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'''日本への原子爆弾投下'''(にほんへのげんしばくだんとうか)は、[[第二次世界大戦]]の末期に当たる[[1945年]]8月に、[[アメリカ軍]]が[[日本]]に投下した二発の[[原子爆弾]]による[[空爆]]である。人類史上初めて[[核兵器]]が実戦使用されたものである。
'''日本への原子爆弾投下'''(にほんへのげんしばくだんとうか)は、[[第二次世界大戦]]の末期に当たる[[1945年]]8月に、[[アメリカ軍]]が[[大日本帝国|日本]]に投下した二発の[[原子爆弾]]による[[空襲|空爆]]である。人類史上初めて[[核兵器]]が実戦使用されたものである。


太平洋戦争([[大東戦争]]、アメリカでは[[第二次世界大戦]][[太平洋]][[戦線]])における日本本土での直接戦([[本土決戦]])を避け、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたという説(アメリカ政府公式説)と、第二次世界大戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示、併せてその[[放射線障害]]の[[人体実験]]を行うためであったという説などがある。
[[太平洋戦争]]([[大東戦争]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[第二次世界大戦]]太平洋戦線)における日本本土での直接戦([[本土決戦]])を避け、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたという説(アメリカ政府公式説)と、第二次世界大戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示、併せてその[[放射線障害]]の[[人体実験]]を行うためであったという説などがある。


*[[1945年]][[8月6日]]に日本の[[広島市]]に投下された原子爆弾については、「[[広島市への原子爆弾投下]]」を参照して下さい。
*[[1945年]][[8月6日]]に日本の[[広島市]]に投下された原子爆弾については、「[[広島市への原子爆弾投下]]」を参照して下さい。
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== 原子爆弾投下の背景と経緯 ==
== 原子爆弾投下の背景と経緯 ==
{{Main|マンハッタン計画|核兵器の歴史}}
{{Main|マンハッタン計画|核兵器の歴史}}

日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]第32代[[アメリカ合衆国大統領]]に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、[[マンハッタン計画]](DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは[[1943年]]5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。
日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]第32代[[アメリカ合衆国大統領]]に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、[[マンハッタン計画]](DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは[[1943年]]5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。


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=== ルーズベルトの決断 ===
=== ルーズベルトの決断 ===
[[ファイル:FDRfiresidechat2.jpg|thumb|ルーズベルト]]
[[ファイル:FDRfiresidechat2.jpg|thumb|ルーズベルト]]
[[1939年]][[9月1日]]に[[第二次世界大戦]]が勃発した。[[ナチス]]から逃れて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[亡命]]していた物理学者の[[レオ・シラード]]たちは、当時研究が始まっていた原子爆弾を[[ドイツ]]が保有することを憂慮し、アメリカが原子爆弾の開発を行うことをルーズベルト大統領へ進言する手紙を作成した。その署名者には同じ亡命科学者で著名な[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の名を借用した。この手紙は[[1939年]][[10月11日]]に送り届けられた。その手紙には原子爆弾の原材料となる[[ウラニウム]](ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。ヨーロッパの[[チェコ]]のウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカの[[コンゴ民主共和国|コンゴ]]のウラン鉱山をアメリカが早急におさえるように提言している。ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ[[核兵器]]の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった。
[[1939年]][[9月1日]]に[[第二次世界大戦]]が勃発した。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]から逃れて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[亡命]]していた物理学者の[[レオ・シラード]]たちは、当時研究が始まっていた原子爆弾を[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]が保有することを憂慮し、アメリカが原子爆弾の開発を行うことをルーズベルト大統領へ進言する[[手紙]]を作成した。その署名者には同じ亡命科学者で著名な[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の名を借用した。この手紙は[[1939年]][[10月11日]]に送り届けられた。その手紙には原子爆弾の原材料となる[[ウラン|ウラニウム]](ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。[[ヨーロッパ]]の[[チェコ]]のウラン鉱山はドイツの支配下であり、[[アフリカ]]の[[コンゴ民主共和国|コンゴ]]のウラン鉱山をアメリカが早急におさえるように提言している。ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった。

[[ファイル:Otto Frisch ID badge.png|thumb|フリッシュ PJ時のID Card]]
[[ファイル:Otto Frisch ID badge.png|thumb|フリッシュ PJ時のID Card]]
2年後の[[1941年]]7月、[[イギリス]]の亡命物理学者[[オットー・フリッシュ]] ([[:en:Otto Robert Frisch|Otto Robert Frisch]]) と[[ルドルフ・パイエルス]]が[[原子爆弾#ウラン原爆|ウラン型原子爆弾]]の基本原理とこれに必要なウランの[[臨界量]]の理論計算をレポートにまとめ、[[イギリス原子爆弾開発委員会]] ([[:en:MAUD Committee|MAUD Committee]]) に報告した<ref>[[:en:Frisch-Peierls memorandum|Frisch-Peierls memorandum]]</ref>。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた。[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|英国首相]]が北アフリカでのイギリス軍の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト米国大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。
2年後の[[1941年]]7月、[[イギリス]]の亡命物理学者[[オットー・フリッシュ]] ([[:en:Otto Robert Frisch|Otto Robert Frisch]]) と[[ルドルフ・パイエルス]]が[[原子爆弾#ウラン原爆|ウラン型原子爆弾]]の基本原理とこれに必要なウランの[[臨界量]]の理論計算をレポートにまとめ、[[イギリス原子爆弾開発委員会]] ([[:en:MAUD Committee|MAUD Committee]]) に報告した<ref>[[:en:Frisch-Peierls memorandum|Frisch-Peierls memorandum]]</ref>。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた。[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|英国首相]]が北アフリカでの[[イギリス軍]]の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト米国大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。


[[1942年]]6月、ルーズベルトは[[マンハッタン計画]]を秘密裏に開始させた。総括責任者には[[レズリー・グローヴス]]准将を任命した。[[1943年]]4月には[[ニューメキシコ州]]に有名な[[ロスアラモス研究所]]が設置される。開発総責任者は[[ロバート・オッペンハイマー]]博士。20億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]の資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。[[テネシー州]]オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の[[1944年]]6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
[[ファイル:Oppenheimer Los Alamos mugshot.jpg|thumb|オッペンハイマー, PJ時のID Card]]
[[ファイル:Oppenheimer Los Alamos mugshot.jpg|thumb|オッペンハイマー, PJ時のID Card]]
[[1944年]][[9月18日]]、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、[[ニューヨーク州]]ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定([[ハイドパーク協定]])であり、[[大日本帝国|日本]]への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。
[[1942年]]6月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させた。総括責任者には[[レズリー・グローヴス]]准将を任命した。[[1943年]]4月には[[ニューメキシコ州]]に有名な[[ロスアラモス研究所]]が設置される。開発総責任者は[[ロバート・オッペンハイマー]]博士。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。[[テネシー州]]オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の[[1944年]]6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。

[[1944年]][[9月18日]]、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、[[ニューヨーク州]]ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定([[ハイドパーク協定]])であり、日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。

前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊([[第509混成部隊]])の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。[[1944年]][[9月1日]]に隊長を任命された[[ポール・ティベッツ]]陸軍中佐は、12月に編成を完了し([[B-29]]計14機及び部隊総員1,767人)、[[ユタ州]]の[[ウェンドバー基地]]で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。[[1945年]]2月には原子爆弾投下機の基地は[[テニアン島]]に決定され、部隊は[[1945年]][[5月18日]]にテニアン島に移動した。


前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊([[第509混成部隊]])の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。[[1944年]][[9月1日]]に隊長を任命された[[ポール・ティベッツ]]陸軍中佐は、12月に編成を完了し([[B-29 (航空機)|B-29]]計14機及び部隊総員1,767人)、[[ユタ州]]の[[ウェンドバー基地]]で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。[[1945年]]2月には原子爆弾投下機の基地は[[テニアン島]]に決定され、部隊は[[1945年]][[5月18日]]にテニアン島に移動した。


=== 原子爆弾投下阻止の試みと挫折 ===
=== 原子爆弾投下阻止の試みと挫折 ===
[[デンマーク]]の理論物理学者[[ニールス・ボーア]]は、[[1939年]][[2月7日]]、[[ウラン]]同位体の中で[[ウラン235]]が低速[[中性子]]によって[[核分裂反応|核分裂]]すると予言し、同年[[4月25日]]に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
[[ファイル:Niels Bohr.jpg|thumb|ボーア]]
[[ファイル:Niels Bohr.jpg|thumb|ボーア]]
[[1939年]][[9月1日]]第二次世界大戦が勃発し、ナチスのヨーロッパ支配拡大と[[ユダヤ人]]迫害を見て、ボーアは[[1943年]]12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による[[原子力研究]]が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後[[ソビエト連邦|ソ連]]も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
[[デンマーク]]の理論物理学者[[ニールス・ボーア]]は、[[1939年]][[2月7日]]、[[ウラン]]同位体の中で[[ウラン235]]が低速[[中性子]]によって[[核分裂反応|核分裂]]すると予言し、同年[[4月25日]]に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。

[[1939年]][[9月1日]][[第二次世界大戦]]が勃発し、[[ナチス]]のヨーロッパ支配拡大と[[ユダヤ人]]迫害を見て、ボーアは[[1943年]]12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による[[原子力研究]]が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後[[ソ連]]も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。


[[1944年]][[5月16日]]にボーアはチャーチル英国首相と会談したが説得に失敗、同年[[8月26日]]にはルーズベルト米国大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年[[9月18日]]の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視とソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。ボーアは翌[[1945年]][[4月25日]]にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、ルーズベルトに彼の声が届くことはなかった。
[[1944年]][[5月16日]]にボーアはチャーチル英国首相と会談したが説得に失敗、同年[[8月26日]]にはルーズベルト米国大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年[[9月18日]]の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視とソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。ボーアは翌[[1945年]][[4月25日]]にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、ルーズベルトに彼の声が届くことはなかった。
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また別の科学者の動きとしては、[[1944年]]7月にシカゴ冶金研究所の[[アーサー・コンプトン]]が発足させた[[ジェフリーズ委員会]]が原子力計画の将来について検討を行い、[[1944年]][[11月18日]]に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しかしこの提言も生かされることはなかった。
また別の科学者の動きとしては、[[1944年]]7月にシカゴ冶金研究所の[[アーサー・コンプトン]]が発足させた[[ジェフリーズ委員会]]が原子力計画の将来について検討を行い、[[1944年]][[11月18日]]に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しかしこの提言も生かされることはなかった。


[[ドイツ]]降伏後の[[1945年]][[5月28日]]には、アメリカに核開発を進言したその人である[[レオ・シラード]]が、バーンズ国務長官に原子爆弾使用の反対を訴えている。
ドイツ降伏後の[[1945年]][[5月28日]]には、アメリカに核開発を進言したその人である[[レオ・シラード]]が、[[ジェームズ・F・バーンズ|バーンズ]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]に原子爆弾使用の反対を訴えている。

[[ファイル:James Franck.jpg|thumb|フランク]]
[[ファイル:James Franck.jpg|thumb|フランク]]
[[1945年]][[6月11日]]には、シカゴ大学の[[ジェイムス・フランク]]が、[[グレン・シーボーグ]]、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、エウゲニー・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「[[フランクレポート]]」を大統領諮問委員会に提出した。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、[[砂漠]]か[[無人島]]でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、アメリカ政府に拒絶された。また同レポートで、[[核兵器]]の国際管理の必要性をも訴えていた。
[[1945年]][[6月11日]]には、シカゴ大学の[[ジェイムス・フランク]]が、[[グレン・シーボーグ]]、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、エウゲニー・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「[[フランクレポート]]」を大統領諮問委員会に提出した。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、[[砂漠]]か[[無人島]]でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、アメリカ政府に拒絶された。また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた。


更に[[1945年]][[7月17日]]にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の書簡を提出したが、流れを変えることはできなかった。
更に[[1945年]][[7月17日]]にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の書簡を提出したが、流れを変えることはできなかった。
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# 小倉市:A級目標
# 小倉市:A級目標
このとき以下の3基準が示された<ref name="古都"/>。
このとき以下の3基準が示された<ref name="古都"/>。
* 直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
* 直径3[[マイル]]を超える大きな都市地域にある重要目標であること。
* 爆風によって効果的に破壊しうむものであること。
* 爆風によって効果的に破壊しうむものであること。
* 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
* 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
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並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]は、原子爆弾運搬の任務を与えられ[[1945年]][[7月16日]]に[[サンフランシスコ]]を出港し、[[7月28日]]に[[テニアン島]]に到着した。また陸軍航空隊の[[ダグラスC-54スカイマスター輸送機]]がウラン235のターゲットピースを空輸した。原子爆弾の最終組立はテニアン島の基地ですべて極秘に行われた。
並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]は、原子爆弾運搬の任務を与えられ[[1945年]][[7月16日]]に[[サンフランシスコ]]を出港し、[[7月28日]]に[[テニアン島]]に到着した。また陸軍航空隊の[[ダグラスC-54スカイマスター輸送機]]がウラン235のターゲットピースを空輸した。原子爆弾の最終組立はテニアン島の基地ですべて極秘に行われた。


このインディアナポリスは帰路の[[7月30日]]、[[フィリピン海]]で[[橋本以行]]海軍中佐指揮する日本海軍の[[伊号第五八潜水艦]]の魚雷により撃沈されている。この潜水艦は、当時特攻兵器である[[回天]]を搭載しており、回天隊員から出撃許可が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労や低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」とチョークで記された。インディアナポリスの艦長はその後[[軍法会議]]に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。戦後米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスが往路に撃沈されていれば、8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。
このインディアナポリスは帰路の[[7月30日]]、[[フィリピン海]]で[[橋本以行]]海軍中佐指揮する[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[伊号第五八潜水艦]]の魚雷により撃沈されている。この潜水艦は、当時特攻兵器である[[回天]]を搭載しており、回天隊員から出撃許可が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労や低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」とチョークで記された。インディアナポリスの艦長はその後[[軍法会議]]に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。戦後米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスが往路に撃沈されていれば、8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。


=== 日本の対応 ===
=== 日本の対応 ===
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その後6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機もしくは2~3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。しかしこれらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマン大統領の演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった<ref>『大本営参謀の情報戦記』pp.256-259</ref>。
その後6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機もしくは2~3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。しかしこれらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマン大統領の演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった<ref>『大本営参謀の情報戦記』pp.256-259</ref>。


そもそも日本軍は当時の米国における原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては「[[7月16日]]ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった<ref>『大本営参謀の情報戦記』p.257</ref>。もちろんこれは[[トリニティ実験]]を指した報道であったのであるが、実験直後の時点では内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。それを踏まえ堀は「原爆という語はその当時かけらほどもなかった」と語っている。また特情部では、当時[[スウェーデン]]を経由して入手した米国海軍の[[M-209暗号装置]]を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」の文字列が現れたのが[[8月11日]]<ref>『大本営参謀の情報戦記』p.260</ref>のことであった。
そもそも[[日本軍]]は当時の米国における原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては「[[7月16日]]ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった<ref>『大本営参謀の情報戦記』p.257</ref>。もちろんこれは[[トリニティ実験]]を指した報道であったのであるが、実験直後の時点では内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。それを踏まえ堀は「原爆という語はその当時かけらほどもなかった」と語っている。また特情部では、当時[[スウェーデン]]を経由して入手した米国海軍の[[M-209暗号装置]]を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」の文字列が現れたのが[[8月11日]]<ref>『大本営参謀の情報戦記』p.260</ref>のことであった。


当初は軍部は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島や長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。これによりSF小説や科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介されていた原爆が発明され、日本が戦略核攻撃を受けた事を国民は初めて知ったのである<ref>原爆報道は戦後になって[[連合国軍最高司令官総司令部]]によって禁止されたのであるが、被爆直後の広島からの生々しいルポは、戦時中の[[プロパガンダ]]を含むにせよ資料的価値は大きい。</ref>。
当初は軍部は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島や長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。これによりSF小説や科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介されていた原爆が発明され、日本が戦略核攻撃を受けた事を国民は初めて知ったのである<ref>原爆報道は戦後になって[[連合国軍最高司令官総司令部]]によって禁止されたのであるが、被爆直後の広島からの生々しいルポは、戦時中の[[プロパガンダ]]を含むにせよ資料的価値は大きい。</ref>。
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8月15日終戦の日の午前の[[ラジオ]]放送で、[[仁科芳雄]]博士は原爆の解説を行った。
8月15日終戦の日の午前の[[ラジオ]]放送で、[[仁科芳雄]]博士は原爆の解説を行った。


8月15日正午、戦争の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送([[玉音放送]])で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、無辜(むこ)の非戦鬪員を殺害傷害し、その悲惨な損害は本当に人間の考えの及ばない程である。)」と詔があった。
8月15日正午、戦争の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送([[玉音放送]])で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、無辜(むこ)の非戦鬪員を殺害傷害し、その悲惨な損害は本当に人間の考えの及ばない程である。)」と[[]]があった。


正確な犠牲者数等は[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)占領下では[[言論統制]]され、日本が主権を回復した[[1952年]]に初めて報道された。
正確な犠牲者数等は[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)占領下では[[言論統制]]され、[[日本]]が主権を回復した[[1952年]]に初めて報道された。


=== 第三の原子爆弾投下準備 ===
=== 第三の原子爆弾投下準備 ===
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== 被爆者への認識と対応 ==
== 被爆者への認識と対応 ==
東京地方裁判所は、1963年12月7日、被爆者は損害賠償請求権を持たないとして、日本へのアメリカ軍による原子爆弾投下は国際法に違反したものであり、また同時に大日本帝国の戦争責任を認め、引き継ぐ日本国が十分な救済策を執るべきは立法府及び内閣の責務であるとする判決を下し、確定した<ref>[http://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/rn_page/menu_page/side_menu_page/saiban_sosyou/tokyosaiban.htm 日本被団協「東京原爆裁判」]</ref><ref> [http://www.helpicrc.org/ihl-nat.nsf/46707c419d6bdfa24125673e00508145/aa559087dbcf1af5c1256a1c0029f14d?OpenDocument Shimoda et al. v. The State], Tokyo District Court, 7 December1963</ref>。以降、日本国内の被爆者関連の裁判において、この基本的な考え方が準用されてきた。
[[東京地方裁判所]]は、1963年12月7日、被爆者は損害賠償請求権を持たないとして、日本へのアメリカ軍による原子爆弾投下は国際法に違反したものであり、また同時に大日本帝国の戦争責任を認め、引き継ぐ日本国が十分な救済策を執るべきは立法府及び内閣の責務であるとする判決を下し、確定した<ref>[http://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/rn_page/menu_page/side_menu_page/saiban_sosyou/tokyosaiban.htm 日本被団協「東京原爆裁判」]</ref><ref> [http://www.helpicrc.org/ihl-nat.nsf/46707c419d6bdfa24125673e00508145/aa559087dbcf1af5c1256a1c0029f14d?OpenDocument Shimoda et al. v. The State], Tokyo District Court, 7 December1963</ref>。以降、日本国内の被爆者関連の裁判において、この基本的な考え方が準用されてきた。


日本では広島・長崎への原爆投下の「事実」を知らない人はほとんどいない。[[社会 (教科)|社会科]]・[[地理歴史|地歴]]の教材のほか、[[国語 (教科)|国語]]の説明文など、長年[[学校教育]]で触れられてきたこと、毎夏、テレビのドキュメンタリー番組や平和式典などで報じられているので、少なくとも[[小学校]]を卒業する頃にはほとんどの児童が知っている。しかしながら、「[[核兵器]]廃絶運動に関心も参加したこともない」とする者が20代、30代の男女で23~25%あり、若年層の問題意識の希薄化が進行している<ref>[[中国新聞]][http://www.chugoku-np.co.jp/abom/01abom/yoron/yoron.html 「『原爆の日』前に全国世論調査」](2001年7月16日)</ref>。
日本では広島・長崎への原爆投下の「事実」を知らない人はほとんどいない。[[社会 (教科)|社会科]]・[[地理歴史|地歴]]の教材のほか、[[国語 (教科)|国語]]の説明文など、長年[[学校教育]]で触れられてきたこと、毎夏、テレビのドキュメンタリー番組や平和式典などで報じられているので、少なくとも[[小学校]]を卒業する頃にはほとんどの児童が知っている。しかしながら、「核兵器廃絶運動に関心も参加したこともない」とする者が20代、30代の男女で23~25%あり、若年層の問題意識の希薄化が進行している<ref>[[中国新聞]][http://www.chugoku-np.co.jp/abom/01abom/yoron/yoron.html 「『原爆の日』前に全国世論調査」](2001年7月16日)</ref>。


世界で唯一、戦争における原子爆弾の直接被害を受けた国ではあるが、この経験は太平洋戦争終結直後から[[反米]]感情や報復意識にはつながっていない。1946年の日本でのアメリカ戦略爆撃調査団による大規模調査結果によると、広島、長崎では19%、日本全体でもわずか12% の被調査者のみが、原爆投下に対しアメリカに憎しみを感じたという。また戦後20年間の書籍、新聞、雑誌の原爆論関連の論調は、おおむね原爆の悲惨さを訴えるものが多く、アメリカへの恨みはほとんどないという<ref>[http://www.kuis.ac.jp/icci/publications/kiyo/pdfs/14/14_05.pdf 手塚千鶴子 著「日米の原爆認識」(2002年)]</ref>。すなわち太平洋戦争終結直後より、単に二度と起きてはならない[[悲劇]]と受け止める傾向が一般的に見られる。被害の惨状を伝え原爆死没者の霊を弔い被爆者の苦しみを想うことが、平和を祈念する行為であるという受け止め方が多い。
世界で唯一、戦争における原子爆弾の直接被害を受けた国ではあるが、この経験は太平洋戦争終結直後から[[反米]]感情や報復意識にはつながっていない。1946年の日本での[[米国戦略爆撃調査団|アメリカ戦略爆撃調査団]]による大規模調査結果によると、広島、長崎では19%、日本全体でもわずか12% の被調査者のみが、原爆投下に対しアメリカに憎しみを感じたという。また戦後20年間の書籍、新聞、雑誌の原爆論関連の論調は、おおむね原爆の悲惨さを訴えるものが多く、アメリカへの恨みはほとんどないという<ref>[http://www.kuis.ac.jp/icci/publications/kiyo/pdfs/14/14_05.pdf 手塚千鶴子 著「日米の原爆認識」(2002年)]</ref>。すなわち太平洋戦争終結直後より、単に二度と起きてはならない[[悲劇]]と受け止める傾向が一般的に見られる。被害の惨状を伝え原爆死没者の霊を弔い被爆者の苦しみを想うことが、平和を祈念する行為であるという受け止め方が多い。


国の被爆者援護施策は、1957年4月の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」が創設されて以降である。しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね充実したのは実に1995年7月の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)の施行以降である<ref>[http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/17.html 「被爆者援護施策の歴史」厚生労働省]</ref>。
国の被爆者援護施策は、1957年4月の「[[原子爆弾被爆者の医療等に関する法律]]」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」が創設されて以降である。しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね充実したのは実に1995年7月の「[[原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律]]」(被爆者援護法)の施行以降である<ref>[http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/17.html 「被爆者援護施策の歴史」厚生労働省]</ref>。


ヒロシマ・ナガサキの悲劇は、2009年現在においてもなお終結しているものとはいえない。他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や放射能によってもたらされる難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあり、生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続く。さらに現在のところ公式には否定されているものの、被爆者を親に持つ子(被爆二世)さらに被爆三世への健康影響(遺伝的影響)が懸念されていることから、広島市では被爆二世への健康診断(任意検診)も開始されている。
ヒロシマ・ナガサキの悲劇は、2009年現在においてもなお終結しているものとはいえない。他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や[[放射能]]によってもたらされる難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあり、生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続く。さらに現在のところ公式には否定されているものの、被爆者を親に持つ子(被爆二世)さらに被爆三世への健康影響(遺伝的影響)が懸念されていることから、広島市では被爆二世への健康診断(任意検診)も開始されている。
<!--以下は節題に合致しなくなったため、コメントアウトするが、今後、新節追加・節題変更等があれば再掲載すべき記述である。
<!--以下は節題に合致しなくなったため、コメントアウトするが、今後、新節追加・節題変更等があれば再掲載すべき記述である。
過去、広島平和祈念公園の慰霊碑にある「過ちは繰り返しませんから」の「主語問題」(誰が過ちを繰り返さないのか?)や、[[昭和天皇]]による「原爆はやむを得ない」発言<ref>1975年10月31日、日本記者クラブ主催の記者会見にて</ref>、元長崎市長の[[本島等]]の「日本軍が起こした戦争に対する当然の報い」発言<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2005/kiji/05/2502.html 2005年5月25日長崎新聞など。]</ref>、元防衛相の[[久間章生]]による「原爆はしょうがない」発言<ref>2007年6月30日、麗沢大講演。</ref>など枚挙にいとまがなく、被爆者やその遺族・家族団体などからの批判は絶えない。なお、[[湾岸戦争]]以降にアメリカ軍などが使用している[[劣化ウラン弾]]については、その放射能による被害があるとして、[[原水禁]]などの反戦平和団体が抗議をおこなっている(詳細は項目参照)。-->
過去、広島平和祈念公園の慰霊碑にある「過ちは繰り返しませんから」の「主語問題」(誰が過ちを繰り返さないのか?)や、[[昭和天皇]]による「原爆はやむを得ない」発言<ref>1975年10月31日、日本記者クラブ主催の記者会見にて</ref>、元長崎市長の[[本島等]]の「日本軍が起こした戦争に対する当然の報い」発言<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2005/kiji/05/2502.html 2005年5月25日長崎新聞など。]</ref>、元防衛相の[[久間章生]]による「原爆はしょうがない」発言<ref>2007年6月30日、麗沢大講演。</ref>など枚挙にいとまがなく、被爆者やその遺族・家族団体などからの批判は絶えない。なお、[[湾岸戦争]]以降にアメリカ軍などが使用している[[劣化ウラン弾]]については、その放射能による被害があるとして、[[原水禁]]などの反戦平和団体が抗議をおこなっている(詳細は項目参照)。-->

2010年5月28日 (金) 11:47時点における版

日本への原子爆弾投下(にほんへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦の末期に当たる1945年8月に、アメリカ軍日本に投下した二発の原子爆弾による空爆である。人類史上初めて核兵器が実戦使用されたものである。

太平洋戦争大東亜戦争アメリカでは第二次世界大戦太平洋戦線)における日本本土での直接戦(本土決戦)を避け、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたという説(アメリカ政府公式説)と、第二次世界大戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示、併せてその放射線障害人体実験を行うためであったという説などがある。

本稿ではこの二発の原子爆弾に、投下されなかった三発目の原子爆弾を含めて述べる。

原子爆弾投下の背景と経緯

日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト第32代アメリカ合衆国大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。

具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。また、京都市小倉市(現・北九州市、長崎市に投下された原子爆弾・ファットマンの当初目標地)などが候補地とされていた。

ルーズベルトの決断

ルーズベルト

1939年9月1日第二次世界大戦が勃発した。ナチスから逃れてアメリカ亡命していた物理学者のレオ・シラードたちは、当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有することを憂慮し、アメリカが原子爆弾の開発を行うことをルーズベルト大統領へ進言する手紙を作成した。その署名者には同じ亡命科学者で著名なアインシュタインの名を借用した。この手紙は1939年10月11日に送り届けられた。その手紙には原子爆弾の原材料となるウラニウム(ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。ヨーロッパチェコのウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカコンゴのウラン鉱山をアメリカが早急におさえるように提言している。ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった。

フリッシュ PJ時のID Card

2年後の1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・フリッシュ (Otto Robert Frisch) とルドルフ・パイエルスウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポートにまとめ、イギリス原子爆弾開発委員会 (MAUD Committee) に報告した[1]。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた。ウィンストン・チャーチル英国首相が北アフリカでのイギリス軍の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト米国大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。

1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置される。開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。

オッペンハイマー, PJ時のID Card

1944年9月18日、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、ニューヨーク州ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。

前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第509混成部隊)の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機及び部隊総員1,767人)、ユタ州ウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。1945年2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動した。

原子爆弾投下阻止の試みと挫折

デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。

ボーア

1939年9月1日第二次世界大戦が勃発し、ナチスのヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。

1944年5月16日にボーアはチャーチル英国首相と会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルト米国大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視とソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。ボーアは翌1945年4月25日にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、ルーズベルトに彼の声が届くことはなかった。

また別の科学者の動きとしては、1944年7月にシカゴ冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しかしこの提言も生かされることはなかった。

ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、バーンズ国務長官に原子爆弾使用の反対を訴えている。

フランク

1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、エウゲニー・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会に提出した。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、アメリカ政府に拒絶された。また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた。

更に1945年7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の書簡を提出したが、流れを変えることはできなかった。

軍人では、アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを1945年7月20日トルーマン大統領に進言しており[2]アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的でロタ島への爆撃を示唆している。また政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することには反対する者もいた。

しかし結局、これら一連の原子爆弾投下阻止の試みが、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領の決意を動かすことはなかった。

原子爆弾投下都市の選定経緯

広島と長崎が原子爆弾による攻撃目標となった経緯[3]は、日本の各都市への通常兵器による精密爆撃焼夷弾爆撃が続けられる中で、以下のようなものであった。

1943年5月5日軍事政策委員会、最初の原子爆弾使用について議論され、トラック島に集結する日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった[4]

1944年11月24日~翌3月9日 通常兵器による空爆第一期。軍需工場を主要な目標とした精密爆撃の時期。ただし、カーチス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められていた。

1945年3月10日6月15日 通常兵器による空爆第二期。大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃の時期。

ポツダム会談でのトルーマン(左チャーチル, 右スターリン)

1945年4月12日のルーズベルト大統領の急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンには、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。

1945年4月中旬~5月中旬 沖縄戦を支援するために九州と四国の飛行場を重点的に爆撃、大都市への焼夷弾爆撃が中断した。このため京都大空襲が遅れた[4]

1945年4月27日、第1回目標選定委員会で、

日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。東京都区部横浜市名古屋市大阪市京都市神戸市八幡市長崎市[4]
次の17都市及び地点が研究対象とされた。東京湾川崎市横浜市名古屋市京都市大阪市神戸市、広島市、呉市下関市山口市八幡市、小倉市、熊本市福岡市、長崎市、佐世保市

1945年5月10日-11日、第2回目標選定委員会、ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市がはじめて選定された[4]

  1. 京都市:AA級目標
  2. 広島市:AA級目標
  3. 横浜市:A級目標
  4. 小倉市:A級目標

このとき以下の3基準が示された[4]

  • 直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
  • 爆風によって効果的に破壊しうむものであること。
  • 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。

1945年5月28日、第3回目標選定委員会、京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された[4]

  • 投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
  • 投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
  • 投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。

これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが「○○には空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。

1945年5月29日、目標から外された翌日に横浜大空襲

1945年6月1日、暫定委員会(委員長:ヘンリー・スチムソン陸軍長官)は、

原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、
それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。
その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない。

と決定した[4]。なお原子爆弾投下の事前警告については、BBCニューデリー放送)やVOAサイパン放送)で通告されていたという説[5]もあるが、一般的に認められているわけではない。

この経過のなかで、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた[4]

  • 人口100万を超す大都市であること。
  • 日本の古都であること。
  • 多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。
  • 小さな軍需工場が多数存在していること。
  • 原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。

しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスチムソン陸軍長官の強い反対や、戦後、「アメリカと親しい日本」をつくる上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感をかう懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。

1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。しかし京都への爆撃禁止命令は継続された[4]

1945年6月16日~終戦まで、通常兵器による空爆第三期。中小都市への焼夷弾爆撃の時期。

1945年6月30日、アメリカ軍統合参謀本部がマッカーサー将軍、ニミッツ提督、アーノルド大将あてに、原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた[6][4]

新しい指令が統合参謀本部によって発せられないかぎり、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。
右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。

1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった[4]

1945年7月20日パンプキン爆弾による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された[7]

1945年7月21日、ワシントンのハリソン陸軍長官特別顧問(暫定委員会委員長代行)からポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスチムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スチムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電をし、京都市の除外が決定した[6][4]

1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。スチムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことがうかがえる[6][4]。トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。」とある[6]

1945年7月25日、トルーマン大統領が原子爆弾投下の指令を承認し、ハンディ陸軍参謀総長代行からスパーツ陸軍戦略航空隊総指揮官あてに原子爆弾投下が指令された。ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた[6][7][4]

1945年8月2日、第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった[7][4]

1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。

1945年8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった[7][8]

1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。

模擬原子爆弾「パンプキン」の投下訓練

1945年7月20日以降、第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg)の投下訓練を繰り返した。すなわち原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。

パンプキン練習作戦は、7月24日、7月26日、7月29日、8月8日、8月14日と終戦直前まで行われた。

原子爆弾の輸送

重巡洋艦インディアナポリス

並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦インディアナポリスは、原子爆弾運搬の任務を与えられ1945年7月16日サンフランシスコを出港し、7月28日テニアン島に到着した。また陸軍航空隊のダグラスC-54スカイマスター輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。原子爆弾の最終組立はテニアン島の基地ですべて極秘に行われた。

このインディアナポリスは帰路の7月30日フィリピン海橋本以行海軍中佐指揮する日本海軍伊号第五八潜水艦の魚雷により撃沈されている。この潜水艦は、当時特攻兵器である回天を搭載しており、回天隊員から出撃許可が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労や低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」とチョークで記された。インディアナポリスの艦長はその後軍法会議に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。戦後米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスが往路に撃沈されていれば、8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。

日本の対応

当時、大本営帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン方面のB-29部隊について主に電波傍受によりその動向を24時間体制で監視していた。大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島に進出したことや、進出してきたB-29の中の一機が長文の電報をワシントンに向けて打電したこと、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的にV400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、新部隊の進出を察知していた[9]

その後6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機もしくは2~3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。しかしこれらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマン大統領の演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった[10]

そもそも日本軍は当時の米国における原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては「7月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった[11]。もちろんこれはトリニティ実験を指した報道であったのであるが、実験直後の時点では内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。それを踏まえ堀は「原爆という語はその当時かけらほどもなかった」と語っている。また特情部では、当時スウェーデンを経由して入手した米国海軍のM-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」の文字列が現れたのが8月11日[12]のことであった。

当初は軍部は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島や長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。これによりSF小説や科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介されていた原爆が発明され、日本が戦略核攻撃を受けた事を国民は初めて知ったのである[13]

なお、この原爆報道により、パニックに陥った新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出した。これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認することもあった。

8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。

8月15日正午、戦争の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、無辜(むこ)の非戦鬪員を殺害傷害し、その悲惨な損害は本当に人間の考えの及ばない程である。)」とがあった。

正確な犠牲者数等は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)占領下では言論統制され、日本が主権を回復した1952年に初めて報道された。

第三の原子爆弾投下準備

長崎市への原子爆弾投下後、テニアン島に原子爆弾はなかったが、プルトニウム以外の原子爆弾の部品は用意されており、プルトニウムをアメリカ本土から運んでくれば原子爆弾をすぐに組み立てて完成させることができる状態であった。8月14日にロスアラモス基地からプルトニウムが出荷され、8月20日前後には第三の原子爆弾を投下することが可能であったが、8月14日に日本から降伏通告が来たため、第三の原子爆弾が日本に投下されることはなかった。

第三の原子爆弾投下候補地は小倉市、京都市など諸説あるが、1945年8月14日に投下された7発のパンプキン爆弾の愛知県への投下は、3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都上空を経由した後に愛知県に投下していることから、第三の原子爆弾の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている[4]

被爆者への認識と対応

東京地方裁判所は、1963年12月7日、被爆者は損害賠償請求権を持たないとして、日本へのアメリカ軍による原子爆弾投下は国際法に違反したものであり、また同時に大日本帝国の戦争責任を認め、引き継ぐ日本国が十分な救済策を執るべきは立法府及び内閣の責務であるとする判決を下し、確定した[14][15]。以降、日本国内の被爆者関連の裁判において、この基本的な考え方が準用されてきた。

日本では広島・長崎への原爆投下の「事実」を知らない人はほとんどいない。社会科地歴の教材のほか、国語の説明文など、長年学校教育で触れられてきたこと、毎夏、テレビのドキュメンタリー番組や平和式典などで報じられているので、少なくとも小学校を卒業する頃にはほとんどの児童が知っている。しかしながら、「核兵器廃絶運動に関心も参加したこともない」とする者が20代、30代の男女で23~25%あり、若年層の問題意識の希薄化が進行している[16]

世界で唯一、戦争における原子爆弾の直接被害を受けた国ではあるが、この経験は太平洋戦争終結直後から反米感情や報復意識にはつながっていない。1946年の日本でのアメリカ戦略爆撃調査団による大規模調査結果によると、広島、長崎では19%、日本全体でもわずか12% の被調査者のみが、原爆投下に対しアメリカに憎しみを感じたという。また戦後20年間の書籍、新聞、雑誌の原爆論関連の論調は、おおむね原爆の悲惨さを訴えるものが多く、アメリカへの恨みはほとんどないという[17]。すなわち太平洋戦争終結直後より、単に二度と起きてはならない悲劇と受け止める傾向が一般的に見られる。被害の惨状を伝え原爆死没者の霊を弔い被爆者の苦しみを想うことが、平和を祈念する行為であるという受け止め方が多い。

国の被爆者援護施策は、1957年4月の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」が創設されて以降である。しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね充実したのは実に1995年7月の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)の施行以降である[18]

ヒロシマ・ナガサキの悲劇は、2009年現在においてもなお終結しているものとはいえない。他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や放射能によってもたらされる難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあり、生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続く。さらに現在のところ公式には否定されているものの、被爆者を親に持つ子(被爆二世)さらに被爆三世への健康影響(遺伝的影響)が懸念されていることから、広島市では被爆二世への健康診断(任意検診)も開始されている。

各国の原子爆弾投下の歴史認識

アメリカ

客観的な世論調査などによる、大衆認識の実態を知ることのできる資料は乏しい。

1946年スティムソン陸軍長官名での原爆投下に関する論文には、上陸作戦で予想される100万人の米兵の犠牲を避け、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であったとする旨の説明がなされていた。(なおその後の公文書公開に伴い、歴史研究者によってこの論文は「宣伝」の為のものであったことが明確になっている。)Wikipedia英語版では賛成派と反対派の論争なども見受けられる。(各論のディベートはen:Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki参照。)

なお、アメリカ同時多発テロ事件以降、国家ではなくテロリストによる核兵器使用の脅威の見地から派生して、米国政府内でも賛否両論となっている[19]

中国・韓国

米国と同じく、客観的な世論調査などによる、大衆認識の実態を知ることのできる資料は乏しい。

中国の歴史教科書では、原子爆弾投下を含めた日本に対する戦争行為は、「反ファシズム戦争」としてとらえて肯定する姿勢が明白である。しかし「日本帝国主義」「侵略者」などの概念は限定されたものであることが伺え、アジアへの加害者は「日本国民」や「日本」そのものではなく、あくまで「日本帝国主義」「日本ファシズム」であるとし、日本国民の大半は「被害者」として扱われ、中国人民と同様な苦難を嘗めてきたとされている。すなわちアメリカによる原子爆弾投下は正当なものであったが、その結果は被爆者に多大な苦難を強いるものとなったという認識である[20]。また中国の教科書においては、日本で使われる「終戦」という言葉は容認されておらず、あくまでも「敗戦」、「日本帝国主義」「日本ファシズム」を曖昧なものにしないという姿勢が貫かれている[21]

一方、韓国の義務教育課程で使われる韓国史教科書は1970年代より国定教科書となっているが、この中で原子爆弾に関する「特筆」はなく「日帝」という言葉を明確に用いて、併合から独立(8・15光復)までの記載がなされているのみである[22]検定済教科書である『中学校 社会2』(内容は世界史)と『高等学校 世界史』には「日本に原爆が投下されて終戦」など短く書いてある。なお被爆者については、ソンジ文化社の『中学校 社会2』など、詳しく書かれている教科書もある。

韓国の場合「日本国政府の戦争責任」を問い、被爆者健康手帳の交付を申請、認められてこれを所有する在韓・在日韓国人被爆者があり、日本国内で日本人被爆者と等しく治療を受けている人がいる。

脚注

  1. ^ Frisch-Peierls memorandum
  2. ^ 参照:ハリー・S・トルーマン#大統領職(『スチムソン回想録』)
  3. ^ 荒井信一「原爆投下への道」東京大学出版会、1985年11月。ISBN13 978-4130230339
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 吉田守男「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日文庫、2002年8月。ISBN 4-02-261353-X
  5. ^ 黒木雄司『原爆投下は予告されていた!』光人社、1992年7月、ISBN 978-4-7698-0619-6
  6. ^ a b c d e 山極晃・立花誠逸編『資料マンハッタン計画』大月書店、1993年、ISBN 9784272520268
  7. ^ a b c d 奥住・工藤・桂訳『米軍資料 原爆投下報告書-パンプキンと広島・長崎』東方出版、1993年、ISBN 9784885913501
  8. ^ 奥住喜重・工藤洋三訳『米軍資料 原爆投下の経緯-ウェンドーヴァーから広島・長崎まで』東方出版、1996年、ISBN 9784885914980
  9. ^ 堀栄三『大本営参謀の情報戦記 - 情報なき国家の悲劇』文春文庫、1996年、ISBN 978-4-16-727402-3、p.254。
  10. ^ 『大本営参謀の情報戦記』pp.256-259
  11. ^ 『大本営参謀の情報戦記』p.257
  12. ^ 『大本営参謀の情報戦記』p.260
  13. ^ 原爆報道は戦後になって連合国軍最高司令官総司令部によって禁止されたのであるが、被爆直後の広島からの生々しいルポは、戦時中のプロパガンダを含むにせよ資料的価値は大きい。
  14. ^ 日本被団協「東京原爆裁判」
  15. ^ Shimoda et al. v. The State, Tokyo District Court, 7 December1963
  16. ^ 中国新聞「『原爆の日』前に全国世論調査」(2001年7月16日)
  17. ^ 手塚千鶴子 著「日米の原爆認識」(2002年)
  18. ^ 「被爆者援護施策の歴史」厚生労働省
  19. ^ 日本放送協会制作「クローズアップ現代」2010年5月20日放送。
  20. ^ 超 軍 著「中国歴史教科書における近現代日中関係史」
  21. ^ 超 軍 著「鏡としての歴史教育-中国歴史教科書の中の日本像-」駒沢女子大学研究紀要第4号、1997年2月。
  22. ^ 「韓国国定歴史教科書」(日本語)

関連項目

外部リンク