「ウズベク人」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
オクヤマ (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
編集の要約なし
45行目: 45行目:


== 歴史 ==
== 歴史 ==
ウズベクを率いた[[シャイバーニー朝]]が[[16世紀]]はじめに南下、ティムール朝を滅ぼしてマー・ワラー・アンナフル周辺に定住して以来、ウズベクとは西トルキスタン南部に住む[[テュルク系]]遊牧民のことを指した。一方で、遊牧民から定住化するウズベクも増え、もともとのテュルク語と[[ペルシア語]]系の言葉との[[二言語話者|バイリンガル]]になってそれまでの定住民(チャガタイ・トルコ人や[[タジク人]])との違いがみられない者も都市では珍しくなくなった。このように定住化したウズベクが担った国家はマー・ワラー・アンナフルの[[ブハラ・ハン国]]、ホラズムの[[ヒヴァ・ハン国]]、フェルガナの[[コーカンド・ハン国]]の3国があり、総称してウズベク3ハン国と呼ばれる。これら3国は[[19世紀]]後半に[[ロシア帝国]]によって併合もしくは保護国化され、ロシアはこの地方の[[ムスリム]]定住民を言語に関係なく'''[[サルト人|サルト]]'''と呼んだ。
ウズベクを率いた[[シャイバーニー朝]]が[[16世紀]]はじめに南下、ティムール朝を滅ぼしてマー・ワラー・アンナフル周辺に定住して以来、ウズベクとは西トルキスタン南部に住む[[テュルク系]]遊牧民のことを指した。一方で、遊牧民から定住化するウズベクも増え、もともとのテュルク語と[[ペルシア語]]系の言葉との[[二言語話者|バイリンガル]]になってそれまでの定住民(チャガタイ・トルコ人や[[タジク人]])との違いがみられない者も都市では珍しくなくなった。このように定住化したウズベクが担った国家はマー・ワラー・アンナフルの[[ブハラ・ハン国]]、ホラズムの[[ヒヴァ・ハン国]]、フェルガナの[[コーカンド・ハン国]]の3国があり、男系は[[チンギス・ハーン]]の子孫([[チンギス統原理]])で女系は[[預言者ムハンマド]]の子孫([[サイイド]])という特徴を持つこの3つの国を総称してウズベク3ハン国と呼ばれる。これら3国は[[19世紀]]後半に[[ロシア帝国]]によって併合もしくは保護国化され、ロシアはこの地方の[[ムスリム]]定住民を言語に関係なく'''[[サルト人|サルト]]'''と呼んだ。


[[20世紀]]に入るとマー・ワラー・アンナフルのサルトの間から民族運動が起こり、彼らのうちのテュルク系の一派が西トルキスタン南部のテュルク系定住民と遊牧民を包括した民族名称としてウズベクの名を提唱した。ウズベク人概念は[[ソビエト連邦]]のもとで公式に採用され、ソ連の政策的な民族境界確定作業により、現代ウズベク民族が形成された。しかし、現代ウズベク民族とされた人々の中には、[[サマルカンド]]のウズベク人のように、[[ウズベク語]](と名付けられたテュルク語の一種)よりもむしろ[[タジク語]](と名付けられたペルシア語の一種)を[[母語]]とする人々も多く含まれていると言われている。このため、全世界の全ての地域の「民族」は一定の[[発展段階史観|発展段階]]を原住地でたどり現在に至っているという、[[マルクス・レーニン主義]]の公式に基づいたソ連による民族区分の恣意性がしばしば指摘される。
[[20世紀]]に入るとマー・ワラー・アンナフルのサルトの間から民族運動が起こり、彼らのうちのテュルク系の一派が西トルキスタン南部のテュルク系定住民と遊牧民を包括した民族名称としてウズベクの名を提唱した。ウズベク人概念は[[ソビエト連邦]]のもとで公式に採用され、ソ連の政策的な民族境界確定作業により、現代ウズベク民族が形成された。しかし、現代ウズベク民族とされた人々の中には、[[サマルカンド]]のウズベク人のように、[[ウズベク語]](と名付けられたテュルク語の一種)よりもむしろ[[タジク語]](と名付けられたペルシア語の一種)を[[母語]]とする人々も多く含まれていると言われている。このため、全世界の全ての地域の「民族」は一定の[[発展段階史観|発展段階]]を原住地でたどり現在に至っているという、[[マルクス・レーニン主義]]の公式に基づいたソ連による民族区分の恣意性がしばしば指摘される。

2016年6月9日 (木) 14:59時点における版

ウズベク
O‘zbeklar
ウズベクの人々
総人口
約2700〜3300万人
居住地域
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン2730万人
アフガニスタンの旗 アフガニスタン290万人
タジキスタンの旗 タジキスタン110万人
キルギスの旗 キルギス74万人
カザフスタンの旗 カザフスタン37万1000人
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン26万人
ロシアの旗 ロシア12万6000人
中華人民共和国の旗 中国14,800人
ウクライナの旗 ウクライナ13,000人
言語
ウズベク語
宗教
イスラム教スンナ派


ウズベクウズベク語: O‘zbek, ロシア語: Узбек, 英語: Uzbek)は、西トルキスタン南部、ホラズム地方からフェルガナ地方にかけてに広がって居住し、中央アジアで最大の人口を抱えるテュルク系民族で、容貌的にはモンゴロイドを基本としてコーカソイドが入り混じっている。

民族国家として、中央アジアでもっとも人口の集中したマー・ワラー・アンナフル地方の大半を領土とするウズベキスタン共和国を持つほか、中国新疆ウイグル自治区アフガニスタンの北部マザーリシャリーフ周辺にもそれぞれ数十万人が住む。

名称

自称はO‘zbekで、まれにオズベクとも表記される。ウズベク(オズベク)は、テュルク語で「自分」を意味するオズ(öz)と「君主」を意味するベグ(beg)が語源で、「自身が主」を意味するという。この名が民族名に使われたのは、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の最盛期を築き、支配下の遊牧民たちをイスラム教に改宗させたウズベク・ハンに由来するとの説が有力であり、15世紀頃に中央アジアの南部にいたチャガタイ・トルコ人(ティムール朝の人々)が北のジョチ・ウルス東部の遊牧民たちを「ウズベクたち」(ウズベク族)と呼んだことが知られる。これを後述する現代のウズベク民族と区別する必要があるときはとくに遊牧ウズベクと呼ぶ。

歴史

ウズベクを率いたシャイバーニー朝16世紀はじめに南下、ティムール朝を滅ぼしてマー・ワラー・アンナフル周辺に定住して以来、ウズベクとは西トルキスタン南部に住むテュルク系遊牧民のことを指した。一方で、遊牧民から定住化するウズベクも増え、もともとのテュルク語とペルシア語系の言葉とのバイリンガルになってそれまでの定住民(チャガタイ・トルコ人やタジク人)との違いがみられない者も都市では珍しくなくなった。このように定住化したウズベクが担った国家はマー・ワラー・アンナフルのブハラ・ハン国、ホラズムのヒヴァ・ハン国、フェルガナのコーカンド・ハン国の3国があり、男系はチンギス・ハーンの子孫(チンギス統原理)で女系は預言者ムハンマドの子孫(サイイド)という特徴を持つこの3つの国を総称してウズベク3ハン国と呼ばれる。これら3国は19世紀後半にロシア帝国によって併合もしくは保護国化され、ロシアはこの地方のムスリム定住民を言語に関係なくサルトと呼んだ。

20世紀に入るとマー・ワラー・アンナフルのサルトの間から民族運動が起こり、彼らのうちのテュルク系の一派が西トルキスタン南部のテュルク系定住民と遊牧民を包括した民族名称としてウズベクの名を提唱した。ウズベク人概念はソビエト連邦のもとで公式に採用され、ソ連の政策的な民族境界確定作業により、現代ウズベク民族が形成された。しかし、現代ウズベク民族とされた人々の中には、サマルカンドのウズベク人のように、ウズベク語(と名付けられたテュルク語の一種)よりもむしろタジク語(と名付けられたペルシア語の一種)を母語とする人々も多く含まれていると言われている。このため、全世界の全ての地域の「民族」は一定の発展段階を原住地でたどり現在に至っているという、マルクス・レーニン主義の公式に基づいたソ連による民族区分の恣意性がしばしば指摘される。

ウズベク民族はこのような経緯を経て成立したため、ティムール朝を滅ぼしたウズベクの名を冠した民族がティムールを自民族最大の英雄として賞賛するという矛盾が生じている[1]

脚注

  1. ^ 宇山智彦編著『中央アジアを知るための60章』第2版(エリア・スタディーズ26, 明石書店, 2010年2月)、98-99頁

関連項目

外部リンク