史研究は一つの節目を迎え、この刊行を機に新たな展開をみせていくことであろう[19]」と評している。
  • 河内春人は、「70年代から始まった渤海史再検討の動きは、90年代初頭になって方法論的に止揚することによって大きく加速しながら現在に至っている。かかる状況下において21世紀初めの年に、現在の渤海史研究をリードしてきた石井正敏氏の『日本渤海関係史の研究』(吉川弘文館)、酒寄雅志氏の『渤海と古代の日本』(校倉書房)という両著書が出版されたことは、渤海史研究がひとつの到達点に至ったことを示している」と評している[20]。また、石井の渤海研究方法の特徴として、「個々の史料について、字句一つ一つから徹底的に検討して一回毎の外交交渉の特質を明らかにする方法」を挙げ[21]、「先行研究への目配りと史料用語の緻密な検討は今後の研究の基点となりうるものであろう」と評している[22]
  • 榎本淳一は「渤海史研究が今日のような盛況をみることになった背景には、酒寄氏、石井氏という研究スタイルの異なる両氏が良きライバルとして当該研究を牽引してきたということも大きな要因」「両氏の多年の研究により、古代日本と渤海との交流のもった歴史的な意義が多方面から明らかにされたた。その成果は、唐との関係のみを重視し、その他の関係を捨象ないし軽視するという従来の日本古代対外関係史研究のあり方を見直させる大きな役割を果たした」「日唐関係を相対化し、多面的に当時の国際関係を分析する視覚をもたらしたことは大いに評価されるべき」と評している[23]
  • 古畑徹は、「歴史学の各分野における古典的名著には、大きく分けて、その研究分野の基礎となる理論的枠組みや方法論などを論じたものと、研究上の主要課題にかかわる重要史料についての緻密な考証を積み重ねて史実及び史料自体を追究し、その分野の研究者の誰もが参照しなければならないもの、との二つのタイプがあると思われる。前者のタイプが研究のあり方の変化によって時にその地位を失うのに対し、後者のタイプは半永久的である。後者のタイプを渤海史研究や朝鮮古代史研究で探すならば、渤海史では金毓黻『渤海国志長編』、朝鮮古代史では池内宏『満鮮史研究』上世編をまずは挙げることができよう。そして渤海史研究においては金著書に匹敵する位置に、朝鮮古代史研究においては池内著書につづくいくつかの名著の一つという位置にあるのが、石井著書のように思われるのである」としつつも、「石井著書は間違いなく古典的名著たりうる著作と思うのだが、だからといってその見解・論証がすべて正しいわけではない」として、「最も高く評価されている史料考証自体についても誤謬は存在する。緻密な考証を旨とする研究がしばしば陥ってしまう落とし穴に、異説を述べる史料を比較検討する際、緻密に文章を切って考証した結果、各史料本来の文脈を見失い、どこにも書かれていない『史実』を『創作』してしまう、というものがある」として、石井の渤海王系図に誤謬があることを指摘したうえで、「優れた考証史家でも、というよりむしろ優れた考証史家だからこそ、このような落とし穴に陥ることがある。我々は時としてそのようなことが有りえるのだということを念頭に、石井著書を丹念に追跡しながら読まなくてはいけないと思う。そして、そのことこそが膨大な諸説と史料を整理された石井の遺志を継ぐことではないだろうか」「本稿で示したような誤謬は石井著書を渤海史・朝鮮古代史における古典的名著たるべき存在とした私の評価を何ら揺るがすものではない。金毓黻の『渤海国志長編』も、池内宏の『満鮮史研究』上世編も、後世の研究者から数多くの批判に晒されながら今日に至るまでその価値を失っていない。むしろ今に至るまで参照され批判され続けているからこそ、これらは古典的名著なのである。後世、石井著書が真に古典的名著と呼ばれるようになるかどうかは、そのあとを追い駆ける我々の石井著書への向き合い方にかかっている」と述べている[24]
  • 小嶋芳孝は、石井が渤海史研究について「今日の渤海史研究ほど、限られた文献史料を丹念に読み、考古学調査の知見を加えて、総合的に冷静かつ客観的に判断するという歴史学の鉄則に基づく研究が求められているものは無いといってよいであろう」と述べていることを指して、「著者の学問に対する真摯さを彷彿とさせる」と評し[25]、石井の著書『日本渤海関係史の研究』を「本書は、日本と渤海の関係史に関する文献史料が豊富に掲載され、石井氏の手堅い論の展開によってわかりやすい構成となっている。日渤関係史を研究するにあたって必読の好著である」と評している[26]
  • 宮永廣美は石井の著書『日本渤海関係史の研究』を「本書に一貫してみられる姿勢は実証にあり、徹底した史料批判から生まれた成果をまとめた著書であると評することができるであろう」「『史料は先入観を持たず、一字一句ゆるがせにせずに読解すべきこと』『木も見て森も見るよう心がけるべきこと』と、日頃より指導してくださる先生の、史料や研究に対する姿勢が全編に亘って現れていると感じた」と評している[27]
  • 濱田耕策は石井の著書『日本渤海関係史の研究』を「『友好の歴史像』の真相を丹念な史料の読み込みの手法で解明し、『友好』の陰に潜む国家の位置に発する国際関係の矛盾を提示し続ける著者の長年の日渤関係史研究をまとめた書であり、翻って渤海史研究の一階梯の書でもある」「本書を読むと、日渤関係史研究に緊迫感が漂うことが感得される」「日渤関係史研究が史料不足の前に推測で論ずることの危険性の指摘を読みとれる」「本書を得た今日、多様な要因により継続された日渤関係史への研究の方向性は提示された感がある」「ダイナミックな、かつ仔細な史料批判と新史料の発掘によって広い幅と高次元で研究されるべき道が本書によって次代の研究者の前に開かれた」と評している[28]
  • 榎本淳一は石井の著書『日本渤海関係史の研究』を「研究に一貫しているのは史料を丹念に読み込んだ緻密な実証性であり、ひとつとして忽せにしない関連諸研究に向き合う実直さ[29]」「史料や諸研究に対する深い読み込みや徹底した実証主義により、戦前からの根強い先入観(渤海対日朝貢史観)が排され、戦後の渤海研究を日本の満州侵略を支えた満鮮史研究から訣別させることができた[29]」「氏の常識や通念に囚われない画期的な諸研究も、同じく史料への深い沈潜から生まれたものといえる[29]」「補論、付論、付記が多く収載されているが、それは著者の説に対する批判への反論として書かれたものが大半であり、批判のいちいちに応答する著者の真摯な研究姿勢を示している。批判も含め後発の諸研究に広く長く参照され続けているのも、確かな史料の読みに支えられた立論であるからこそ[29]」と評し、第二章論文「神亀四年、渤海の日本通交開始とその事情」を「厳密な実証に基づいた内容は今なお全く色あせた感じがしない」と評している[30]。第二章論文「日本・渤海交渉と渤海高句麗継承国意識」を「戦前以来の渤海対日朝貢史観とは全く異なる日本渤海関係史像を描き出した研究史上意義の大きな論文」と評している[31]。また、石井が23歳時に発表した最初の論文「大宰府の外交面における機能[32]」について、「奈良時代の外交面における大宰府の機能の特殊性を強調する従来の評価の見直しをせまったもので」あり、「国書(外交文書)の取り扱い方から外交権や外交機能の実態を解明するという本論文の分析視覚は極めて画期的なもので、初出後三十年を経過した今なお本論文をめぐって論争が行われているように現在も大きな影響力をもっている」[33]「その才能の早熟さに驚くばかり」と述べている[29]
  • 鈴木靖民は石井の研究を、史料の細かな見直しから問題点をみつけだして新たな史実を改めて概念化することにより、歴史像を構築していくスタイルであると評している[34]。また、「石井正敏が日本古代史、特に対外関係史の研究分野で歴史学界に登場したのは一九七〇年のことであり、それ以来、病気のために没する二〇一五年までおよそ四十五年、次々に対外関係史の様々な分野、テーマにわたって研究成果を公にし続けた。今日の日本における日本史および対外関係史の代表的研究者として学界内外に影響を与えてきた[35]」「今日の対外関係史研究を代表する石井[36]」「石井の主著と称してよい、精緻な実証性に富んだ巨冊、『日本渤海関係史の研究』[37]」「石井が日本古代史の研究を対外関係の視点で積極的に推し進めてきたことは、その全業績をみれば一目瞭然である。今日のこの分野の学界が共有すべき通説を形成する研究の陣営に石井が加わり、その基礎となる成果の数々を担ってきたことは十分評価すべきであろう。石井の重厚な研究の一々を知って展望するなら、その学界に占めた高い位置をなんびとも否めない[38]」「(朝鮮史上の歴史家及び思想家の渤海に対する認識を体系化した研究により)渤海の歴史が中国史の一部か、朝鮮史か、果たしてどちらに属するのかという中国・韓国・北朝鮮の間で交わされる国際的な論争の先駆的業績となるのであり、日本の学界における独自の着実な実証研究として忘れがたい[39]」「渤海王の系譜の復元は諸国で錯綜する先学の案を検討し、史料を整合的に解釈し直したもので、渤海国史の解明に大いに寄与[40]」「石井は日本の渤海との外交、次いで新羅との外交の両方を把握し直し、その性格をめぐって学界の普遍的な理解に対して異議申し立てをした[41]」「(石井の渤海研究は)どれも従来の学説を研究史・学説史の丹念な追跡によって捉え直すか、あるいは独自に見つけた新史料により新たな史実を紹介し、析出して先鞭をつけるなどして、後々まで自身の学説をケアし、『更新』を続けてこだわった研究[42]」と述べている。

その他の評価

  • 村井章介は「石井の学問は、日本古代対外関係史、なかんずく渤海との関係史に機軸をおきつつも、日本史、東洋史という地域の枠、古代、中世、近世という時代の枠をのりこえて、貴重な遺産を史学界にのこした。この超域性を支えたものは、歴史情報の源泉としての史料へのあくなき執着であり、史料をして十全かつ公平に過去を語らせるという究極の目標を前にしたとき、地域や時代の枠づけなど、ときには來雑物でしかなかった」「あの地味きわまる石井の研究が、その学問的ポテンシャルゆえに、私の浅薄な視野をこえて大きな反響をよんでいることを、あらためて認識した」「石井の歴史学の特徴を、史料の一字一句に徹底的にこだわりつつ、他方で史料に跨って地域・時代を軽々と超える、という点」「第一は、遣唐使廃絶問題における『日本紀略』の「日」、刀伊の入寇における『小右記』の「懸檝」、平氏の日宋貿易介入における『長秋記』の「神崎御庄」といった、たった一字-それも史料上あまりにもありふれた-を見すごさず、研究史を丹念にたどり史料を写本に遡って読みこむという研究手法である。その結論が研究史を大きく塗り替えてしまうことの凄みには、戦慄さえおぼえる。第二は、修士在籍中に書かれた処女論文における『国書開封権』という提起が、学界で長きにわたって重要な論点であり続けたり、就職後最初の論文で紹介された三別抄の日本請援史料が国際的な反響をよび、教科書叙述にまで反映されたりといった、あきれるほどの早熟さである。しかも晩年にいたるまでさまざまな反響に誠実に対応し続けたのだった。第三は、人物史研究に臨んで『一見のための百聞』、すなわち人物理解の前提となるあらゆる情報の蒐集をなおざりにしない態度」と評している[43]
  • 榎本渉は、「石井の講義で示されたのは、安易な結論を出す前に写本の異同や文字の用例への最新の目配りを行うなど、妥協のない緻密な考証を重ねる研究スタイルであった。私はこれに実に感心し、憧れたものである(当時ある同級生は、『あの先生、鮮やかだね』と言っていた)[44]」「石井は関心対象の広大さとともに、研究手法としては一文字をゆるがせにしない緻密な考証を得意としていた。つまり石井の研究は、一つは空間的広がり、一つは時間的広がり、一つは緻密な考証を特徴としている[45]」と評している。
  • 近藤剛は、高麗大学に留学に行った際の出来事として「古代対外関係史研究の第一人者であったことは、国内外で広く知られている。留学中、筆者は韓国の研究者から『渤海史(研究者)の石井正敏』の教え子ということで様々な調査・交流の機会を得ることができたが、それと同等に、中世史研究者からは『三別抄(研究)の石井正敏』の教え子として良くしていただいた」と述べており、石井の三別抄に関する論文の韓国での翻訳は「文永八年来日の高麗使について」(『東京大学史料編纂所報』一二)だけであったが「この一本の論文が日本のみならず、韓国において非常に大きなインパクトを与えたことがうかがえる」と述べている[46]。石井の研究については、「石井の研究は、根本となる史料を活字本に依拠するのではなく、原本写本レベルから校訂を加えて本文を確定し、必要に応じて古文書学的な分析を加え、内容の読解に入る」スタンスであると述べている[47]
  • 手島崇裕は、石井の細部にわたる綿密で周到な議論に学びつつ、少しでもその研究成果を受け継ぎ、発展させていきたいと述べている[48]

著書

単著

共編著

著作集

その他

参考文献

脚注

  1. ^ a b c “教養講座 情報の歴史学”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2011年4月21日). http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/research/20110421.html 2018年7月15日閲覧。 
  2. ^ 石井正敏『東アジア世界と古代の日本』山川出版社、2017年12月。ISBN 978-4634541405 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 研究者プロフィール 文学部/教授 石井 正敏”. 中央大学. 2015年10月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月15日閲覧。
  4. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 12
  5. ^ a b c 石井正敏”. researchmap (2015年11月2日). 2018年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月23日閲覧。
  6. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 4
  7. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 4
  8. ^ 博士論文書誌データベース
  9. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 5
  10. ^ 財団法人日韓文化交流基金、第1日韓歴史共同研究報告書 (PDF)
  11. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 84
  12. ^ 赤羽目匡由『渤海王国の政治と社会』吉川弘文館、2011年10月、208頁。ISBN 978-4642081504 
  13. ^ 赤羽目匡由『渤海王国の政治と社会』吉川弘文館、2011年10月、209頁。ISBN 978-4642081504 
  14. ^ 古畑徹『渤海国とは何か』吉川弘文館、2017年12月、158頁。ISBN 978-4642058582 
  15. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 84
  16. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 85
  17. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 86
  18. ^ 浜田久美子『研究動向 渤海史研究の歩み--石井正敏氏、酒寄雅志氏の業績を中心に』校倉書房〈歴史評論〉、2003年2月、74頁。 
  19. ^ 浜田久美子『研究動向 渤海史研究の歩み--石井正敏氏、酒寄雅志氏の業績を中心に』校倉書房〈歴史評論〉、2003年2月、82頁。 
  20. ^ 河内春人『渤海史研究の論点』刀水書房〈唐代史研究〉、2002年6月、106頁。 
  21. ^ 河内春人『渤海史研究の論点』刀水書房〈唐代史研究〉、2002年6月、109頁。 
  22. ^ 河内春人『渤海史研究の論点』刀水書房〈唐代史研究〉、2002年6月、108頁。 
  23. ^ 榎本淳一『日渤関係史研究の成果と意義』史学会〈史学雑誌〉、2004年、108頁。 
  24. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 94-96
  25. ^ 小嶋芳孝『書評 石井正敏『日本渤海関係史の研究』』青木書店〈歴史学研究〉、2002年6月、38頁。 
  26. ^ 小嶋芳孝『書評 石井正敏『日本渤海関係史の研究』』青木書店〈歴史学研究〉、2002年6月、40頁。 
  27. ^ 宮永廣美『石井正敏著『日本渤海関係史の研究』』中央大学〈中央史学25〉、2002年3月、99頁。 
  28. ^ 濱田耕策『書評と紹介 石井正敏著『日本渤海関係史の研究』』吉川弘文館〈日本歴史651〉、2002年8月、111-112頁。 
  29. ^ a b c d e 榎本淳一『日渤関係史研究の成果と意義』史学会〈史学雑誌〉、2004年、107頁。 
  30. ^ 榎本淳一『日渤関係史研究の成果と意義』史学会〈史学雑誌〉、2004年、104頁。 
  31. ^ 榎本淳一『日渤関係史研究の成果と意義』史学会〈史学雑誌〉、2004年、105頁。 
  32. ^ 石井正敏『大宰府の外交面における機能』法政大学史学会〈法政史学22〉、1970年3月。 
  33. ^ 榎本淳一『日渤関係史研究の成果と意義』史学会〈史学雑誌〉、2004年、106頁。 
  34. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 82
  35. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 78
  36. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 80
  37. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 81
  38. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 81
  39. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 82
  40. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 83
  41. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 85
  42. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 83
  43. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 5-8
  44. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 10
  45. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 12
  46. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 40-41
  47. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 57
  48. ^ 前近代の日本と東アジア 石井正敏の歴史学 2017, p. 74-75