「井伊直親」の版間の差分
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[[天文 (元号)|天文]]13年([[1544年]])、[[小野政直]]の讒言によって父を[[今川義元]]に誅殺されると、更なる誅殺対象になりかねない幼少の直親は家臣に連れられ、井伊谷を出奔。祖父・[[井伊直平|直平]]から[[龍潭寺]]の住持に招聘された[[文叔瑞郁]]禅師の縁を頼って、[[武田氏|武田]]領であった[[信濃国]][[伊那郡]]松源寺へ落ち延びた。一説によると、信濃では[[塩澤氏]]の娘との間に[[高瀬姫]]と[[井伊吉直|吉直]]の一男一女を儲けたとされる。 |
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直親殺害の背景には、支配領域が三河に近い井伊氏の中で、親今川派と反今川派で政治的な対立があり、直親が反今川派で元康に接近して、小野が親今川派であったのかもしれないとする指摘がある<ref>千葉篤志「相次ぐ一族・家臣の死と、直虎登場の背景とは?」(歴史と文化の研究所編『井伊一族のすべて』洋泉社、2017年、47-48頁)</ref>。 |
直親殺害の背景には、支配領域が三河に近い井伊氏の中で、親今川派と反今川派で政治的な対立があり、直親が反今川派で元康に接近して、小野が親今川派であったのかもしれないとする指摘がある<ref>千葉篤志「相次ぐ一族・家臣の死と、直虎登場の背景とは?」(歴史と文化の研究所編『井伊一族のすべて』洋泉社、2017年、47-48頁)</ref>。 |
2017年6月29日 (木) 14:12時点における版
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 天文5年(1536年)[1][2] |
死没 | 永禄5年12月14日(1563年1月8日) |
改名 | 亀之丞(幼名)→直親 |
戒名 | 大藤寺院剣峯宗惠大居士 |
墓所 | 龍潭寺 |
官位 | 肥後守(受領名) |
主君 | 今川義元→氏真 |
氏族 | 井伊氏 |
父母 |
父:井伊直満、母:不詳 養父:井伊直盛 |
妻 |
婚約:井伊直虎(井伊直盛娘) 正室:奥山ひよ 側室:塩澤氏の娘? |
子 | 高瀬姫、吉直、直政 |
井伊 直親(いい なおちか)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人井伊氏当主。井伊直満の子。
生涯
天文13年(1544年)、小野政直の讒言によって父を今川義元に誅殺されると、更なる誅殺対象になりかねない幼少の直親は家臣に連れられ、井伊谷を出奔。祖父・直平から龍潭寺の住持に招聘された文叔瑞郁禅師の縁を頼って、武田領であった信濃国伊那郡松源寺へ落ち延びた。一説によると、信濃では塩澤氏の娘との間に高瀬姫と吉直の一男一女を儲けたとされる。
成人した後、弘治元年(1555年)に井伊谷への帰参が叶うと、祝田(静岡県浜松市北区細江町)を拠点とし、奥山朝利の娘の奥山ひよを妻とした。永禄3年(1560年)、従兄であり養父でもある直盛が桶狭間の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。しかし当時の遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、主君の今川氏真から松平元康(のちの徳川家康)との内通の疑いを受ける。縁戚であった新野親矩の取りなしで、陳謝のために駿府へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)または同年3月2日[注釈 1]、掛川で今川家の重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害された[3]。享年27。
直親殺害の背景には、支配領域が三河に近い井伊氏の中で、親今川派と反今川派で政治的な対立があり、直親が反今川派で元康に接近して、小野が親今川派であったのかもしれないとする指摘がある[4]。
これにより井伊氏は一時的に衰退した。家督は養父直盛の娘でかつて許嫁であったとされる直虎が継いだ[注釈 2]。嫡男の虎松は三河鳳来寺などにかくまわれ、15歳の時に徳川家康に仕えるとともに直虎に代わって当主となり、のちの徳川四天王である井伊直政となった。また、遠江国が家康の支配下になった後、直親の無実が証明され、讒言した小野道好は獄門になっている。
具体的な事績には乏しいが、遠江国から逃れる際に直親を射殺そうとした右近次郎を復帰後に機略を用いて成敗したという伝承や、笛の名手で逃亡した際に援助を受けた僧に愛用の笛(青葉の笛)を寄進した伝承などがある。
なお鈴木将典によると、同時代史料を見ると直親は実在した形跡がなく、後世に作成された系図で初めて存在が見られるとし、その存在を疑問視している[5]。
登場する作品
脚注
注釈
- ^ 『井伊家伝記』では、永禄5年12月14日とする。『静岡県史 資料編』は、「異本塔寺長帳」などの史料を典拠として、直親が討たれた日を永禄5年3月2日とする。
- ^ 直親と直盛娘が許嫁であった点については、『井伊家伝記』などの伝承による。