「オール与党」の版間の差分

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[[2007年愛知県知事選挙|2007年の愛知県知事選]]では民主は独自候補を擁立したものの、{{要出典範囲|[[日本労働組合総連合会|連合]]と共に共産の協力を自ら拒絶|date=2014年1月}}。共産に独自候補を擁立させた結果、僅差で与党候補に敗れた。一方、[[東京都]]では民主の支援する(公式な推薦・支持はしていない)候補への一本化を共産に期待する意見が見られたが、共産は候補者との路線の違いや、民主がオール与党体制に加わっていることなどを理由に、民主支援の候補を自民公明支援の候補と同列に批判した。結果として与党が事実上支援する現職が大勝した。このように野党間の政策・心理的開きが大きく、選挙によって各党の思惑が衝突するため、共産以外の野党にとってはオール与党体制に安住しやすい構造となっている。また、共産にとっても、オール与党批判によって一定の支持を確保できる現状があるため、ここでも他の野党との協力に抵抗が生まれる。
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一方で[[2007年大阪市長選挙|2007年11月の大阪市長選]]では民主党等が推す新人候補の[[平松邦夫]]が自民党・公明党が推薦した現職候補の[[關淳一]]を大差で破ったように政権を狙う民主党側は自民・公明両党と距離を取る姿勢も示しているが、これに対して自民・公明両党は民主党が推薦した候補に後から推薦する方法(「京都方式」)を2008年[[京都市長選で採用しており([[2007年大阪府知事選挙|大阪府知事選]]でも同様の方法が模索されたが結果的に両党は民主推薦の[[熊谷貞俊]]ではなく府連レベルで[[橋下徹]]を推薦・支持し大差で当選させた)、相乗りを温存しようとする姿勢は自民・公明両党には根強い。
一方で[[2007年大阪市長選挙|2007年11月の大阪市長選]]では民主党等が推す新人候補の[[平松邦夫]]が自民党・公明党が推薦した現職候補の[[關淳一]]を大差で破ったように政権を狙う民主党側は自民・公明両党と距離を取る姿勢も示しているが、これに対して自民・公明両党は民主党が推薦した候補に後から推薦する方法(「京都方式」)を2008年[[京都市]]長選で採用しており([[2008年大阪府知事選挙|大阪府知事選]]でも同様の方法が模索されたが結果的に両党は民主推薦の[[熊谷貞俊]]ではなく府連レベルで[[橋下徹]]を推薦・支持し大差で当選させた)、相乗りを温存しようとする姿勢は自民・公明両党には根強い。


2009年の[[第45回衆議院議員総選挙]]で民主党が大勝し、国政では民主党・社民党([[2010年]]に[[普天間基地移設問題|普天間基地問題]]で対立して下野)・[[国民新党]]が新たな与党となった。しかし、国政では野党となった自民党・公明党であるが、地方議会では依然として多くの自治体で主導権を握り、民主党も独自候補の擁立には消極的だった。そのため、地方での構図に大きな変化は無かった。
2009年の[[第45回衆議院議員総選挙]]で民主党が大勝し、国政では民主党・社民党([[2010年]]に[[普天間基地移設問題|普天間基地問題]]で対立して下野)・[[国民新党]]が新たな与党となった。しかし、国政では野党となった自民党・公明党であるが、地方議会では依然として多くの自治体で主導権を握り、民主党も独自候補の擁立には消極的だった。そのため、地方での構図に大きな変化は無かった。

2015年8月6日 (木) 01:17時点における版

オール与党(オールよとう)とは、日本の、特に地方自治において、日本共産党以外の全ての国政政党が与党化する現象のこと。

地方自治体でのオール与党

民主党発足までの状況

1980年社公合意以降、自由民主党日本社会党公明党民社党など日本共産党を除く全ての政党が地方自治体首長選挙において同一候補を推薦・支持する体制が常態化した。

国政政党での野党が国政政党での与党候補を支持することは「相乗り」と表現されることが一般的である。社会党が1948年片山内閣崩壊後は1994年村山内閣まで野党として活動し、一方で自他共に保守勢力の代表と認める自民党は1993年から1994年非自民・非共産連立政権2009年から2012年までの民主党政権を除く大半の期間で与党となっていたため、与野党相乗りは事実上、自民党が推す保守系の候補者に革新中道系の各政党が同調する形で実施された。

この傾向は、まず1960年に発足した民社党(当時の民主社会党)が、社共共闘で自民党政権との対決を重視する当時の社会党の方針への反発もあり、多くの知事選で自民党への相乗りをした事から始まった。次いで、1970年代後半以降に党の基本政策を転換して民社党との「中道勢力の結集」を理由に自民党との協力を強めた公明党がこれに加わり、上記の通り1980年代に社公民路線へと向いた社会党がさらに追うという形で実現した。この経緯もあり、「相乗り」の中でも社会党の影響力は限定的なものだった。

一方、国政政党の保守与党が国政政党の革新野党候補を支持することもあった。例として、滋賀県武村正義神奈川県長洲一二世田谷区大場啓二などは、日本共産党も含む社共共闘、あるいは民社・公明両党まで含む全野党共闘によって当選した「革新自治体」系の首長に対し、県政(区政)野党として影響力が低下していた自民党がその再選時に政策協定を結んで与党に返り咲くという経緯をたどった。これらの場合では当選当初から進めていた政策の多くがその後も引き継がれ、社会党の影響力は維持されたが、当初は重要な支持母体の一つだった共産党は首長による自民党政権への迎合や政策転換を理由にこの「オール与党」体制から離脱して、後に対立候補を出す場合もあった[1]。非常に稀だが、神戸市宮崎辰雄のように自民・社会・共産・民社・公明の全政党が相乗りする場合もある[2]

民主党発足後の状況

「オール与党」体制の維持は、社会党や民社党が衰退し、その旧勢力を取り込んだ民主党が社会党に代わる第一野党になってからも続いていた。

2006年4月に小沢一郎民主党代表に就任してから政令指定都市都道府県の首長選挙で原則相乗り禁止の方針を打ち出した。このことによりオール与党体制は改善するとの見方もあった。しかし実際には、香川愛媛和歌山福井三重奈良鳥取島根徳島など、殆どの自治体で自公社と同一の候補を支援したり、「自主投票」として候補者を立てられないなど、方針は十分に実行されなかった(ただし、三重は前回独自候補として当選させた候補に、与党の側から乗って来たものである。しかし、徳島では前回民主などの推す現職が与党候補に敗れ、その後対立候補と協調路線を取った)。また、政令指定都市以外の市区町村については現在も相乗りが容認されている。対立候補を擁立できない原因は、現行の選挙制度では高齢批判や多選批判、大きなスキャンダルなどの無い現職候補に勝つのが難しいことが挙げられる。政策面でも民主党と自公との対立は余り無く、採決や請願採択などの行動においてもほぼ同じなため、共産党など他の野党との共闘は進んでいない[要出典]

2007年の愛知県知事選では民主は独自候補を擁立したものの、連合と共に共産の協力を自ら拒絶[要出典]。共産に独自候補を擁立させた結果、僅差で与党候補に敗れた。一方、東京都では民主の支援する(公式な推薦・支持はしていない)候補への一本化を共産に期待する意見が見られたが、共産は候補者との路線の違いや、民主がオール与党体制に加わっていることなどを理由に、民主支援の候補を自民公明支援の候補と同列に批判した。結果として与党が事実上支援する現職が大勝した。このように野党間の政策・心理的開きが大きく、選挙によって各党の思惑が衝突するため、共産以外の野党にとってはオール与党体制に安住しやすい構造となっている。また、共産にとっても、オール与党批判によって一定の支持を確保できる現状があるため、ここでも他の野党との協力に抵抗が生まれる。

一方で2007年11月の大阪市長選では民主党等が推す新人候補の平松邦夫が自民党・公明党が推薦した現職候補の關淳一を大差で破ったように政権を狙う民主党側は自民・公明両党と距離を取る姿勢も示しているが、これに対して自民・公明両党は民主党が推薦した候補に後から推薦する方法(「京都方式」)を2008年京都市長選で採用しており(大阪府知事選でも同様の方法が模索されたが結果的に両党は民主推薦の熊谷貞俊ではなく府連レベルで橋下徹を推薦・支持し大差で当選させた)、相乗りを温存しようとする姿勢は自民・公明両党には根強い。

2009年の第45回衆議院議員総選挙で民主党が大勝し、国政では民主党・社民党(2010年普天間基地問題で対立して下野)・国民新党が新たな与党となった。しかし、国政では野党となった自民党・公明党であるが、地方議会では依然として多くの自治体で主導権を握り、民主党も独自候補の擁立には消極的だった。そのため、地方での構図に大きな変化は無かった。

2000年代に行われた東京都知事選挙では、東京都の民主党は現職・石原慎太郎自称「無党派」であるが[要出典]自民党・公明党が支援している)の与党に準じる存在ではあるが独自候補を擁立するという構図となっており、土屋敬之など石原に近い立場の民主党の議員が党が支援した候補ではなく石原を支援するという姿が見られた。また、この時の東京都の民主党は選挙が終わると事実上の与党に復帰している[3]2012年の石原の辞任により行われた都知事選では、民主党は独自候補を見送る一方、共産党、社民党、そして民主党を除籍(除名)された小沢一郎らの国民の生活が第一が共に同一候補を支持することになり、変則的ながら1987年以来の革新共闘の成立となった。

新党日本自由連合など小政党は、地方自治体レベルの選挙では推薦・支持する候補を決定しない場合も多いが、野党候補が立候補していても自公推薦候補を支援することが多い。自由連合は、2006年に德田毅代表が自民入党の上自民の「友好団体」となることを表明し、名実共に与党化した(自由連合は2010年解散)。ただし、新社会党は、地方自治体の選挙では日本共産党が推薦・支持する候補を支援することが多い。

例外として、沖縄では与野党相乗りが少なく、地域政党の沖縄社会大衆党が反保守共闘の中心になっている。そのため、オール与党体制とはなっていない。また、特殊な事例ではあるが、2006年に行われた滋賀県知事選挙では社会民主党支持の嘉田由紀子が自民党・公明党・民主党が推薦する候補者を破った。

批判

上記の「オール与党・総与党体制」は、しばしば批判の対象となっている。

地方議会で共産党を排除する談合体質が常態化したこと、共産党以外の政党が自公の政策にほぼ賛同するようになった結果、議会のチェック機能を果たせなくなり、財政赤字・官製談合などの諸問題を放置することが多くなったと言われている。また、事前に選挙結果の予想がつくことが多いために住民の選挙に対する関心が低下し、相乗りが行われた都道府県知事選挙や市町村長選挙の投票率は、他の選挙と同時に行われた場合などを除いて低くなっている[要出典]

また、「オール与党」体制の候補者が選挙に出た場合、対立候補は落選しながらも、その基礎票を大きく上回る得票を得る事がある。一例として、1979年1983年の神奈川県知事選挙では自民党が後乗りして「オール与党」体制になった長洲一二に対し、日本労働党から山本正治が挑戦した場合がある。同党は国政にも神奈川県内の自治体にも議員を送れず、山本自身も当時の中選挙区制の神奈川2区では得票率1%未満での落選を繰り返す「泡沫候補」の実力しかなかったが、この県知事選では1979年に19万票、1983年には36万票を獲得した。特に後者では得票率が10%を大きく超えた上、文字通りの一騎討ちとなったために山本の経歴や主張が長洲と同格で大きく扱われた[4]

「相乗り」と「共闘」について

いずれも、特定の主義主張を超えた選挙などの協力に用いられるが、ニュアンスは異なる。

「相乗り」は「オール与党」である場合も含め、自民党など保守政党が中心になるケースが多い。

一方、「共闘」は統一戦線であり、革新政党もしくは左翼政党が中心になったケースで用いられる。また、「相乗り」が基本的に選挙のみの協力を指すのに対し、「共闘」は選挙以外での協力を含めるケースが多い。

国会でのオール与党

なお、80年代以降、国会においても国会対策委員長会談が共産党を排除して行われ、法案採決や日程について他の全ての政党の間で調整が図られ、「表で対立、裏では協調」という国対政治が進められていた。共産党を除いた全党が賛成に回る法案も多数存在する。そのため国会についてもオール与党であると共産党は指摘している。無論、共産党を含めた「全会一致」で可決される法案も多数存在する。

2007年には、渡辺恒雄の呼びかけにより、ねじれ国会となっていた中央政界を打開を目的に自民党総裁福田康夫と民主党代表小沢一郎との間で大連立に向けて党首会談が行なわれ、国会でのオール与党実現が検討された。

2009年9月にかつての第一野党だった民主党中心の政権が発足(政権交代)して以降、民主党が安全保障問題、社会保障問題、税制問題、国民総背番号制機密費公開問題などでかつての与党だった自民党に近い保守寄りの政策を打ち出す姿勢を見せたことで、民主党と自民党との間に政策の明確な対立軸が少なく無くなりつつあり、オール与党体制となりつつある[要出典]

脚注

  1. ^ 例えば長洲に対しては、1975年の初当選時には社会党と共に「明るい革新県政をつくる会」を組織してその中核となったが、1987年の四選時と1991年の五選時には県政与党から離脱し、独自候補を擁立した。出典:「平和ですみよい神奈川民主県政をつくる会」、「会について
  2. ^ 川口徹「1975年の非核神戸方式を巡る中央地方関係」 、『社学評論集』第16号、早稲田大学科学総合芸術院、2010年9月
  3. ^ 都議会は自公民「オール与党」民主党 99.3%賛成 どこからみても与党 2009年7月8日(水)「しんぶん赤旗」
  4. ^ その後は共産党が長洲とその後継の岡崎洋に対立候補を擁立したが、山本は1999年まで県知事選に立候補を続け、1995年には自己最多の45万票となって共産党推薦候補の半分以上の得票を記録した。

関連項目