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仏教用語
思, チェータナー
パーリ語 चेतना (cetanā)
サンスクリット語 चेतना (cetanā)
チベット語 སེམས་པ།
(Wylie: sems pa;
THL: sempa
)
中国語
日本語
英語 volition,
intention,
directionality of mind,
attraction,
urge
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仏教用語における(し)とは、パーリ語およびサンスクリット語のチェータナー(Cetanā)に由来する言葉であり、一般的には意志、意図、方向性と訳される。特定の方向、目標、ゴールに向かおうとする意志を指す[1][2]

思は仏教経典の中で以下と定義されている。

上座部仏教[編集]

ひとは思によって身口意(=三業, さんごう)が形成される。行為(kamma)の善悪は、身口意として発現される意思によって決定されるのである[3]

Cetanāhaṃ bhikkhave kammaṃ vadāmi, cetayitvā kammaṃ karoti kāyena vācāya manasā,

比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。
思って(cetanā)から、身体(kāya)・言語(vāk)・意(manas)によって業をなす。[3]

—  パーリ仏典, 増支部洞察経, Sri Lanka Tripitaka Project

さらに仏教は、すべてのものに原因が存在するという見解に立つため(因果)、「思が自発的なものであること」の否定を認めていない[3]。その帰結として、悪行からは悪果を生むために(善因楽果・悪因苦果)、仏教は自律を説くのである[3]

脚注[編集]

  1. ^ Erik Pema Kunsang (translator) (2004). Gateway to Knowledge, Vol. 1. North Atlantic Books. p. 23.
  2. ^ Herbert V. Guenther & Leslie S. Kawamura, Mind in Buddhist Psychology: A Translation of Ye-shes rgyal-mtshan's "The Necklace of Clear Understanding" Dharma Publishing. Kindle Edition. (Kindle Locations 386-392).
  3. ^ a b c d e 馬場紀寿『初期仏教――ブッダの思想をたどる』〈岩波新書〉2018年、121-122頁。ISBN 978-4004317357 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]