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2013年12月7日 (土) 08:52時点における版
アンドリュー・ジョンソン Andrew Johnson | |
任期 | 1865年4月15日 – 1869年3月4日 |
---|---|
元首 | エイブラハム・リンカーン |
任期 | 1865年3月4日 – 4月15日 |
任期 | 1862年3月12日 – 1865年3月4日 |
任期 | 1857年10月8日 – 1862年3月4日 |
任期 | 1875年3月4日 – 7月31日 |
出生 | 1808年12月29日 アメリカ合衆国、ノースカロライナ州ローリー |
死去 | 1875年7月31日(66歳没) アメリカ合衆国、テネシー州エリザベストン |
政党 | 民主党 国民統一党 |
配偶者 | イライザ・マカーデル・ジョンソン |
署名 |
アンドリュー・ジョンソン(英語: Andrew Johnson, 1808年12月29日 - 1875年7月31日)は、アメリカ合衆国の第16代副大統領および第17代大統領。リンカーン大統領の暗殺に続いてジョンソンは南北戦争後の4年間、合衆国のレコンストラクションを統括した。ホワイトサウスを支持する立場を取ったジョンソンは共和党からの激しい政治攻勢を受け、弾劾訴追を受けることとなった。
南部11州の脱退時点で、ジョンソンは脱退したテネシ-州選出の上院議員であったが、脱退反対論の強かったグリーンビル出身であった。ユニオニストとして彼は、辞職しなかった唯一の南部出身上院議員であった。彼は最も著名な南部出身のウォー・デモクラットとなり、南北戦争の間、リンカーンの軍事政策を支持した。1862年にリンカーンはテネシー州軍政長官にジョンソンを任命した。ジョンソンは反乱への対処とレコンストラクションへの移行を始めるのに精力的に活動した。
ジョンソンは1864年に国民統一党の副大統領候補に指名された。リンカーンと共に1864年11月に選挙に勝利し、1865年3月4日に副大統領に就任した。1865年4月15日にリンカーンが暗殺されると、大統領職を継いだ。
生い立ち
1808年12月29日にジェイコブ・ジョンソン(1778年 - 1812年)およびメアリー・マクドノー(1783年 - 1856年)の息子としてノースカロライナ州ローリーで生まれた。父親のジェイコブはアンドリューが3歳頃に死去し、一家は貧困の中に残された。母親は家計を支えるため機織りの仕事を行い、後に再婚した。母親はアンドリューが10歳か14歳の時に洋服屋へ奉公に行かせた[1]。1820年代に彼はサウスカロライナ州ローレンスの仕立屋で働いた[2]。貧しい家庭のためジョンソンは正式の教育を受けず、独学で読み書きを学んだ[3]。
1826年、16歳もしくは17歳で見習いを終え、兄弟と共にテネシー州グリーンビルへ移り住んだ。同地で洋服屋の従業員として働く[3][4] 。1827年、19歳のジョンソンは17歳のイライザ・マカーデルと結婚した。1828年から52年までの間に夫妻は5人の子供をもうけた。:マーサ(1828年生)、チャールズ(1830年生)、メアリー(1832年生)、ロバート(1834年生)、アンドリュー・ジュニア(1852年生)[5]。イライザは基礎的な代数までの計算をジョンソンに教え、彼の読み書きと作文を改善するために家庭教師を行った[3]。
政治経歴
1828年から1830年までグリーンビル市会議員、1834年から1838年までグリーンビル市長を務めた。1835年から1837年および1839年から1841年まで下院議員。同年に民主党上院議員に選出され、第28議会および次の4つの議会に選ばれた(1843年3月4日~1853年3月3日)。第31と第32議会の公共支出委員会の議長だった。
自ら奴隷を有し奴隷制の賛同者であるが、脱退反対勢力の強かった東テネシ-出身であり、南部諸州の脱退に反対であった。脱退した11州選出の上院議員のうち、ワシントンにとどまったのは彼だけであった。ゆえにリンカーンに気に入られ、副大統領の地位を手に入れる。リンカーン大統領暗殺事件後は大統領に昇格。リンカーンがやり残した南北戦争の戦後処理をおこなった。黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部人指導者の政治的権利を復活させた。
戦後、北部出身で奴隷制反対論者の共和党内の多数派は黒人解放・奴隷制廃止の方向に動いたが、ジョンソンは奴隷制廃止を唱える議会と対立。拒否権を29回行使している。
内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | アンドリュー・ジョンソン | 1865 - 1869 |
副大統領 | なし | |
国務長官 | ウィリアム・スワード | 1865 - 1869 |
財務長官 | ヒュー・マカロック | 1865 - 1869 |
陸軍長官 | エドウィン・スタントン | 1865 - 1868 |
ジョン・マカリスター・スコフィールド | 1868 - 1869 | |
司法長官 | ジェイムズ・スピード | 1865 - 1866 |
ヘンリー・スタンベリー | 1866 - 1868 | |
ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ | 1868 - 1869 | |
郵政長官 | ウィリアム・デニソン | 1865 - 1866 |
アレクサンダー・ウィリアムズ・ランドール | 1866 - 1869 | |
海軍長官 | ギデオン・ウェルズ | 1865 - 1869 |
内務長官 | ジョン・パーマー・アッシャー | 1865 |
ジェイムズ・ハーラン | 1865 - 1866 | |
オーヴィル・ヒックマン・ブラウニング | 1866 - 1869 | |
農務長官 | ホーレス・ケプロン | 1867 - 1869 |
弾劾
連邦政府による南部再建(レコンストラクション)において、南部人に寛大な政策をとったとみられ、そのせいで共和党急進派のメンバーと馬が合わず、政敵である陸軍長官スタントンを罷免したことからThe Tenure Law(政府高官が在職中は罷免を免れる法律)を破ったという口実で弾劾裁判にかけられた。ジョンソンに対する弾劾の訴追は1868年2月24日に下院を通過した。弾劾法廷は同年3月5日に上院で組織された。上院での弾劾決議の採決では賛成35票・反対19票(賛成率が64.8%)となった。弾劾の成立には三分のニ以上、つまり36票以上の賛成が必要だが、1票足りなかった。そのため、辛うじてジョンソンは大統領の座を保つことができた。しかし、この一連の騒動により議会とジョンソンの対立の溝は決定的なものになり、政権のレームダック化は免れなかった。1869年3月4日に任期満了に伴い退任した。
ジョンソンは1998年12月19日にビル・クリントンが弾劾訴追で弾劾裁判にかけられるまで、唯一弾劾裁判にかけられた大統領だった。また、ウォーターゲート事件で追い詰められたリチャード・ニクソンは、弾劾訴追をうけると、弾劾裁判前に辞職している。
大統領職後
ジョンソンは1868年の上院および1872年の下院選挙で落選した。1875年3月4日、民主党の上院議員として、大統領経験者としては唯一選出されたが、7月31日にテネシー州エリザベストンの近くで死去した。遺体はテネシー州グリーンビルのアンドリュー・ジョンソン国立墓地に葬られた。
参照
- ^ 14 according to Britannica, 10 according to Karin L Zipf
- ^ Laurens Historic District historical marker
- ^ a b c 'Andrew Johnson', Encyclopædia Britannica
- ^ Karin L Zipf. Labor Of Innocents: Forced Apprenticeship in North Carolina, 1715–1919 (2005) pp 8–9
- ^ “The Andrew Johnson Collection”. 2007年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月17日閲覧。 Timeline of President Andrew Johnson's Life (PDF) from the Web site of the president Andrew Johnson Museum and Library at Tusculum College
外部リンク
- Andrew Johnsonの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- The Andrew Johnson Administration
- Articles of Impeachment
- White House Biography
- Mr. Lincoln's White House: Andrew Johnson
- Andrew Johnson on Find-A-Grave
- The Impeachment trial of President Johnson as reported in Harper's Monthly Magazine April 1868
- Obituary, NY Times, August 1, 1875, Andrew Johnson Dead
- Vice Presidential biography. From the Senate Historical Office.
- Andrew Johnson Cleveland Speech (September 3, 1866)
- Congressional Globe transcript of Johnsons inaugural address
- Speeches of Andrew Johnson : President of the United States 1866 collection at archive.org
- Andrew Johnson's 200th Birthday Celebration site at DiscoverGreeneville.com
- Andrew Johnson: A Resource Guide from the Library of Congress
- Tennessee State Library & Archives, Andrew Johnson Papers, 1846-1875
- Tennessee State Library & Archives, Papers of Governor Andrew Johnson, 1853-1857
- Tennessee State Library & Archives, Papers of (Military) Governor Andrew Johnson, 1862-1865
- United States Congress. "アンドリュー・ジョンソン (id: J000116)". Biographical Directory of the United States Congress (英語). Retrieved on 2009-03-02
- Essay on Andrew Johnson and shorter essays on each member of his cabinet and First Lady from the Miller Center of Public Affairs
- Paper comparing the impeachments of Andrew Johnson and Bill Clinton
公職 | ||
---|---|---|
先代 エイブラハム・リンカーン |
アメリカ合衆国大統領 1865年4月15日 - 1869年3月4日 |
次代 ユリシーズ・グラント |
先代 ハンニバル・ハムリン |
アメリカ合衆国副大統領 1865年3月4日 - 1865年4月15日 |
空位 次代の在位者 スカイラー・コルファクス
|
先代 ウィリアム・B・キャンベル |
テネシー州知事 1853年 - 1857年 |
次代 アイシャム・G・ハリス |
アメリカ合衆国上院 | ||
先代 ウィリアム・G・ブラウンロー |
テネシー州選出上院議員(第1部) 1875年3月4日 - 1875年7月31日 同職:ヘンリー・クーパー |
次代 デヴィッド・M・キー |
先代 ジェームズ・C・ジョーンズ |
テネシー州選出上院議員(第1部) 1857年10月8日 - 1862年3月4日 同職:ジョン・ベル, アルフレッド・O・P・ニコルソン |
次代 空席 テネシー州の離脱による 次代: デヴィッド・T・パターソン |
アメリカ合衆国下院 | ||
先代 トーマス・D・アーノルド |
テネシー州選出下院議員 テネシー州第1選挙区 1843年3月4日 - 1853年3月3日 |
次代 ブルッキンズ・キャンベル |
党職 | ||
先代 ハンニバル・ハムリン |
共和党副大統領候補1 1864年 |
次代 スカイラー・コルファクス |
軍職 | ||
先代 アイシャム・G・ハリス テネシー州知事として |
テネシー州軍政長官 1862年 - 1865年 |
次代 エドワード・イースト テネシー州知事代行として |
名誉職 | ||
先代 ミラード・フィルモア |
最長寿のアメリカ合衆国大統領 1874年3月8日 - 1875年7月31日 |
次代 ユリシーズ・グラント |
注釈 | ||
1. リンカーンとジョンソンは国民統一党候補として1864年の大統領選に出馬した。 |