小野道好

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小野道好
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄12年4月7日1569年5月3日
別名 政次・但馬守
戒名 南江玄策沙弥
主君 井伊直盛直親今川氏真
氏族 称・小野氏
父母 父:小野政直
兄弟 朝直
未詳
男2人あり

小野 道好(おの みちよし)[1]は、戦国時代武将遠江国引佐郡井伊谷の人。小野 政次(おの まさつぐ)[注釈 1]とも伝わる。

人物[編集]

遠江国引佐郡井伊谷を治める井伊直盛の家老を務めた小野政直嫡男として誕生。天文23年(1554年)、父が病死するとその家督を継承する。父・政直は井伊一門である井伊直満(直盛の叔父)らと対立し、これを謀殺するなどした奸臣として知られており、直満家の脅威であった政直の死により、信濃国へ亡命していた直満の子・直親が帰郷し、直盛の養嗣子の座に収まっている。

永禄3年(1560年)5月、井伊氏は主家にあたる今川氏の西上軍に従うが、今川軍は桶狭間の戦い織田信長に大敗を喫し、井伊直盛も戦死する。直盛は死ぬに先立ち、小野氏が再び専横する事を懸念して、井伊氏の分家筋である中野直由に直親の後見するよう遺言しており、直盛の祖父・井伊直平はこれに従って直親の後見役とした。なお小野家でも道好の弟・朝直と、一族とみられる小野源吾が討死している。同12月[注釈 2]、朝直の舅でもある井伊氏親類衆の奥山朝利を暗殺した[2]

一方、隣国三河国では徳川家康が今川氏を離反し、今川氏を破った織田氏と同盟を結んだ。この頃になると直親も徳川氏に心を寄せ、密かに内通していたという。道好と直親は、父同士が因縁もあり関係は不仲だった。道好は井伊谷を横領しようと画策していたとされるが、直由が後見役に収まっていたために果たせずにいた。そこで直親の内通を知った道好は、永禄5年(1562年)に駿府今川氏真に直親が織田・徳川氏に内通して今川に謀反を起こそうとしていると訴えた[3]。氏真は直親追討の軍を挙げようとしたため、直親は氏真へ陳謝するために駿府へ向かうが、途中の掛川にて今川氏家臣の朝比奈泰朝によって殺害された[4]。道好は氏真の命を奉じて直親の遺児・虎松(後の井伊直政)も討たんとしたが、井伊氏に近い今川家重臣・新野親矩によって阻まれた。その後、永禄6年(1563年)には井伊直平が死去し、永禄7年(1564年)には中野直由が戦死した。井伊谷を預かっていた直由が亡くなり井伊谷城が無主となったため、井伊氏は直盛の娘である次郎法師(井伊直虎)を当主とした。

永禄11年(1568年)、甲斐国武田信玄が今川氏の本国・駿河国に侵攻した。これに際して道好は駿府で今川軍に従っていたが、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢するよう氏真より命じられる。道好はその命を奉じて井伊谷に入り、井伊氏より井伊谷を横領する事となった。虎松や次郎法師、直盛後家の祐椿尼は井伊氏菩提寺の龍潭寺に入って難を逃れている。だが徳川家康は道好の専横に対し、近藤康用鈴木重時菅沼忠久井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。道好は敗北して井伊谷から退去し、近隣に潜伏していたが捕えられ、永禄12年(1569年)に堀川城攻撃の仕置きで、獄門を言い渡され井伊谷で処刑された。そのひと月後には道好の男子2人も斬罪となった。

登場する作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 「政次」の諱は当代史料には見られないが、末裔に伝わる系譜史料に見られるという。
  2. ^ 『井伊年譜』では永禄5年(1562年)12月。

出典[編集]

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』『井伊年譜』による。
  2. ^ 『龍潭寺文書』龍潭寺
  3. ^ 千葉志「相次ぐ一族・家臣の死と、直虎登場の背景とは?」(歴史と文化の研究所編『井伊一族のすべて』洋泉社、2017年、46頁)
  4. ^ 千葉志「相次ぐ一族・家臣の死と、直虎登場の背景とは?」(歴史と文化の研究所編『井伊一族のすべて』洋泉社、2017年、47頁)

参考文献[編集]

  • 寛政重修諸家譜
  • 井伊家伝記
  • 『井伊年譜』
  • 『岳南史』(岳南史刊行会、1935年)
  • 引佐町編『引佐町史 上巻』(引佐町、1991年)
  • 『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年)
  • 楠戸義昭『女城主・井伊直虎』(PHP研究所、2016年)
  • 夏目琢史『女領主井伊直虎と遠江の歴史』(同成社、2016年)
  • 大石泰史『井伊氏サバイバル五〇〇年』(星海社、2016年)
  • 歴史と文化の研究所編『井伊一族のすべて』洋泉社、2017年)
  • 井村修『井伊氏と家老小野一族』(2000年)
  • 川島幸雄『小野篁と遠州小野一族』(2003年)