「鳥海山大物忌神社」の版間の差分
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2013年10月11日 (金) 08:58時点における版
鳥海山大物忌神社 | |
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神体山とされた 霊峰 鳥海山 | |
所在地 |
山形県飽海郡遊佐町に3宮 (各項参照) |
主祭神 | 大物忌大神 |
神体 | 鳥海山(神体山) |
社格等 |
式内社(名神大) 出羽国一宮 旧国幣中社 別表神社 |
創建 | (伝)景行天皇または欽明天皇年間 |
鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)は、山形県飽海郡遊佐町にある神社。式内社(名神大社)、出羽国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
概要
鳥海山頂の本社と、麓の吹浦と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称する。出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる鳥海山を神体山とする。当社は鳥海山の山岳信仰の中心を担ってきており、平成20年(2008年)3月28日に神社境内が国の史跡へ指定されている。
祭神
鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期からは出羽国における山岳信仰の中心として現在の山形県庄内地方や秋田県由利郡および横手盆地の諸地域など周辺一帯の崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰されてきた。
歴史
創建
景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられる[1]。『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽国司の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが[2]、それ以前の記録は欠けているため創建時期は特定できない。また、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているため勧請についても諸説生じさせている。
夷征と大物忌神
越国より始められた夷征は、慶雲から和銅の頃に庄内以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた蝦夷が群居し、常に噴煙を吐き時々大爆発する鳥海山の存在は朝廷軍にとって脅威であった。そのような状況で、もともと日本では山岳信仰が盛んだった背景もあって、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑ったのではないか、と『名勝鳥海山』[3]では推測している。
前述の『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽国司からの報告には、さらに以下の記述がある。
4月8日に噴火があり、土石を焼き、雷鳴のような声を上げた。山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水が溢れ、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10丈(約30m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小蛇は数知れずである。河の緑の苗は流れ損ずるものが多く、中には濁った水に浮いているものもある。古老に尋ねたところ、未曾有の異変であるが、弘仁年間に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった。そこで報告を受けた朝廷が陰陽寮にて占いを行ったところ、結果は全て、出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ。もし鎮謝報祭を行わなければ戦乱が起こる、と言うものであった。そこで奉賽を行うと共に神田を汚している家墓骸骨を除去せよと国守に命じた。
この記述は鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』[3]では述べている。
元来、鳥海山は山名が無く[4]、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生させるものだと朝廷は考えたことが、この山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』[3]では考察している。また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、『日本紀略』天慶2年(939年)4月17日の条にある秋田夷乱(天慶の乱)発生の報が到達した際、朝廷で物忌が行われた[5]ことを挙げている。なお『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条には、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。
鳥海山の神威と神階昇叙
鳥海山の噴火は大物忌神の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より神階の陞叙が行われた。『続日本後紀』承和5年(838年)5月11日の条において従五位上であった大物忌神を正五位下に1級進めていることから、これ以前に神階の授位があったことは明らかであるが、文献上の記録が無いため最初の授位がいつかは不明である。以下は時系列的に並べた神階の授与である。
- 正五位下勳五等を従四位下勳五等へ陞叙。前年に遭難した遣唐使船が海賊の襲撃にあった際、寡兵で海賊を撃退したが、これは同じ頃に噴火して神威を表した大物忌神の加護によるものであるとして、神封2戸の寄進と共に仁明天皇の宣命が添え下された。
- 『日本三代実録』 貞観4年(862年)11月1日の条 正四位下勳五等へ陞叙。また、官社に指定された。
- 『日本三代実録』 貞観6年(864年)2月5日の条 正四位下勳五等より正四位上勳五等へ陞叙。
- 『日本三代実録』 貞観6年(864年)11月5日の条 正四位上勳五等より従三位勳五等へ陞叙。
- 『日本三代実録』 貞観15年(873年)4月5日の条
- 従三位勳五等より正三位勳五等へ陞叙。貞観13年(871年)の大噴火沈静後、山頂社殿を再建し宿祷報祭記を行ったのを受け陞叙された。
- 秋田夷乱(元慶の乱)において朝廷軍が敗退したのを受け占ったところ、古来より征戦に霊験を有する大物忌神、月山神、小物忌神の3神が、神気賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出た。そこで爵級を増せば霊応あるべしとして、正三位勳五等を正三位勳三等に進めた。『日本三代実録』によれば、これより前の元慶2年(878年)7月10日の条で神封2戸が加増され、4戸となっている。
- 『日本三代実録』 元慶4年(880年)2月27日の条
- 正三位勲三等より従二位勳三等へ陞叙。秋田夷乱(元慶の乱)平定後、平時に復したのを受け陞叙となった。これが中世以前では最後の昇叙の記録であるが、『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条において出羽国司が官符を賜った時は正二位勳三等となっている。
神仏習合
六国史によれば斉衡3年(856年)から貞観12年(870年)の間に出羽国では定額寺が6ヶ所指定され、また『日本三代実録』仁和元年(885年)11月21日の条では飽海郡に神宮寺があったと記していることから、出羽における神仏習合はこの時期に始まったと『名勝鳥海山』[3]では推測している。また同書によれば、大物忌神へ奉仕する職制は神仏習合以来変化し、従来の唯一神道を以って奉仕する社家、神宮寺の仏式を以って奉仕する社僧に別れたが、その後の仏教隆盛に従い社家は段々と衰退して行き、中世には本地垂迹説により鳥海山大権現と称して社僧が奉仕をしていたのだと言う。これが後の明治の神仏分離によって、大物忌神社に復すまで続くことになる。
出羽国一宮
延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大社とされた。また、『延喜式』の「主税式」においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは陸奥国鹽竈社、伊豆国三島社、淡路国大和大国魂社と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。
当神社は出羽国一宮とされ、南北朝時代の正平13年(北朝の元号では延文3年、1358年)、南朝の陸奥守兼鎮守府将軍である北畠顕信が南朝復興と出羽国静謐を祈願した寄進書[6]に出羽国一宮の記述が見える。これが文献上における一宮名号の初見であるとされる。
一宮争い
鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所 ( 鳥海修験 も参照のこと。) があり、各登山口には大物忌神へ奉仕する宗徒社人が集って、連綿とした事由から互いに反目競争するに至っていたが、ついには庄内藩や江戸幕府の裁決を仰ぐことが少なからず起こるようになった。以下、そのいくつかを上げる。
- 吹浦、蕨岡の論争
- 吹浦の宗徒社人は山上の大物忌神を吹浦に遷座したと説くと共に月山神を勧請し、両所宮と称して神宮寺の創建より隆盛を来たしていた。これに対し蕨岡の宗徒社人は山上の鳥海山大権現の学頭別当と称し、直接山上に奉仕していた。この考え方の違いがお互いに反目する原因となっていたが、蕨岡宗徒が吹浦からの登山者を差し止めたことから両者の論争となり、承応3年(1654年)ついに庄内藩や江戸寺社奉行に訴えが出された。幕府検使の臨検の後、明暦元年(1655年)に次の判決が出た。
- 訴えのあった守札の書付について、吹浦は鳥海山と書いていた証拠が無いので両所山と書き、蕨岡は大堂のある松岳山と書いていた証拠があるので松岳山と書くこと。
- 吹浦からの登山者を蕨岡は差し止めないこと。
- この裁断の後、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると言う認識が確定的なものとなり、山頂社殿の建替や嶺境争い等の山頂に関連した論争に吹浦は感知しない状態となってしまった。
- 蕨岡、矢島の御堂建替の論争
- 修験道には紀伊の熊野に始まった順峰と逆峰の2つの法式があるが、鳥海山においては蕨岡が順峰、矢島と滝沢が逆峰を称し、古来より順逆両部勤行の霊山として修行が行われていた。それにもかかわらず、矢島と滝沢の間に逆峰名称の論争が起き、また蕨岡と矢島の間には順逆の論争が発生した。この状況により滝沢は蕨岡の援助を得て逆峰院主を矢島から奪ったが、延宝6年(1678年)矢島は論争のすえ逆峰院主を取り戻した。これにより矢島と滝沢の逆峰院主の論争は終結し、また蕨岡と矢島も順逆お互いの法式を相犯さないと確認した。しかし元禄14年(1701年)山頂社殿建替えの話が上がると、矢島は逆峰側で建替えるのが至当であると、本山である三宝院に総代3名を送って陳訴した。これに対し三宝院は順逆両方で申し合わせのうえ相勤めよとの和解書を蕨岡へ出したが、これまで一山を取り仕切り、山頂社殿を建替えてきた蕨岡はこれを不服として三宝院へ訴状を出した。その後、順逆双方から書類を出し、同年11月に三宝院鳳閣寺より次の裁断が下された。
- この裁断により一旦は息を潜めたかに見えた順逆の論争であるが、山頂社殿建替後の遷宮式において矢島の群衆が棟札を奪い取る事件が発生し、再燃することとなる。
- 蕨岡、矢島の嶺境の論争
- 建替え論争に破れた矢島宗徒は、三宝院が「嶺境は行政の領分なので後日申し立てること」としたことを以って嶺境の訴訟を起こした。しかしながら嶺境問題は宗徒間のみならず庄内藩と矢島藩にとっても重大問題であることから、最後は両藩が相争う状態となって行く。元禄16年(1703年) 三宝院鳳閣寺はこれまでの建替論争の経過に付帯文書を添え、さらにその顛末を述べて幕府寺社奉行所に裁決を出願した。寺社奉行所では審理の末、嶺境は不明だが『日本三代実録』に大物忌神社が飽海郡山上にあることが明記されているので、棟札は飽海郡と書くのを妥当とし、嶺境は不問とするよう裁決を出した。この裁決に矢島宗徒は従わず、それに加え、この問題が重大な国境問題となる矢島藩が領内百姓の名を以って寺社奉行に訴え出た。ここに至り寺社奉行はこの問題を重大事と判断して評定所の審理に移した。評定所は庄内の修験百姓に答弁書提出を命じ、翌宝永元年(1704年)庄内修験百姓等は答弁書を提出した。これに対し矢島宗徒は吹浦宗徒の主張を利用し、大物忌神社は吹浦に遷座しており現在の山頂社殿は由利郡に属するものであると主張、追訴した。評定所は現地に検使を派遣して検分と共に聞き取り調査を行い、かつ双方の修験百姓を江戸に呼び出し吟味した結果、同年9月次の判決を言い渡した。
- 『日本三代実録』の記述どおり山頂社殿を大物忌神社とし、山頂社殿の所在する場所は飽海郡とする。[7]
- 西は笙野岳腰より稲村岳の8分に亘り、東は女郎岳の腰までをもって郡境と定める。
- これにより、由利郡側山腹(秋田側山腹)の7合目より以南が飽海郡になった。 また、この判決に関し、いくつかのいざこざが庄内藩と矢島藩の間に起こったと言われる。
- 吹浦の一宮名号使用の訴願
- 宝永元年(1704年)の評定所の判決以降、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると強く認識されるようになり、その勢力は増して行った。勢力の増大により、蕨岡宗徒は山頂社殿を出羽国一宮大物忌神社、蕨岡を鳥海山表口別当、吹浦を末社と称するに至り、吹浦大物忌神社は全く蕨岡に奪われたも同然の状態となってしまった。宝永4年(1707年)社家の進藤曾太夫邦實はこれを嘆き、回復を計らんとして一宮の名号を吹浦に許されることを庄内藩に訴願した。鶴岡の寺社奉行が吟味した結果、太夫の訴願は幕府の嶺境裁断において山頂社殿を大物忌神社とした際の判決を戻すとして、「公義御裁許破り」の罪名で太夫を出羽一国追放にした。
明治以降
明治元年(1868年)神仏分離令により当神社は「大物忌神社」に復した。明治4年(1871年)吹浦宮が国幣中社に指定されたが、かつての一宮争いのこともあり、明治14年(1881年)に山頂の宮を国幣中社に指定し直し、麓の吹浦および蕨岡の社殿を「口之宮」と定めた。『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』[8]によれば、吹浦と蕨岡のそれぞれに国幣中社大物忌神社の社務所を置き、宮司は吹浦に駐在するが、本殿への奉幣は両社務所が1年交替で行うと改めたのだと言う。
さらに同書によれば、第2次世界大戦後に旧社格が廃止されると、改めて吹浦を口之宮と定めて社務所をここに置き、蕨岡は摂社として遇される至ったのだと言う。昭和30年(1955年)社名を三社併せた総称として「鳥海山大物忌神社」へ改称し、現在は神社本庁が包括する別表神社となっている。
境内の風景
山頂御本社
山頂御本社 | |
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本殿(鳥居奥)および社務所(左) | |
所在地 | 山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字鳥海山1 |
位置 |
北緯39度5分51.43秒 東経140度2分55.21秒 / 北緯39.0976194度 東経140.0486694度 座標: 座標オプションが認識できません |
主祭神 | 大物忌神 |
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本殿、社務所、御室参籠所
行者岳(ぎょうじゃだけ)と七高山(しちこうさん)の中間付近、外輪山から見下ろした山頂御本社境内の全景。
境内は新山への登口に位置しており、山頂へ向かう登山者の休憩地になっている。 -
山頂御本社 鳥居
新山登口側にある鳥居。付近では休憩する登山者の姿が見られる。
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山頂御本社 本殿
風雨激しい鳥海山山頂にあることから、神殿は屋根覆いによって守られている。画像は本殿の内部。
吹浦口之宮
吹浦口之宮 | |
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拝殿および本殿 | |
所在地 | 山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1 |
位置 |
北緯39度04分30.45秒 東経139度52分44.05秒 / 北緯39.0751250度 東経139.8789028度 座標: 座標オプションが認識できません |
主祭神 | 大物忌神、月読命 |
例祭 | 5月4日 |
主な神事 |
管粥神事、御浜出神事 玉酒神事、物忌春祭 物忌冬祭、吹浦田楽 |
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吹浦口之宮 一の鳥居
奥には二の鳥居が見える。二の鳥居から続く急な階段を上るとテンプレート画像の拝殿と本殿がある。 -
吹浦口之宮 下拝殿
二の鳥居の直ぐ近くにある下拝殿。急な階段を上って本殿まで行かず、ここで参拝することもできる。
手前の石柱は北畠顕信祈願の碑。
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吹浦口之宮 本殿
2つ並んだ本殿の内、手前にあるのが大物忌神、奥が月山神である。
2神を祀る特徴的なこの配置が、両所宮と称される所以である。
蕨岡口之宮
蕨岡口之宮 | |
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本殿(兼拝殿) | |
所在地 | 山形県飽海郡遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡51 |
位置 |
北緯38度59分49.00秒 東経139度56分38.00秒 / 北緯38.9969444度 東経139.9438889度 座標: 座標オプションが認識できません |
主祭神 | 大物忌神 |
例祭 | 5月3日 |
主な神事 |
御種蒔神事、蕨岡延年 大注連縄神事 |
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蕨岡口之宮 一の鳥居と随神門
一の鳥居の背後にあるのが随神門。随神門を潜ると二の鳥居に上がる階段が見える。
この画像のすぐ右手方向には、往古、別当であった龍頭寺がある。 -
蕨岡口之宮 二の鳥居
二の鳥居の下まで行くと、テンプレート画像にある拝殿を兼ねた巨大な本殿が見える。
祭事
- 1月1日 歳旦祭 御頭舞奉納
- 1月5日 五日堂大祈祷 (五穀の占)
- 4月8日 祈年祭 (吹浦口之宮)
- 5月3日 蕨岡口之宮例大祭 蕨岡延年奉納
- 5月4日 吹浦口之宮例大祭 吹浦田楽奉納
- 5月5日 吹浦口之宮例大祭
- 7月1日 鳥海山夏山開祭 (吹浦口之宮)
- 7月14日 鳥海山火合せ神事 (山頂、御浜、西浜、飛鳥、宮海など)
- 7月15日 月山神社祭 (玉酒神事)
- 11月8日 新嘗祭 (吹浦口之宮)
- 11月9日 新嘗祭 (吹浦口之宮)
- 11月12日 新嘗祭 (蕨岡口之宮)
文化財
重要文化財(国指定)
- 鳥海山大物忌神社文書(正平十二年八月三十日北畠顕信寄進状、承久二年十二月三日鎌倉幕府奉行人連署奉書)[9]
国登録有形文化財
- 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮神楽殿
- 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮随神門
- 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮本殿
- 鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮本殿
- 鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮摂社月山神社本殿
- 鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮中門及び廻廊
- 鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮後神門及び玉垣
- 鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮拝殿及び登廊
- 鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮下拝殿
史跡
現地情報
- 所在地
脚注
- ^ 社伝では景行天皇の時代に出現し、欽明天皇25年(564年)鳥海山上に鎮座したとされる。永正7年(1510年)に著された『羽黒山年代記』では欽明天皇7年(546年)の出現としている。
- ^ 『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条には「出羽國司言。従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。人跡稀到。夏冬戴雪。禿無草木。去四月八日山上有火。」と記述されている。この記述では、大物忌神社の鎮座地は飽海郡にある山の上としか分からないが、『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、四時雪を戴いて草木も生えず、登山困難な高山で、しかも4月8日に噴火したとあるので鳥海山と推定される、と述べている。山形県 『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』 山形県 1979年3月 より。
- ^ a b c d 安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 国書刊行会 1982年11月 より。
- ^ いつごろから鳥海山と呼ばれたかは定かでないが、暦応5年(1342年)7月26日、藤原守重が息災延命の意趣をもって奉納した鰐口銘に、鳥海山とあるものが文字として確認できる最古のものである。
- ^ 『外記日記』の記述による。
- ^ 吹浦口之宮の所蔵文書で、昭和12年(1937年)国の重要文化財に指定されている。
- ^ 『鳥海山史』では、『日本三代実録』の誤読を蕨岡が強引に根拠とし、主張を行ったと述べている。すなわち『日本三代実録』貞観13年5月16日の条は「従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。」(従三位勳五等大物忌神社は飽海郡の山上に在り。巖石が壁立し。)ではなく「従三位勳五等大物忌神社在飽海郡。山上巖石壁立。」(従三位勳五等大物忌神社は飽海郡に在り。山上は巖石が壁立し。)が正しい読み方であり、大物忌神社は山頂を遥拝できる平地にあったので、山頂は飽海郡では無いと考察している。姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月 より。ちなみに『國史大系 第4巻 日本三代実録』では、貞観13年5月16日の条に「従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。」と句読点を付している。
- ^ 戸川安章 『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』 ㈲岩田書院 2005年2月 より。
- ^ 1937年に「北畠顕信寄進状・北条氏雑掌奉書」として重要文化財(当時の国宝)指定。1979年6月6日付けで指定名称を「鳥海山大物忌神社文書」に変更。
- ^ 2008年に「鳥海山大物忌神社境内地」として国の史跡に指定。2009年7月23日付けで指定範囲追加のうえ、指定名称を「鳥海山」に変更。
参考文献
- 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第9巻 本朝世紀』 ㈱吉川弘文館 1964年10月
- 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第10巻 日本紀略前編』 ㈱吉川弘文館 1965年5月
- 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第11巻 日本紀略後編・百錬抄』 ㈱吉川弘文館 1965年8月
- 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第4巻 日本三代実録』 ㈱吉川弘文館 1966年4月
- 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 続日本後紀』 ㈱吉川弘文館 1974年5月 (普及版)
- 安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 ㈱国書刊行会 1982年11月 (山形県郷土研究会 昭和6年刊の複製)
- 姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月
- 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』 ㈱白水社 1984年6月
- 中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月
- 山形県神社庁五十周年記念事業実行委員会出版部 編 『山形縣神社誌』 山形県神社庁 2000年4月
- 戸川安章 『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』 ㈲岩田書院 2005年2月
- 全国一の宮会編 公式ガイドブック『全国一の宮めぐり』 全国一の宮会 2008年12月