新野親矩

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新野親矩
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄7年9月15日1564年10月29日)?[1][2]
永禄7年12月20日1565年2月1日)?[3]
別名 親規[4][5]
渾名:井伊家の恩人
戒名 大成院功岳宗烈居士[1]
墓所 左馬武神社(静岡県御前崎市[6]
万松山龍潭寺(静岡県浜松市北区[7]
弘徳山龍潭寺滋賀県彦根市
東光院(静岡県浜松市北区)
官位 左馬助[4]
主君 今川義元氏真
氏族 新野氏
父母 父:上田晴昌[8]、母:不明
養父:新野親種 [8]
兄弟 親矩、之規[2][5]祐椿尼井伊直盛室)
清芳院[9]奥山親朝[4]
新五郎(甚五郎)三浦与衛門室、狩野主膳室、庵原朝昌室、ほか[4]

新野 親矩(にいの ちかのり)は、戦国時代武将今川氏の家臣。

略歴[編集]

静岡県浜松市北区引佐町龍潭寺の墓所

信濃国の武将・上田晴昌の次男で、新野親種の養子となる[8]新野氏は今川氏の庶流であり、遠江国城東郡新野村(現在の静岡県御前崎市新野地区)に居住する氏族であった[4]。親矩も新野新城(舟ケ谷城)の城主として今川氏に出仕していた。

主家・今川氏は義元桶狭間の戦いで戦死した後、嫡男・氏真が後を継いでから急速に衰えていた。今川氏の連枝から正室を迎えた三河国松平元康などの離反が相次ぐ中、親矩は氏真に忠節を尽くした。永禄5年(1562年)、同じ遠江国人であった井伊氏の当主・直親は、小野道好の讒言により謀叛の嫌疑を掛けられ、掛川にて横死した[10]。氏真は直親の嫡子・虎松(のちの井伊直政)の殺害も命令したが、親矩は氏真に命乞いをして、直親の未亡人・おひよと虎松を屋敷に保護している[11]。このことは井伊氏の菩提寺・龍潭寺の住職に「井伊氏の歴史で最大の危機を救った」と評されている[12]

その後も今川氏の衰退は止まらず、永禄6年(1563年)からは遠江国衆の曳馬城主・飯尾連竜犬居城主・天野景泰元景父子、二俣城主・松井宗恒らとともに今川氏に謀叛を起こした。これは遠州忩劇(遠州錯乱)と呼ばれる遠江一国を巻き込んだ謀叛であるが、親矩はこの時も弟・之規とともに今川方として戦い[2][5]、引馬城を攻めた際に三浦正俊中野直由らとともに討死にした[1][2]

これには異説があり、『武家事紀』によると永禄7年(1565年)12月20日に飯尾連竜が駿府で誅殺された際、打手の大将として連竜の立て篭もる屋敷を攻め、この戦いで戦死したとされている[3]

死後、左馬武神社に祀られる[12]。幕末になって井伊直中の十男が親矩の子孫・木俣守易の養子となった後、新野氏の名跡を再興し新野親良を名乗っている。

親矩には一男七女があったとされる。男子の新五郎(甚五郎)は後に北条氏に仕え、小田原征伐で戦死したという[4]。娘たちのうちの1人は北条氏家臣の狩野主膳に嫁ぎ、後に井伊氏家老となった木俣守勝に再嫁した(守勝に嫁いだのは、その姉との説もある)。主膳との子・守安は実子のない守勝の後を継ぎ、前述のように子孫が新野家を再興することになる。もう1人は今川氏家臣の庵原朝昌に嫁いだとされる。

登場する作品[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]